プリディスティネーション/マイケル&ピーター・スピエリック兄弟監督
爆弾テロの犯人を追う時空警察の男は、その事件の元となるらしい過去に飛び、バーテンダーに扮して客の話を聞く。そこで若い常連らしい客が、自分の数奇な過去を話してくれるのだが…。
タイムトラベルものだというのはなんとなく分かっていたが、そのためのパラドクスがテーマとなった、というか、ほとんどそのためだけの物語になっている。話の流れの通り楽しんで観たらいい映画で、娯楽としてなかなかよくできているのではないか。
ネタを最初から知ってしまうと何もかも面白くないと思われるので、興味のある人はそのまま借りてみたらいいだろう。
さて、そんなことを知らないで観たので、なるほどな、とそれなりに驚きの連続だった訳だが、ネタがばれるそのちょっと前あたりで、だいたいほんの少し先が読める仕掛けになっている。その度に、それじゃああんなことをしたりこんなことをしたりするのかな、と強烈な疑問がわいてくるのだが、しかし物語はその疑問の方向へ迷わず進んでいく。いや、それは良くできた話なんだが、それでいいのか? だったらもっと問題が大きくなってしまうよな、と思っていると、そのまま物語が進んでしまう。おいおい、それじゃあそんなことをしてしまうことになるぞ、と思ったら、やっぱりそんなことをしてしまう方向へ物語が進んでしまう。これは大変にイカンことでは無いか、と思うのだが、タイムマシンが出来てしまうと、そういうことが起こりうることになり、これは困ったことなんだな、と思うに至るしかない。人間の想像力というのは、まったく罪なものである。
でもまあ、自分の過去がそうだったということを振り返ると、そのような決まったようなことが起こってくれなければ、自分自身の存在が成り立たないということはあるのかもしれない。僕は運命論者ではないが、それなりの過去の成り行きで、現在の自分があることは間違いなかろう。場合によっては違った将来、もしくは現在が成り立ちえたということもあるのかもしれないが、過去が変わらないから、現在は変わりようが無いようなものだ。結局タイムトラベルというのは、そういう現在の時間の在り方を揺るがせてしまうものだから、理論の上でしか成り立たない世界ということになる。しかし物理現象では、時間というのは時には未来過去が入れ替わることが可能であるということも分かっている。いや、分かっていると考えられている訳だ。人間が物理的に移動できるかどうかは分からないが、そのような事実が人間の想像力を激しく刺激してしまうということなんだろう。哲学者も時間問題は大好物だし、結局このような映画が(原作小説がまずあるが)、どうしても作られてしまう訳だ。人間の性(さが)を改めて考えさせられる物語なのだった。