カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

原罪を背負えるか

2013-01-12 | 時事

 部活の体罰が原因とみられる高校生の自殺のニュースがあった。お気の毒な事だと思うし、取り返しのつかない事件であることも実に悲しい結果だった。
 よっぽどのことだったということも言えるが、しかしこれは境界線にある人が埋もれている可能性が高いということで、騒ぎは膨らみつつあるように思う。そんなことは分かりきっている気がするが、きっかけの大きさから社会現象になりそうな勢いも感じる。
 実を言うと僕自身は、この問題は段階を分けないといろいろ複雑にさまざまな事が混ざり過ぎているような気がしている。突き詰めていくと、ケースによって違いがあり過ぎる。表面に出なければ、そもそも問題でさえないということもあるので、居酒屋談義での文化論では、解決することなんてありえないとも思う。
 意見が分かれるだろうことの第一は、厳しい指導の中に体罰が含まれるということらしい。容認するというか、むしろその厳しさを望んでいる人もあり、ちょっとだけ議論がかみ合っていない気がする。スポーツの指導においては、そのような厳しさというのは、名門であればあるだけ、当然というか、当たり前であるのは明白そうに思える。スポーツに限らずだが、肉体的に厳しい鍛錬を積まなければならないような現場において、厳しい叱責を時には必要とするのは当然そうにも見える。問題はだからその境界にあって、必ずしも体罰にあたらない愛の鞭が厳然と存在するはずであるということらしい。
 それは実にもっともらしいし、体験的にそうであったという事実というものもあろう。しかしそうであっても、厳密に客観的に区切ることが出来るような事では、やはり違うのではあるまいか。
 僕の個人的体験からいうと、指導者から殴られるというのは日常的だった。それはそういう時代だったというにすぎないけれど、今となって思うことは、そのような愛の鞭がありがたかったかというと、微塵もそのような感情は無い。むしろその時の先生や監督さんという存在が、今の僕の様に未熟な人間に過ぎなかったという同情があるだけのことである。それは人間的な肯定かもしれないが、同時にやはり罪であったことは明白である。個人的に許すも何も済んだことであるだけの話で、今更だから問題にしてもしょうがないだけのことだと思う。まさかいまだにあのような事が繰り返されているのであれば、明確に罰せられる問題に過ぎないのだと思う。
 親が時に子供を叩いて叱る場合があるという。そういうものだという肯定は、体験してしまった人の精神的に必要というだけのことだろう。人間というのは子育てにおいても、そのような罪を背負うような未熟さがあるということなんだろう。そのことのために指導者の体罰が許されるという問題に、すり替えてはならないのだという気もする。体罰というものがあってはならないのなら、やはり駄目なものは駄目というしかない。そういう教育を、子供にするのではなかったか。暴力の肯定は暴力の連鎖を生むだけのことである。どこかで止める勇気は、だからこそもっとも人間的な事なのである。
 しかしそれでは教育が成り立たないという現場の声が上がる。それは未熟さの告白である。やってらんねえ。その通りなんだろう。やってられないようなものが、教育の本質ということに過ぎないのだろう。
 教育というものは、そのような未熟さを含んだものだということである。最初から完璧なものなどがあるはずが無い。ましてや教育者として育てられた人材においても、実に明確な事なのではないか。親は未熟でも親になってしまう訳で、間違っていても親である。教育者だけは違うのだというのなら、それは既に人間の領域を越えてしまっている。
 ということを人間的には理解したうえで物事は捉える必要はあるとは思うものの、現実の解決をする訳ではない。現場の中に体罰も時には仕方が無いという考えがあるのであれば、根本的に解決するはずの無い問題である。いつまでも隠すし、無かったことになる可能性もある。どのように減らすのかという問題ではなく、明確に駄目だという事を徹底させるかどうかである。そのために教育が駄目になるのであれば、それは既に教育の死を受け入れているにすぎないと思われる。体罰があるから良い教育現場であるという証明があれば、見せてもらいたいものである。もちろん、それが個人的な理想なら、話にはならない訳だが…。
コメント
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