カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

僕に似た人

2012-02-06 | 雑記

 世の中には自分に似ている人が3人(7人とも言われたことがあるな)居るといわれるが、明らかに怪しいにも関わらずそれなりに流布していて、まあ、確かに似ている人くらいはいるだろうとも思われ、さて、しかし僕に似ている人が居るらしいという話は、これまでにもゴマンと聞いてきたことである。それほどに僕自身はありふれた顔をしているということでもあるだろうけど、つれあいが僕に似た人に間違えてついて行ったという話は今のところ聞かない。ひょっとして僕に教えてくれないだけなのかもしれないが。
 しかしながら実際に僕に似た人ともそれなりに出会っていて、僕が言うのもなんだが、そう言われるのもよく分かるくらいは似ているようにも思われる。もちろん人格までも似ていることは今のところないようで安心するが、しかし姿かたちが似ているというのはそれなりに不思議ではある。親が一緒なのではないかという疑いもあるが、聞いてみると一応は違う親であるらしいことは分かっている。江川さん、お元気にしておられるだろうか。
 そういう実際に似ているというのは偶然として面白いのだけど、よく似た人と会ったよ、という話のほとんどは、実際には僕に似ていると僕自身が認めがたい人である場合が多いようにも感じる。どのように似ていたか子細に聞いてみると、顔が似ているというより、少し変わった人と出会ったに過ぎなかったりするのである。僕のように平凡な人間だと、その他大勢で見分けがつかないというのであれば良く分かるのだけど、とても僕が行った行動とは思えないようなことをしでかしてしまった人を僕に似ているといわれるのは、それなりに心外である。
 何故彼や彼女がその人を僕に似ていると感じてしまったかということは、彼や彼女の考えている人間像という分類上の人の、僕と同じような人々というカテゴリーがあるらしいということは、薄々分かっている。そしてそういう人々は、ひょっとすると僕が日ごろしでかしている行動と似ているということがあるらしいのである。しかしやはり不思議なのは、そういう似ているといわれる話のほとんどは、僕には到底覚えのないことであるのは当然だし、かなり僕の考えとは違うらしいひとのように感じることの方が多いのである。
 もちろんしかし、僕が考えている自分という存在は、実際は自分自身の勘違いであって、人から見た僕の姿というのが、真の僕の姿であることは承知している。そうではないと考えている人々が多いのは知っているけど、それは自意識の強さや若くて無知か、単なる思い込みに過ぎない訳だが、そうではないはずの僕が、やはり人から見てどうだということを否定したいということではないのである。僕に対するそうあってほしいという願望のようなものが、時に僕をそのような似ている人々のように思いたいという欲求を生んでいるという気がするのである。
 何を言っているのか理解しがたい展開になっているのは分かるのだが、僕にそのような期待を抱かせる何かがあるらしいというのが、僕の考えている仮説である。僕と話をしていると、今までに出会った僕と似ているらしい誰かのことを思い出してしまうのであろう。そうして思い出した人が、つまり僕に似ている人になってしまうのだ。
 ある意味で、何か印象に残るような事をした僕に似た人物というのは、やはり僕の仲間というか、僕らしいカテゴリーに類する人であるということは、言えることなのかもわからない。僕にそのような期待に添えるような努力をする義理などは無いわけだが、そのような人々と同じようなことをしたいとも、全然思わないのである。そしてそれが、僕自身の違和感の正体なのであろう。
 実際にはそのような期待に添うことをしたくない自分ということの否定であって、似ていると思われることの否定なのではない。だんだんと僕も大人になってきて、僕に似ていようが似ていまいがどうでもよくなっているのだけど、ひとつだけ言えることは、そのような僕に似ている人と僕が話をするとして、共感を持つことはあり得ないだろうな、とは思うのである。なぜならその人は、きっと僕好みの人では無いからである。
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