ベイブ/クリス・ヌーナン監督
1995年の映画。BS放送を録画して観た。当時は結構話題になり、続編も作られた。
養豚場の豚として生まれたオスの一匹が、お祭りの景品としてある農場に引き取られた。様々な動物たちと交流しながら成長する中、ひょんなことから飼っている羊を助けたことからご主人に見込まれ、牧羊犬のコンテストに、豚でありながら出場することになるのだった。
今の目線から見ると、ずいぶん皮肉の利いた残酷な家畜物語なのだが、要するにこれが強烈な風刺を伴うギャグになっている。ほぼ全編そのようなブラックなギャグに貫かれた暗い奴隷物語になっているのだが、何しろ子豚のベイブは純粋な考え方の持ち主で、これらの風刺の中にあって、けな気さを保つ天使なのである。
しかしながらこれは、人間の強権的な家畜社会の枠組みの中だけの物語なので、何かに置き換えて考えてみると、今ではなかなか難しいものをかなり含んでいることが分かる。例えばこれは、奴隷制度時代の黒人の立場だったらどうなのだろう。飼い主の気まぐれのみで命さえ左右され、結局はその気分のためだけに尽くすしかない自由だとしたらどうだろう。これは他の人種にも当てはまりそうで、西洋人はみじんも気づいていないから描ける残酷ギャグであって、無頓着だからこそこの残酷を笑い飛ばせるという図式に変わりはない。だから家畜を擬人化するのは難しいのであって、特に長い歴史で食べることに特化した豚という存在というのは、生き物がどのように生きるかという問題とは、かなり異質なものであることを意識すべきではないだろうか。身近な存在であると同時に、考え出すとこのようなキャラクターにはとても使えない存在なのである(まあ、時代性もあるということだが)。
ということを一応は差し置いておかないと楽しめないのだが、子豚のベイブはやはり可愛くて、しかし可愛いからこそ日頃食べている身としては、哀愁を伴う。犬たちは可愛いと同時にさらに残酷な家畜の王者で、人間と食べられる家畜との中間に位置する特殊な動物である。彼らは同時に擬人化された社会だから同じような人間の言語を暗に種別を越えて話し合えるということになっていて、しかし立場上、種によってはお互いを理解しあえていない。その垣根を越えられるのが、純粋で偏見を持たないベイブなのである。考えすぎではあるが、今の国連にこのような存在がいると、ひょっとすると話し合いの垣根が越えられるのではないかと思ったりしたが、やはりこれとそれとは別の問題だろうな。残念です。