カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

当たり前の過酷さ

2013-01-05 | 感涙記
COWCOW「あたりまえ体操#1」




 僕にとっての正月の最大のイベント、箱根駅伝が終わった。
 ほとんど誰も予想してなかった(恐らく本人たちも)日体大の総合優勝というのは、本当に見事だった。山の服部の走りが素晴らしかったのはもちろん凄かったのだけど、終わってみると、やはりそれだけでは無い、見事な完勝だったことがよく分かる。
 最初からよく頑張っていたのは見て分かっていながらも、どこか伏兵として見ていた自分が如何に分かっていなかったのか痛感させられた。人は事実を目の前にしながら、見えないことがたくさんあるのだ。
 戦前に予想されていた東洋・駒沢の二強というのは、間違っていた訳ではない。選手の実力や層の厚さを考えても、この二校は特に力があったことは事実である。実際にも2位3位という位置でまとめられた事も、これだけのアクシデントのある中の戦いにおいて、見事であったというべきなのではなかろうか。全員が力通りに必ずしも走れる保証の無いレースが駅伝であり、さらにその中でも特に各人の距離が格段に長い箱根において、実力の力技でここまでまとめることが出来たということも、やはり素晴らしい事なのだと思われる。
 そうであるからこそ、今回の日体大の優勝というものが、いかに抜きん出て凄かったのかということも言えることだと思う。風などのコンディションの悪さが高速レースの展開を阻んだ事が、有利に展開したという見方も出来るかもしれない。しかしやはりそれは、出場したチームはどこも同じ土俵で戦っているのである。結局は全員で大崩れしない粘りや、準備を整える事の地道さがこれほど光る事だとは、多くの場合本当には考えられていなかったということだろう。
 焦点が当たっているのは、名門である日体大の昨年の19位という惨敗が、今回の精神力の起爆剤になっているということがある。事実もそうだったのであろう。昨年の東洋の圧倒的な記録を作った力も、一昨年の僅差での優勝を逃した悔しさだったことも、やはりそうなのだろう。その様な悔しさをバネにする精神性は、長距離走の様につらく長くきつい練習を必要とする競技には、必要なことなのかもしれない。本番以上に、その様な気持ちを長く保つことで、過酷な練習を耐え抜く事を可能にする事が出来るのかもしれない。
 だがそうなってくると、今回誰よりも悔しかったものが、やはり来年は有利という論理になってしまいかねない。過酷な練習が思いだけで何とか乗り越えられるというような事になってしまうと、かえって故障者を生むような、難しい調整になってしまう危険をはらんでいくだろう。
 もうひとつの焦点になっているのは、日体大の監督も述べている通り、日常の当り前さにあることも間違いあるまい。生活態度を当たり前と思われるような決まり事を守る事を大切にするということらしく、インタビューでは、例えば外出から帰ると手洗いやウガイをするなど、と答えていた。なーんだ、というようなことだが、しかし、それこそが全員が守るとなると、大変に難しい事だということなのだろう。もちろん個人においてもそうであって、この当たり前の徹底というのは、本当にやろうと思えば実は過酷な課題であるということも言えるのかもしれない。最初から決して守れないような高いハードルでは無い。しかし、本当に守る人間というのは、実はごく少数に過ぎないという事実が、このような偉大な結果の土台なのであろう。実に正月らしい、見事な教訓だったのではあるまいか。
 もちろん、そのことの証明だけのために日体大が優勝できたわけではなかろう。来年も連続して優勝できるという保証は何にもない。そうであっても、やれることをやるしかない。本当の強さは、そのような生真面目さということの積み上げでしか成り立たないということなのだろう。
 駅伝の方は、これからは戦国時代のような事になりそうな予感がする。誰もが当たり前に気付いた以上、さらにしのぎを削る戦いは続くだろう。その方が見る方には楽しいに違いないが、監督のような指導者の立場を考えると、少しばかり同情を覚えるのも事実である。高い自覚と継続が必要とされ続けるのであれば、彼等は仙人になるより他に無いのではないだろうか。


追記:駅伝などの競技は、もちろん相手があって競り合うことで、相乗的に力が出るということもいわれている。それは必ずしも間違っていることではないのだが、日体大の往路の戦いぶりをみると、いかに一人でありながら自分のレースをするのかということが大切であることも考えさせられた。昨年の東洋の復路の区間賞の多さも、やはり一人の戦いの積み重ねが功を奏したものだとも考えられる。
 一般的には追うものは前を目標に追っていき、そのままの勢いで何とか粘り切り、最後にまた力を振り絞りスパートするような事が言われるが、それが本当に良い結果を生む作戦として正当なのだろうか。むしろ、どんな展開にあろうと、練習のプラン通りに忠実に走ることを心がけた方が、結果的には長距離においてはいい成績を収められるということは言えないだろうか。もちろんそれは駅伝に限らない可能性もある。そのような展開をするために前半の働きがあるということも言えるのかもしれないが(心の余裕として)、ミスを取り戻すというような事を早めに捨てて、それでも愚直に自分の走りをすることが出来るのかということを考えた方が良さそうな気がする。繰り返すが、これは駅伝に限らない真理なのではあるまいか。
コメント
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