カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

いじめ問題というより人間社会と文化論   いじめの記号論

2023-01-26 | 読書

いじめの記号論/山口昌男著(岩波書店)

 著者山口自身の書いたいくつかの著書を底本として語られた複数の講演をまとめたものであるらしい。ですます調の口語調で書かれているが、しかし当然手直しもなされているものであろう。口頭での勢いもあり、確かに話があちこちに飛んだりもするが、しかしそういうまとまりでもって、いじめなどをテーマにして「文化」というものが語られているのかもしれない。
 自分の体験や、学校での勉強のことや、親子関係など身近なことも語られるが、神話にも飛ぶし、外国の話にもなる。対比されるものにはいじめの要素があるし、はみ出してもなるし、優秀でもなる。持ち上げられても落とされるし、踏みつけられた後にさらに掘られて埋められるかもしれない。
 前半にいじめられた過去の体験の作文の紹介があるのだが、この文章がたいへんに印象深い。妙な例えだが、村上春樹の短編「沈黙」になんとなく似ている。しかしながら内容は、いじめている主犯格より、その陰にいたもう一人への恨みの強さと、その人間の陰湿さにある。いじめとして具体的に殴ったり蹴ったりしていたものより、その傍にいて、いじめそのものに加担していた卑怯な存在こそ、いじめているものをひどく傷つける場合がある、ということかもしれない。それは見ているだけの第三者も、ある意味で同じである。いじめられている人間は、当然大きな傷を負うものだが、それは具体的に傷つけられることよりも、もっと大きな心の傷を負うものだということである。それはいじめを見つけられなかったとする先生も同じだし、その場にいるクラスメートという第三者も同じである。いじめを止められないことは、いじめに加担することと同義であるし、またいじめが起こる本質なのかもしれない。
 いじめられる具体的な背景というものは、数多い。それは人間社会そのものでもある。そのような異端を見つけ出し、差別化して生贄を作り出す。それは弱い人間だからということでは、必ずしも同じではない。絶頂に君臨していたものであっても、落とされる場合がある。また社会全体が、その繰り返しでもある。日本のマスコミ報道などを見てみるとすぐにいくつも例があるように、社会は平気で個人へ憎悪をあらわにして攻撃を繰り返している。時には、いや、その多くは、それを正義だとも思っている。
 問題は、そのように実際のいじめは悪いとはわかっていたところで無くなるものではないけれど、それを知ったうえでどのように生きるか、ということかもしれない。著者自身はたいへんに頭が良くて、なおかつ強烈な個性を持っているからそこ、自分なりに対処できた経験を持っているようだが、いじめの構造では、なかなかにそれができる人間というのは多くは無い。またいじめられている人間が、このような本の内容を理解できるとも限らない。ただし、いじめの本質的なものを理解していない、いじめの現場の人々の陰湿さというものが明らかにされることは、いじめの消失を早めることにはなるのかもしれない。ほとんど淡い期待に過ぎないのだが……。
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