訳あって夜の空港に母を迎えに行った。もしものために早めに行った(つれあいは時間にうるさい)ら、到着時間が大幅に遅れるらしかった。仕方がないのでぶらぶらしてみたが、最終便到着前の空港は、店じまいの空気が蔓延している。冷やかしの買い物客が歓迎されていないのくらいは、僕にだって少しくらいは分かる。コーヒーショップで時間をつぶそうと思ったら、ドアは開いていたが、既に終わりのようだった。営業時間を表示してほしいものである。
仕方がないのでコンビニに寄って缶コーヒーを買うことにした。
実を言うと僕らは、長い間ずっとコーヒーを苦手にしてきた。普段飲むのはもっぱら緑茶か紅茶で、コーヒーの選択はまずあり得なかった。事情はいろいろあるんだけど、むしろおもてなしで良心的にコーヒーを出される時の居心地の悪さというのを、何より恐怖でもってやり過ごすタイプの人間だった。若いころに訳あって土建工事の手伝いをしてた頃に、現場監督や仲間たちが毎日缶コーヒーをおごってくれるのが、肉体的労働のきつさよりつらかったものだ。
しかしながら時は流れる。長い間飲まないうちに、体質が少しづつ変化するというのはあるのかもしれない。つれあいが何かの拍子で頂いたコーヒーがもったいないので口にしてみると、つらいながらも何となく、だんだんと飲めるようになったという話を聞いて、僕も何となく付き合いで口にするうちに、やはり段々と慣れていくような、多少は調子が狂うものの、子供の頃は平気だったしむしろ好きだったコーヒーの味が、何となく分かるような感じがするようになっていった。積極的に好きとは言えないが、嫌いから平気への転換を見た訳だ。なるほど、これが好きだという人は、中毒になる場合もあってしかるべきだ。というくらいは、感覚的に理解できるほどには受け入れ可能な体になったようだ。
そういう訳で、二人して待合の椅子に並んで座って缶コーヒー(正確にはボトルというのだろうか)を飲んだ。
つれあいは飲みながら「こういう日が来るとは思ってもみなかったね」と言った。コーヒーの味はたいして旨くは無かったけれど、本当に感慨深い味わいである。
人は変わるから面白いのかもしれない。一貫性のある人生なんて、送りたくはないものである。