ご多分に漏れず僕もテレビの「しゃべくり」でMOROHAを見て、興味を抱いて二枚買って聞いてみた。最初にⅡの方から聞いたので、ファーストを後から聞くとやはりⅡの方がそれなりに洗練されている印象を受ける。ファーストの荒削りもいいのだけれど、よりストレートに迷いがなくなったような印象だ。彼らの歌(?)はラップということらしいのだけど、まあ、ラップだろうな、とは思うものの、やはり正当な、というか、一般的なラップ・ミュージックとはずいぶん違う。ギター一本で、そのわきでボーカルが一人語りしているスタイルで、ラップのようなファッショナブルな感じは微塵も無くて、泥臭いと言った方がいい感じかもしれない。それがいい味であるのは確かで、しかしむしろ詩を調子よく読んでいる感じはしないではない。さらにしかし、韻を踏んだ詩の朗読という感じとは少し違う。でもまあ、たぶん即興では無くて、少し演劇めいているという感じかもしれない。
ラップのアルバムは数枚持っているようで、まったく聞かない訳ではないけれど、そんなに関心のある分野ではない。ほとんどはつまらないし、さらに外国のものだから、はっきり言って聞いているのは偽善的であるとさえ感じる。物珍しさと、どうせ訳が分からないのでBGMとして流して聞くことがある程度なのだろう。実際には渋谷さんがエミネムのことをあまりに凄いと持ち上げるので、しばらく聞いていたら分かることもあるかもしれないと思っていたのだが、他のラップには面白いものはあるとは思うものの、エミネムに関しては、まあ、時代に消えるような、日本人には関係のないものに過ぎないように思えてきて失望すらした。関係ないので失望したことすら無駄という感じだ。
さらに日本語のラップだが、そもそも誰がラップ・ミューシャンなのかさえ知らない。映画のサイタマノラッパーは名作だと思うが、彼らがミュージシャンなのかさえ知らない。ラジオでは宇多丸がラッパーらしいと知っているが、彼の映画評には興味があっても、ラップに興味があるわけではない。
そもそもの問題としては、赤毛のアンなどでも見られるように、西洋社会では詩の朗読などの文化があって、韻を踏んだ詩そのものを音で聴くことに喜びを感じているらしい土壌がある。日本にも無いわけではないが、その価値がそれほど高いわけではない。中国にも古くから漢詩があって、恐らく西洋と同じで韻を踏むリズムが何より素晴らしい感銘を与えるものらしい。ならば中国文化とラップは相性がよさそうだが、政治的土壌がそれを許さないという疑いも少しありそうだ。
さて、MOROHA(このような表記は好きではないが、彼らの考えなんだろうから仕方がない。「もろは」と読むようだ)だが、正直に言って聞いていて、最初はお尻がむずがゆくなるような感覚を覚える。特に一人で聞いていても恥ずかしい感じだ。恐らくこれは歌っている方もそのはずだと思うのだが、それが彼らのスタイルで、それが彼らの気迫のようなものを素直に伝える武器になっている。むずがゆさはじきに慣れるが、今度はこれを良いと思う自分に、少し不安になってくるのだ。不安になるが、確かに力強く気持ちを掴まれる感じはする。僕はそこまで若くないので彼らの言っていることに素直に共感できるものではないのだけれど、さらに、なんか違うけどな、という部分も多いのだけれど、それでもやっぱり凄いことが行われている臨場感に酔ってくるのである。そうして曲が終わるとホッとするような感じと、余韻がまだ残っていて、凄いな、と思うのである。基本的にはほとんどワンパターンといっていいのだけれど、いちおう曲は違うし違う物事を違うパターンで歌ってはいる。そうしてもっと違うことを言っているのを聞きたいな、と思うのである。
これを聞いてよかったと正直に言っている自分を知った人に知られたくないのだが、僕も正直なので言わざるを得ない。友達にするにはめんどくさい連中かもしれないが、今後もCDは買うかもしれないです。頑張ってください。