カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

日本の女性を擁護する

2016-05-16 | culture

 日本人の女性を妻に持つとしあわせである、という話がある。これは古くからあるジョークがもとになっているのだろうと思われる。
 男のしあわせとは「アメリカ人の給与をもらい、英国の家に住み、中国人のコックを雇い、フランス人の愛人を囲い、日本人の妻を持つ(他の国を入れた、これの長いバージョンもある)」逆に不幸なのは「中国人の給与で、日本の家に住み、英国人のコックを雇い、スイス人の愛人を囲い、アメリカ人の妻を持つ」というオチにつながる。まあ、なんとなく良くできている。
 ところで、日本人の妻を持ちながら、フランス人の愛人を囲わなければならないところが気にならないだろうか。これでは日本人の妻が、そう、なんとなくお手伝いさんのような気もする。家のことをしっかりしてくれるのは素晴らしいことだが、ベッドだとフランス人が本当にいいんだろうか? 実際はよく知らないけれど、別にベッドでも日本人がいいんじゃなかろうか。
 美人研究で有名な井上章一が、日本人の女性のことを悪く言われると腹が立つ、というようなことを書いていたと思う。自分は民族主義者ではないと思っていたが、そこは譲れないということだったと思う。
 僕は特に熱心な愛国者というような人間でもないし、日本の悪いところはやっぱりあると素直に思うし(でもまあ日本の良さだって好きですけど)、はっきり言って日本の嫌いなところをあれこれ言われても、特に激しく反抗するような気分にならないクールさくらいは持っている。だって僕一人で戦うべき問題でもなさそうだし。
 しかしながら井上の意見には確かに激しく同意するような気分があって、フランス人やアメリカ人に比べて日本人が不美人であるというようなことを言われたとしたら、たぶん激しく反抗するのではあるまいか。そもそも美人の質というものが根本的に違うものだし、それをわからない人間からあれこれ言われるような筋合の問題では無い。それに実際に国際比較をしたとしたら、僕なら断然日本人を選ぶことになるだろう。そんなことは実に明晰なことで譲ることは許されない。
 たぶんそれは、フランス人やイタリア人や中国人が、その料理を貶されたときに感じるであろう激しい怒りに似ているのではないか。いや、たぶんだけれど。
 それにしてもこのジョークで微妙に貶されているスイス人の愛人っていうので、スイス人の男は傷つかないのだろうか? ついでだけどオランダ人の妻という意味のダッジ・ワイフという命名に対して、どうしてオランダ人は抗議しないのだろうか? 
 問題は何で自国の女性が貶されて、男である僕が傷つくのだろうか。僕のつれあいが日本人だからだろうか。でもたぶん僕の妻のことを言われているのではないことは明確だ。全体的な問題なのだ。美人問題というのは、なかなか厄介である。
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危うい自分という存在   プリディスティネーション

2016-05-15 | 映画

プリディスティネーション/マイケル&ピーター・スピエリック兄弟監督

 爆弾テロの犯人を追う時空警察の男は、その事件の元となるらしい過去に飛び、バーテンダーに扮して客の話を聞く。そこで若い常連らしい客が、自分の数奇な過去を話してくれるのだが…。
 タイムトラベルものだというのはなんとなく分かっていたが、そのためのパラドクスがテーマとなった、というか、ほとんどそのためだけの物語になっている。話の流れの通り楽しんで観たらいい映画で、娯楽としてなかなかよくできているのではないか。
 ネタを最初から知ってしまうと何もかも面白くないと思われるので、興味のある人はそのまま借りてみたらいいだろう。
 さて、そんなことを知らないで観たので、なるほどな、とそれなりに驚きの連続だった訳だが、ネタがばれるそのちょっと前あたりで、だいたいほんの少し先が読める仕掛けになっている。その度に、それじゃああんなことをしたりこんなことをしたりするのかな、と強烈な疑問がわいてくるのだが、しかし物語はその疑問の方向へ迷わず進んでいく。いや、それは良くできた話なんだが、それでいいのか? だったらもっと問題が大きくなってしまうよな、と思っていると、そのまま物語が進んでしまう。おいおい、それじゃあそんなことをしてしまうことになるぞ、と思ったら、やっぱりそんなことをしてしまう方向へ物語が進んでしまう。これは大変にイカンことでは無いか、と思うのだが、タイムマシンが出来てしまうと、そういうことが起こりうることになり、これは困ったことなんだな、と思うに至るしかない。人間の想像力というのは、まったく罪なものである。
 でもまあ、自分の過去がそうだったということを振り返ると、そのような決まったようなことが起こってくれなければ、自分自身の存在が成り立たないということはあるのかもしれない。僕は運命論者ではないが、それなりの過去の成り行きで、現在の自分があることは間違いなかろう。場合によっては違った将来、もしくは現在が成り立ちえたということもあるのかもしれないが、過去が変わらないから、現在は変わりようが無いようなものだ。結局タイムトラベルというのは、そういう現在の時間の在り方を揺るがせてしまうものだから、理論の上でしか成り立たない世界ということになる。しかし物理現象では、時間というのは時には未来過去が入れ替わることが可能であるということも分かっている。いや、分かっていると考えられている訳だ。人間が物理的に移動できるかどうかは分からないが、そのような事実が人間の想像力を激しく刺激してしまうということなんだろう。哲学者も時間問題は大好物だし、結局このような映画が(原作小説がまずあるが)、どうしても作られてしまう訳だ。人間の性(さが)を改めて考えさせられる物語なのだった。
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名前は残念な感じだが個性的なサメ・ニタリ

2016-05-14 | 雑記

 ニタリという名前のサメがいる。日本にもいるらしいが、あまり多くは見つからない。インド洋とかフィリピン沖などの比較的暖かい場所に多くいるようだ。現地語で何か意味があるのかと思っていたら、日本語の「似たり」が由来らしい。オナガザメに似ているという意味のようだ。オナガザメに似ているので尾がやたらに長い。不必要に長いようにも見える。しかしこの長い尾はそれなりに役に立っているようで、実はその長い尾を使って狩りをするのだ。
 イカなども食べるらしいといわれるが、実際には何を食っているのかは、そうまで知られていないようだ。目が大きいので深海魚のような感じもするが、浅瀬から300~500m位の範囲で活動していると思われる。昼に活動し、水面近くのプランクトンを狙って集まるイワシなどを捕獲する。普通のサメは(サメに限らず多くの魚は)そのまま咬みついたり、そのまま飲み込んだり、要するに食い付いて狩りをするのだが、先に紹介した通り、ニタリは、魚の群れなどに近づき、その尾っぽを振りかざし獲物のイワシなどを叩いたり、そのまま真っ二つに切り裂いたりする。そうして弱ったところをパクリと食べる。サメのくせに比較的おちょぼ口で、肉食のくせに人間などを襲うことも無いおとなしめの性格のようだ。狩りの仕方は変わっているし、水面を飛び跳ねたりするし(寄生虫を嫌っての行動と思われる)、その尾の長い姿はある意味では優雅だし、ダイバーなどにも人気があるという。
 しかしながらこのような狩りの仕方は必ずしも効率的では無いようで、弱った魚は別の肉食の大型魚などに横取りされたりしている。なかなか残念な感じなのだが、まあそれなりに食っていけてはいるんだろう。たくさんの生き物がいるような場所でなければ生きてはいけないだろうけれど。幼魚は二~四匹ずつしか生まないらしくて、簡単には増えない。要するにそういうところも控えめな感じかもしれない。謙虚に生き抜くということを体現しているのかどうかは分かりようは無いけれど。
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ひしひしと恐ろしいホラー世界がほのぼのと   カルト村で生まれました

2016-05-13 | 読書

カルト村で生まれました/高田かや著(文芸春秋)

 題名の通りの内容の漫画。ググってみるとすぐに分かるが、著者が子供時代に過ごしたカルト村というのは、ヤマギシ会という組織のものらしい。僕は九州だからなじみが無いけれど、関東地方などにいくつも点在して山の中で村を組織しているようだ。できるだけ自然(あくまでこの会が考える自然。それ自体がかなり不自然だからこの漫画は面白いのだ)の環境下で、有機農業を行いコミュニティをつくって生活することを善としてやっている集団のようだ。村の周りの人たちからは奇異の目で見られている(特に学校)様子も伝わるわけだが、ここで暮らす子供たちは、親からも離されて世話人の管理下に置かれた軟禁状態での集団生活を送っており、飢餓と暴力に支配された、それでもちょっとだけゆるい子供世界が広がっている。大人のエゴだらけの世界に子供が抵抗できないまま生活するとどうなるのか、というような社会実験の場が漫画になっていて、現在大人になって一般の生活に戻っている著者の目からもその異常性は批判的に(むしろ恨んでいるのも分かる)描かれてはいるものの、しかしなんとなくその批評性がズレているような感覚があるのも確かで、そういうバランスのズレ方に著者が無頓着である感じが、静かだがこの漫画の世界の異常性を引き立たせている感じがある。そうしてゆるいが恐ろしい世界が、本当にほのぼのとした思い出と共に再現されていく。明らかに幼い子供の心の傷を生産し続けている生活なのだが、子供は傷つきながらさらに鞭打たれ、そのまま飢餓に耐えながらも成長しなければならない。唯一心の中で反抗するとすれば、将来このような体験をさせたくない自分の子供を絶対に産まないという決意くらいのものなのだ。
 繰り返すが、この異常世界があまりにもほのぼのしているので、時々これはいい話も含まれているような期待を含んだ錯覚に陥るのだけれど、恐らく著者は絶対に二度とこの世界には帰らないだろうし、これからの現実としては、すでにほとんど興味を失っているようにさえみえる。以前と違って少しくらいは改善されて良くなっているのだろう、という感じなのだ。もちろんそれはそうかもしれないし、カルト村は現在も現存し、それなりの勢力も保ち、そうして共感を持つ人も集めながら有機農法で作られた食品などを売っている。日本という国の中にそのような独自の法治村がちゃんとある。なんだかシュールだな、と思う訳だ。
 恐ろしいが面白いカルト村の子供の世界を、ちびまる子ちゃんを読むように知ることが出来る。ある意味で漫画の可能性の広さを感じさせられる作品である。
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バンカーが好き

2016-05-12 | 散歩

 散歩されるのならゴルフなんかもされるんじゃないですか? と聞かれたこともある。その関連がよく分からないのだが、運動としてその人には似た分類なんだろうか。ゴルフはまったくやらない訳ではないかもしれないが、僕には難しすぎるのであんまりやらない。いつの間にかゴルフのクラブが少しずつ減ってしまって(ゴルフ場に忘れてくるらしい)ピッチングなんかも持ってない。7番とパターがあれば何とかなる、程度にしか思ってないし、そんな心構えでゴルフをしてしまうと、ゴルフが好きな人の癪に障るもののように思うので(実際にそう注意される)面白くないので行きたくもない。
 ゴルフ自体は大変に面白いとは思うのだけど、その面白さがくせものなのかもしれない。ハマってしまうのが、実は少し怖いのかもしれない。
 例えば僕はバンカーが特に好きだ。グリーンに乗らずにバンカーに入るのは確かに残念なんだけど、しかしあんがいこれが燃える。思い切って砂ごと打てるのもいいし、そうして抜けたときの解放感がまたいい。パターは気が重いだけでできればやりたくないが、バンカーは、やっぱりいいところだな、と思う。池に落ちると頭に血がのぼるけれど、砂に落ちるのはどうってことない。打った後に砂をならす作業まで楽しいくらいだ。
 しかしながらやっぱりしばらくはやらなくてもいいな。ゴルフが一二時間で終わるようなゲームだったら、ひょっとしてやり続けてもいいけれど、それくらいずっと歩いた方が、いろいろ考えたりできていいかもしれない。ゴルフの球は打たなくていいので、あの広っぱをずっと散歩する方が気持ちいいかもしれない。
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税金以外に金が流れていることだろう

2016-05-11 | 時事

 パナマ文書の衝撃は続いている。解説はもういいだろうけど、驚いている大衆のカマトトぶりに見ていて驚いているくらいだ。まあ、文書に書かれているだろう個人や企業の人たちもそれを見てさらに驚いているだろうけど。あわてて逃げても過去にさかのぼって糾弾するような動きもあるし、企業なら、それでもまあ過去のことだったし、と開き直る手もあるかもしれないが、政治家なんかだと、やはり現役の人はそれなりに困ることになるかもしれない。自分自身じゃなくても親戚を含めて糾弾しているし、怖いだけでなく本当に頭が痛いという感じじゃなかろうか。
 合法だから別にかまわないじゃないかというのは素直に思うが、合法だろうとダメだという世論が世界的にできたためにこんなに問題になった。逃げた人にとっては騒いでる人たちこそずるいじゃないか、という感じだろう。しかしながらバレなければ問題にならなかったということを考えると、やはり明らかさにされている方だって、少なからぬ後ろめたさがあるということは言えるだろう。文書を明らかにした人間たちこそ本来なら糾弾されてしかるべきだとは思うが、これが正義の蓑を被った連中だろうからやはりタチが悪いという感じだ。たぶんヤクザのようなものだろうから、これをもとにさらに金をゆする商売が水面下で活発化していることだろう。もう税金どころの問題では無い。詐欺が詐欺を呼び裏の金が動く。表面では大衆が正義で騒いでいる訳で、やり放題の裏商売が暗躍しやすくなった可能性が高い。もう絶対にバレたくないから、あげられる身代わり商売なんてものも発生するかもしれない。上手いアイディアを考え出した人は、それなりにひと財産築けるチャンスかもしれない。まあ、危ない橋には違いないけど。
 大衆的な立場をとると、金持ちや儲かっている企業から税金を取るのは普通に何の問題も無いことだと考えている人も多いかもしれないが、そのような税金というのは、働いたから取られる罰金のようなものだ。節税で回避しようとするのはだから普通に合理的な判断だったはずで、当たり前のことをしたら咎められる社会というのは、やはり歪んでいる。自分たちは逃げられずに税金を払っているなんてことを言う人もいるけど、やり方を知らないとんまだったから結果的になんも無かっただけのことだ。さらに低所得であればそんなに税金なんて払ってない訳で、怒りは少しは分かるが、単に乗せられているだけだろう。
 例えば日本なんかの場合を考えてみても、収入が1000万円を超えるような個人というのは2%程度(約200万人)とも言われている。実際にそのような所得がすべてとは言わないが、その分で全体の所得税の25%とかいうような税金は支払われている訳で、それ以上は何とか回避するというのは、税金を高くしてしまった国ではむしろ当然だろう。逃げないようにした方が国にとっていいというが、国際化した社会にとっては、そのような共産主義的な縛りは、さらに国を硬直させることになるだけだろう。本当に大きな企業は、さっさと本社機能はタックスヘイブンといわないまでも、安いところに流れるに決まっているのである。それが完全に自然に合理的な人間的行動である。
 そういうことであれば、騒げば騒ぐほどその国の将来的な力は削がれることになるだろう。気が付けば金持ちは逃げ去っているので、結局消費税のような比較的広く公平な税へと税制がシフトしていかざるを得なくなろう。結果的に騒いでいる人は、それで得だと本気で思っているならそれでいいだろうけど。
 国際的に足並みをそろえる国の連合が出来るはずだというのは幻想で、やはり足並みをそろえないことで生き残りをかける国だってあるのが自然なので、やり方はもっと巧妙になって、時々はこのような騒ぎがまた勃発することはあるかもしれないが、結局はもっと手の届かないやり方が洗練されていくことになるだろう。
 まあ、モラルと勘違いして騒ぐのは娯楽として快感があるらしいからそれも人間の摂理だが、これでそれらの国の税収の在り方が良い方に改善されることはさらに難しくなりそうだ。硬直の時代は将来の暗雲ととらえるべきではないだろうか。
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恐怖と背中合わせの喜劇

2016-05-10 | 時事

 米国大統領選の共和党の候補として、実質上トランプ氏が指名獲得を果たしたという。民主党からは順当にクリントン氏があがってくる模様だが、ここでの最終決戦では、予想上8:2でクリントン氏とは言われている。これは日本での報道を真に受けてのものだが、トランプ氏の大統領になる確率としてはまだ低いものだという揶揄も含まれた数字だということも割り引いた方がいいのではなかろうか。
 あらゆるところで様々な解説が面白おかしく聞こえては来るのだが、昨年末にトランプ氏という候補もいて、意外と善戦しているけれど、結局は共和党の候補者になる可能性は限りなく低いという論法ばかりであったと記憶している。だからむしろ余裕をもってトランプ旋風が起こってしまうアメリカ社会を笑い飛ばすような風潮が、その根底には流れていた。トランプ氏が善戦しているというけれど、多民族国家である米国において、トランプ氏が選ばれない理由は様々あり、いわゆるアメリカの良心というものが機能している限り、指名獲得レースでは最終的に失速せざるを得ない候補者だとされていた。そういうことを受けて、やはり僕自身も、これはお笑いだという認識で見ていたきらいはある。僕が知っている限りの話だが、トランプ氏が共和党候補に選ばれる第一の候補だと素直に書いていたのは一人しかいなくて、それも政治の記者では無くマネックス証券の松本大氏であった。その理由としては、現実としてトランプ氏が強いというのを素直に認めているということで、現実に強いのだからありうることだとするものだったと思う。さらにアメリカ人の今はアメリカだけのことを考えてハッピーだとする風潮があるのであって、世界の中のアメリカという位置をあまり考えない国内世論の高まりがあるのだということだった。たとえヒラリー・クリントンが大統領になったとしても、そのような声は無視できないもので、単純にトランプ氏が消えたとしても無くならない国内世論の姿であるということだった。
 そうしてそのような数少ない解説の方が、結局はやはり正しかったということの延長で、トランプ旋風は現在に至っているということなのだ。
 トランプ旋風というのはアメリカの世論の話ではあるが、これは日本の国内世論ということにも、確かに似た局面はあることを考えさせられる。日本だって保守勢力に限らず、いやそれ以外の勢力の方がむしろ、内向きの議論に終始し、国内問題を政府のみの責任として、国民の利益を最大化するために内向きだけの政策議論を展開する世論がそれなりに強い。結果的には日本の外交は小手先のものや先送りの繰り返しになっており、せっかく強い巨大な与党勢力でありながら、実は国内世論を完全に掌握できていない政治風景がある。さらに極左勢力の主張の米軍撤退の極論の話が、米国の極右の主張と同じになっているような皮肉なことになってしまっている。日米の安保条約の破棄や米軍撤退の可能性も、以前のゼロから数%以上の芽生えがあると考えてよく、そうなると逆に日本の軍拡や核兵器保有の道筋を、真面目に考え直す必要さえ出てきているとも言われている。憲法原理主義で解釈のみで法整備する危険性が、このように顕在化することは、本当に不幸なことではあるまいか。
 しかしながらこのような危機感を改めて喚起させる力のある現象がトランプ氏にはあり、現実的な政策としては、認識の誤りが多すぎて発言通りのことを、たとえ大統領になっても実行することは無いとは考えられるとはいえ、自らの発言の縛りを受けて、国際世論が揺さぶられる政策検討が、それなりになされるということも考えられるだろう。もはや北朝鮮を本当に米国は笑えるのか、というような喜劇ぶりなのだが、ここにきての日本の世論の受け止めは、さらに複雑な気分に突入したような感じである。
 まだ可能性は低いという見方をするマスコミの読みだけでこの模様を見守るのではなく、現実の可能性も吟味しながら、米国世論に対しても牽制の出来る準備をするべきではないのか。米国民が目覚めていない以上に、日本国民も寝ているようなものだ。ズラ疑惑のおっさんのコメディは(まあ、地毛らしいですけど)、日本の将来の悲劇であることは間違いない。そのような外交的な刺激無くして目覚めない国民の一人としては、まあ、それでもいいとはちょっとばかり思いはするのだけれど…(たぶんそれでも何も決めきれないかもしれないが)。
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漫画世界の正統性  魔女

2016-05-09 | 読書

魔女/五十嵐大介著(小学館)

 全2巻。絵が上手いというので興味をもった。まさに絵画的な漫画世界。不思議な話だが、ストーリーも面白い。
 実はNHKの「漫弁」という番組に著者が出ていて、緻密な絵を、アシスタントを使わずに書いている様子が紹介されていた。その絵を見ていて、直接というか、とにかく紙に書いてある絵を見たいと思った。漫画を読みたいと思った訳だ。もちろん商品だからこのようにアマゾンでクリックすると手元にマンガ本が届く。そうして手にしてまったく満足である。何しろ書かれていた世界がこのようなものだったと具体的に分かる。そうして正直に言って、テレビで見てみたいと感じていた絵というのが、まさに想像以上に凄いということが分かった。このクオリティで漫画としてストーリー展開されている。まったく凄いことである。もちろん他の漫画家の絵だって凄いものはたくさんあるのだが、なんというか、似ているものが他にもありながら、やはり絵画としての力のある絵なのである。それがいろいろなコマの絵として惜しみなく描かれている。クールジャパンだとかなんだとかいろいろ言われているものがたくさんある中で、やはり漫画世界というのは間違いなく世界に名だたるクールなんだな、と改めて思う訳だ。
 絵が素晴らしいから絵を眺めていたらいいのだけれど、いくつも連作になっている短編の物語の一つ一つが、なんだかものすごくクオリティが高いのである。天は二物を与えずというが、それにそもそも引用するものとして意味が違うが、幻想的な絵を書くことが出来て、そうしてそのままその幻想的な世界観のある物語を構想することが出来る。書いている人間が苦労しているかもしれないことをとりあえず忘れておくと、読む側の人間にとって大変に有意義な出来事である。テレビではアシスタントをほとんどおかずに書いているということであったのだが、そうするとたぶんこのような作品を量産することは出来ないだろうけれど、そういうことだけが、読者としては悲しいということになるのかもしれない。
 描かれている魔女としての女性は恐ろしい人ばかりだが、しかしながら特に僕らに危害を加えるわけではない。むしろ圧倒的な存在感で僕らを楽しませてくれた。そうしてこれらの話は、たぶん小説にしたり実写の映画にしたりすると、恐らくだがそこまでは効果的ではあり得ないだろう。漫画を読むというエンタティメントの在り方の、まさに正統的な作家なのではないだろうか。
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散歩は趣味じゃないけれど

2016-05-08 | 散歩

 趣味は何ですか? と時々聞かれる。初対面の人との雑談などで多いかもしれない。まるでお見合いの会話だ。そんなに考えないで答えたらいいのだが、音楽といっても僕のような中年でロックばっかり聞いてるのも正直に言いたくないし、読書などというのも無趣味っぽい。映画は好きだが映画館ではめったに観ないし、ブログ書いてるのも趣味なんだろうか。考え出すと実にめんどくさい。酒は飲むが趣味とは言えないし、ギャンブルは好きなはずだがまったくやらない。仕事や家庭が趣味だということを言う人がいるが、それを聞いた印象として信用できない気分になるので言いたくない。だいたい趣味とも思ってないし。
 この間はふと、散歩しますね、と言ってしまった。本当になんとなく。
 ちょっとしまったな、と思ったが、やっぱり健康の話などになった。僕は健康にはあんまり興味が無い。健康のことを気にする人というのは、それだけで精神的にずいぶん不健康である証拠だし、健康であることに感謝はしているが、それに無頓着でいられることが幸福だからだ。まあちょっとしたトピックとして付き合えない訳ではないが、そもそも健康のために歩いているような意識は希薄だ。
 散歩に行くのは実はものすごく億劫で好きなわけではない。行きたくないと思っているが、時々気持ちのいいことがある。そういう気分にだまされていると、もっと遠くに行こうかな、と思う。もう目的が何だったかさえよく分からないけど、一日に一時間程度は歩こうと決めているからできるだけ歩いているだけのことで、本当は悪い趣味なのかもしれない。
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古い現代人よさようなら   「読まなくてもいい本」の読書案内

2016-05-07 | 読書

「読まなくてもいい本」の読書案内/橘玲著(筑摩書房)

 副題に「知の最前線を5日間で探索する」とある。確かにブックガイドだが、その内容をダイジェストとして、またダイナミックに理解するのに大変に役立つ。その上でちゃんと本を読んだって構わないだろうけれど、これを読んだだけでもかなりその刺激的な知の転換の現実を思い知らされることになるだろう。ちょっとくらいかじっていたものもあったけれど、いやはや、驚きました。実に面白いです。
 著者がいうように、本を読むための時間を確保するためには、人生の時間というのは短すぎる。読むべき本はたくさんあるようだが、今となってはそういう本を集めて読むより、いっそのこと読まなくていいものを除外していった方が早いのではないか。その上に20世紀半ばからの半世紀で、知のビッグバンとも形容していい大きな学問的な潮流が出来ている。これはこれまでの学問の在り方を根底から破壊しかねない力がある。実際にこれまで名著として読まれてきたような教養書の中には、まったく的外れなことが確定してしまったものや、ほぼ間違いのオカルトの類に転落したものもあんがい多い。しかしながら、いまだにこれまでの学問の仕組みをもとに、研究されつづけているのが現実だ。とりあえず将来を見据えて、新しい潮流であるポストモダンな学問を紹介してブックガイドとする試みが本書である。紹介されている柱は、複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学、そして功利主義である。
 繰り返すが、これらの潮流と内容が、実にダイジェストに分かる仕組みになっている。ひとによってはにわかには信じがたい転換のなされている学問分野もあるのではないか。特に哲学といわれるような学問は、既にかなり古びて使い物にならなくなっていることに気づくだろう。現代的な流れの中の社会学にしたって、既にどうしようもない方向性をいまだに援用している人たちだって数多い。心理学なんて、過去の学問を知ってる常識人の方が、かえって自らを心理的に傷つけてしまっているかもしれない。進化論や脳科学は、人間の感情で否定しても、すでに勝負がついた後の焼け野原である。そうして功利主義は、将来の正しい政治の在り方を明確に示しているにもかかわらず、人間の感情がその理解を拒んでいるとしか思えない現在の政治の姿を浮かび上がらせている。
 要するにこれらのことを知ることは、現代人という古代の人を俯瞰する体験をすることになる。これを知っているのと知らないのとでは、人間としての現実の風景がまったく違うものになるのだ。以前のパラダイムでものを考えている人が幼稚に見えて、そのことに気付いてさえいない人が哀れに思えてしまう場合もあるのではあるまいか。まるでアーサー・C・クラークが描いたSFの未来の子供たちに、自らがなってしまったようなものである。
 読まなくていい本がたくさんできたところで、さて、これからはまだまだこれらの学問がスピードを上げて未来を切り開くだろう。享受できるのは、それらをいち早く知っているものだけである。やはり人生は短い。楽しみはどんどん先に味わうべきではないだろうか。
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母性を育てる

2016-05-06 | 感涙記

 以前は母性本能というような単語はよく耳にしたものだが、厳密に言って母性本能というのは女性にもともと備わった本能なのではないらしい。女だから子供が好きとは限らないのは実に当たり前のことで、当然であるのは考えなくても分かることだし、また、実際にそういう人は少なからずいることだろう。ただ、女性は子供を産む能力があるので、母性が備わっていると考えてしまう人が、どうしても出てくるというに過ぎないだろう。それを受けてあれこれ考えるというのはあるだろうけれど、だからといって事実が変わるわけではないし、母性というものが分からない女性がいても不思議ではない。また言葉としては不思議な感じがするかもしれないが、男にだって母性のようなものはあるような気がする。それは男が感じているのであるならば父性ではないか、と思われるかもしれないが、それとこれとはやはり違うものではないか。さらに父性というものは、同じく女性にもあるのではないかと疑っている。その方が、やはり自然だからだ。人の心のことなど理解しうるものかは分からないから知らないことだけれど、言葉の意味としてはそうとしかとらえられないことが多すぎる。さらにそのような解釈の方が、やはり自然なもののように感じられる。
 では母性のない母親はいるのか。実は子供と接すると、母性が芽生える、もしくは育まれるといわれている。子供を産んで、その子を抱くと、たちまち母性がすくすく出てくる感じのようだ。猛烈な幸福感と共に、母性が爆発するような感覚の人もいるらしい。さらにその後も子供と接する機会が多いので、母性が途切れなく出てくるということのようだ。
 実はこの母性は、わが子でなくてもいいらしい。他人の子供を抱いたときにも、母性というのは育つらしい。子育てを複数の人で助け合ってするだけで、多くの人が母性によって幸福感を得られるともいう。赤ん坊をかわるがわる抱っこするような光景は時々目にするが、これは大変に合理的な行為ではないか。さらに恐々と男性が抱っこしたとしても、やはりなんとなく母性が出てくるのではないか。僕はあんまり経験は無いけれど、いや、思い出してみると、そんなような気分があったようにも感じる。
 子供が小さかったころに、おんぶや抱っこをせがまれた。ほとんど体力勝負でへとへとになるのだが、体を動かした爽快感とは別に、なんだか嬉しい気分というのはあった。その後にビールなんかを飲むと、大変に旨いような気がした。考えてみると、あれが母性のようなものだったのだろうか。もう息子も僕より大きくなってしまったから、抱っこするわけにはいかない。ハグするような習慣も無いし、日本人はつまらないな。
 愛犬の杏月ちゃんの腰痛予防のために、階段の上り下りは抱っこをする。階段のそばに行くと杏月ちゃんは抱っこしやすい姿勢を取る。杏月ちゃんの体が僕の胸にふれると、ちょっとだけ幸福感があるようにも感じる。散歩のときも怖い犬がいるお宅の近くに行くと、そろそろ抱っこしてくれとせがむ。ひょいと抱っこすると犬の荒い息遣いが耳元に聞こえる。そういうのも心地いいかもしれない。
 今や人間同士でのふれあいからは、母性が育たない環境にいるのだろう。これは悲しむべきことか。いや、それでも母性が育つのならば、それはいいのではあるまいか。
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濃密な一日の物語  さよなら歌舞伎町

2016-05-05 | 映画

さよなら歌舞伎町/廣木隆一監督

 ラブホテルに集う人々のそれぞれの事情を描いた群像劇。たった一日だけの話だが、単なる定点観測というより、それまでとこれからも分かるようになっている。舞台がラブホテルということもあって、やたらに裸体が出てくるが、実用的なエロを目的とした映画ではなさそうだ(観る人の個人的な目的や事情までは知らないが)。5組のカップルが出てくる上に家庭やきょうだいの事情などもあるので、それぞれが単純に絡んだものということでは無い。しかしながら新宿という場所の風俗と、日本や韓国の社会問題なんかも同時に織り込まれていて、さらに犯罪の時効問題についてまで考えさせられたりする。基本的に何かに批判的であったりというような社会的な問題提起を目的としているようではなく、淡々とそのような問題が絡んだ個人のいろいろな事情に発展する様を描いている。
 それがなかなか成功しているように見えるのは、多少ご都合主義的な絡みがあるものの、それなりに背景が分かるような丁寧さもありながら、さらに語り過ぎない適度な距離感が見事なバランスを保っているためだと思う。これだけ煩雑なエピソードが続いてしまうとお腹いっぱいになってしまいがちだが、断片の切り取り方がいいので、適当に背景を勝手に見る方が想像してしまう。いろいろあるらしいが、彼らなりに合理的に行動しているらしいことに納得がいくようなところがある。AV女優や風俗嬢や家出娘やヤクザな人や警察や逃亡中の犯罪者など、おおよそ一般人とはかけ離れた人々だらけなんだけれど、それが新宿という街に実によく馴染んでいるという感じかもしれない。普通ならリアリティが欠けてしまうところなのに、身近な話としても理解できてしまうのだった。
 まあ、人間というのは全部を表に出せるような生活をしているような人ということの方が、実は少数派なのかもしれない。ものすごく変な人ばかりとまでは言えないにしろ、何とか日常を送っている人々にも、それなりに知られてはならない、もしくは単純に後ろめたいような事情を抱えたまま生きているという当たり前のことかもしれない。それは単純に個人的な責任問題だけに起因するものでは無くて、相対的に仕方のないものだってあるわけだ。知ってしまうとなかなかそのままでは済まないようなことも多々あるのだけれど、結局は感情的に折り合いをつける勇気が必要だ。あんまりまとめても意味は無いが、そんなようなことを自分なりに感じながら楽しんで観てよい映画であろう。
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上下が分からない

2016-05-04 | HORROR

 僕はダイビングの経験は無いが、やったことが無いのに潜っている人を見ているだけで、時々怖くなったりする。それはやはり潜っているときに何かトラブルがあるのではないかという恐れである。人間は水の中では息が出来ないから、酸素ボンベなんかにトラブルなどが起こると悲惨である。サメなどの凶暴なものも困るが、やはり深い場所に潜っているときに何か起こると、水面まで時間がかかりそうだというのが怖い気がする。何とか無事に終わってくれ、という思いが観ていて湧いてくる感じかもしれない。
 気圧の高い深い場所に潜っていて、急に水面に上がってしまうと、潜水病になるというのも怖い。上がりたくても留まっていなくてはならないなんて、殺生なことである。
 体験談としてしか知らないが、潜っていてハプニングに接したりすると、パニックを起こして上下の感覚を失うことがあるという。そうしてさらに深く潜ってしまうことがあるのだとか。ただでさえ何か恐ろしい目に会っているだろうにもかかわらず、さらにもっと自分の状況を苦しくすることを自分でしてしまうなんて、まったく耐えられない恐ろしさだ。
 上下の感覚を失うというのは、飛行機乗りの話なんかでも聞いたことがある。戦闘機などのパイロットが訓練などの時に、上下が分からずパニックに陥るなどの場面は、映画などの定番である。まさに手に汗握る。見ているだけでそうなのだから、パイロットなどという人種は、まったくマゾにもほどがあると思う。旅客機に乗っていて雲の中に入ると、前から飛行機が飛んできても分からないな、と考えるだけでずいぶん恐ろしい気分になる。一度考えてしまうと頭から離れないので、落語のチャンネルなどを探して没頭するようにしている。飛行機の落語は貴重であります(無い航空会社の時で、曇っているときは要注意である)。
 植物の種には重力センサーのようなものがあるという。土の中は真っ暗で、太陽の光が届かない。やみくもに根を伸ばしたり、芽を伸ばす方向をまちがってしまうと悲惨である。でも植物はちゃんと間違わない。それは重力に従って方向を決めているからだ。もっとも人間だって重力は分かっている。わざわざわかりにくい場所や環境に自ら進んで入り込んでしまうので、時々混乱してしまうということなんだろう。それにしてもあんな小さな種にも知恵がある。勝手に感心してしまうのも人間の才能である。
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傾聴して行動しよう

2016-05-03 | 時事

 熊本(および大分)の地震では多くの被害が出た。連日テレビなどの報道で見られるとおりで、多くの人もその実情はご存じだろう。また連休中にはたくさんのボランティアなど支援の人々が現地入りしていると聞く。誠に尊いことで、暑い中(また天候不良もある。今日などは一転して荒天だ)だとは思うが、本当に怪我無く頑張ってほしい。
 業界としても支援する動きは活発で、14日からの地震発生を受けて、それなりに迅速に支援物資などを取りまとめ現地に送るなどの行動が、さまざまな団体を通して複数のルートで展開された。それが十分だったかは分からないけれど、一定の成果はあり、一部物資が地域によっては滞るなどの問題は発生したにせよ、出来る限りの動きはみられたのではなかろうか。
 東日本などの災害の教訓が活かされて、いざというときのマニュアルなどが役立ったという話も聞いている。特に市町村同士で県域を越えた関係を持っている地域などは、支援のきめ細やかさなどに目を見張る活動があったという。熊本と福岡(または佐賀などの近隣県が特に)の連携が先んじているというのも、そのような地域間の連携がもともとあったものと考えられている。県などの地域も、日ごろの近所づきあいが大切なのだ。
 物資の方の緊急性は薄まった感があるようにも感じられるかもしれないが、まだまだ終焉した訳ではなく、現地としては支援の関連が切れてしまうことを何よりも恐れているということも聞いた。ずっと頼っているというより、ニーズの変化が日によって、または時間によって異なり、よりきめ細やかさが必要とされているという。既に一定の役割が終わったという安堵が生まれると、すぐに何かが不足する事態が起こるような緊張感が、まだまだ現地にはあるのだという。
 しかしながら実際に現地に入った人などの話によると、まずは熊本市内の様子に少なからず拍子抜けするのだという。それは目につくような建物の被害が感じられないためで、そのためにさらに迂回して被害の大きかった益城まで足を延ばす人も多いのだそうだ。さすがに益城に行くと倒壊した家屋が目につき、これは尋常ではないと思い直した、という話も聞いた。その話自体はなるほどと思ったものの、そのような行動自体が、ある意味では支援の支障にもなる可能性はあるかもしれないとは感じた。
 また支援される側は、その仕事量の膨大さと人員の少なさに、かなり疲弊しているという。そういう状態に追い打ちをかけるように、マスコミは問題点ばかり荒探しして追及するようなことをするらしい(一部のものと思いたいが)。そのことが精神的に苦痛だという担当者は多く、何とか怒りをおもてに出さぬようにしながら頑張っているという話だった。それよりも善意の人々に感謝を伝えたいし、何より支援を求めるより仕方がないのだ。
 今は何より人的な支援が欲しいというのが第一。また、現地の人などは、本当に自分が先んじて支援を求めていいのか、というような人の好い考え方をする人も多いのだという。我先にという混乱を避けるためにはいいことかもしれないが、そのために実際に必要なニーズ自体が、上手く拾い出せないでいるもどかしさがあるともいう。せっかく人がいてもそのマッチングが何より難しいというのは理解できる。しかし、ばらばらの要求をうまく合わせるような事こそ、実際にはやはり慎重さと時間と要領を必要とすることなのだ。ここはやはり根気強く事にあたるような心の余裕が、必要になってくるということだろう。
 まだまだ事態は長期化する可能性が高い。余震も続いている。長期的視点では行政の力との連携が大切だが、まだ初期段階といえる現在は、民間の自由度こそが必要なのだ。
 今の一番の懸念は、実際の支援の手を挙げている人に対して、連休で連絡が取れない事態にあるという。携帯電話のある時代に、この大型連休がある意味で連携を阻害してしまわないように、(個人的には休んでもかまわないのだけれど)キーマンとなる人は、それなりの心づもりをして欲しいものである。
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居眠りはイカンですね

2016-05-02 | net & 社会

 国会議員が居眠りしている写真や動画というのがずいぶん出回っている。テレビはあんまり見ないが、使われる人は繰り返し使われている人もいるようだ。確かにひどいもんだな、と素直に怒りを覚える訳だが、しかしながら国会中継なんかを真剣に見たことも聞いたことも無い。つまらんときは素直につまらんだろうし、眠いというのは生理現象でもあるし、寝てしまったものは仕方のない面もある、とも思わないではない。
 あんまり関係の無い場面なら、ちょっと席を外して洗面所で顔を洗って出直すなどできればいいが、それもできない状況でひたすら我慢していて、ついつい寝てしまったという人だっているかもしれない。それすらもイカンではないかと言われれば、まあ、それはイカンですなあ、とは思うが、写真や動画に撮られてしまって、繰り返し恥をさらすようなことを考えると、大変に同情心もわくものである。もうこれはかなり面の皮を厚くしないことには生きては行けまい(で、議員さんらしくなるということか)。
 国会に出て居眠りをした経験は無いけれど(当たり前だ)、まあ、会議中につい寝てしまったなんてことは、正直言ってあるわけである。先に言っておくが、その時の関係者の皆さん、ごめんなさい。
 睡眠も十分で、なおかつそんなに体調が悪かった訳でもなく、素直に熟睡というのは、(数が多いわけではないが)あるのである。寝てしまった自分が一番悪いが、猛烈に眠たいというのは、ある。考えてみると、特に高校生くらいの時は、授業中起きているより寝ている時間の方が長かった。あれは若かったのでどうしようもなく眠かった訳で、先生に殴る蹴るの暴行を受けて、鼻血がどくどく流れても、その後席に座ると寝てしまったりしたものだ。昔の軍隊の頃だったら、殴り殺されていたに違いない。
 しかしながら、若く無くなっても眠くなるような気もする。事実会議などの席で寝ている人の多くは、僕よりも先輩方の方が多い。研修の講演会のようなもので、才能のある講師の先生にあたると、本当に半分くらいの人は寝てしまったりしている。催眠術の覚えが無くてもこれが出来るのだから、恐ろしいものである。
 まあしかし僕らは国会議員などでは無い。もちろん単純に有名人でもないから寝ていたとしても誰も関心を持たないので、特に咎められるわけではないというだけのことである。比較的近しい人がそういう事実を知ってしまうと、やはりけしからんではないか、と怒られるかもしれない。部下などがそれを知ると、バカにしていうことを聞いてくれなくなるかもしれない。もっとも今でも聞いてくれているのかはいささか怪しいが…。
 もう今さら遅いが、そうはいっても案外僕は寝ない方なのですよ。眠たくなるけど、結構頑張るのである。それでもその勝負に敗れてしまうことも正直にありながら、それなりに持ちこたえて生き延びてきたつもりなのである。要するに、つまらんと思って頑張って聞いていると眠くなるので、思い切って聞くことを諦めて、他のことを集中して考えることに切り替えるのである。興が乗ってくると、いつの間にか眠気が飛んでいる。結局そのまま話は上の空ではあるんだけれど。
 まあ、結局怒られそうな話になってしまったな。
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