カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

大福を四つは食えないが…

2010-04-20 | 感涙記
 妙に早く目覚めてしまい、つれあいが録画しておいた水木さんの出ている番組を朝から観た。奥さんの布絵さんが書いた本がドラマ化されたのを機に、夫婦という視点で組まれた特集もののようだ。
 88になる水木さんは、まだまだお元気そうに大福餅を大げさに頬張っていた。「金持ちになっても本当に(金持ちであるというだけで)しあわせではない。大福餅を四つ食べられるわけではない。三つしか食べられない」とおっしゃっていた。金持ちじゃなくても三つも食べるのか、という話ではありませんよ。でも、水木さんは流石である。
 布絵さんも過去の貧乏時代を振り返って、水木さんの大きな人柄を感じていたということを話されていた。それはゆるぎない信頼ということでは恐らく違う、ご自分の持っている潔い心情と重なった上での覚悟も合わさったものなのではないだろうか。
 結果的に水木さんは諦めなかったわけだし、ある意味で誰もが認めるような大漫画家になっていく。
 苦しい時代も二人は軍艦のプラモデルを一緒につくって楽しんだりしたのだそうだ。それは、やはり楽しい時代だったというのは本当のことなのだろう。
 朝から感動で涙をぬぐって出勤した。僕が諦めずにやれる事とは何だろう。そしてつれあいと一緒に作る軍艦とは何だろう。
 水木さんが僕くらいの年の頃は、ひょっとすると一番つらい時期だったのかもしれない。僕だって諦めるわけにはいかない。
 水木さんは二宮金次郎(尊徳)のような偉人に感心するような人ではなかったようだが、少なくとも僕は水木さんのような偉人には大きく力づけられる。本当に褒められるべき人は、彼のような人なんだと心から思う。
 僕は偉大ではないから、小人としてその力の恩恵を受けて活力を湧きあがらせる訳だ。少なくとも目の前に何にもない人生なんかではない。自由に生きた先輩がその証明を既にしてくれている。これほど心強いことはそうあることではないのではないだろうか。
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これも民意なんだろうか

2010-04-19 | 時事
投票率たったの8.82%
 ここまで来ると民主主義ってなんだろうなあ、という感じすらする。政治が盛り上がるのがいいことなのかはよく分からないが、これではあんまりである。
 よっぽどどうでもいい人しか出てなかったのか、はたまた市民の意識が低いのか、またはその両方か。まあ、補選だから数合わせにすぎないということだったのだろうな。このような選挙が続くようなら、やらなくてもよさそうなものなのかもしれない。
 もしくはいらない人を選ばなければならないという民意とも考えられるので、思い切って定数は大幅に削減してはどうだろうか。
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膝の痛みと春の散歩

2010-04-19 | 散歩
 膝の状態が思わしくなく、散歩どころではない感じだった。かろうじて歩けるけれど、ひどくなるとそれすら危ない気がして臆病になっていた。湿布にまけたことがあるので、多少のことでは貼りたくないのだが、背に腹はかえられず鎮痛消炎の湿布をした。これがなかなか気持ちよく、確かに効いているような感覚がある。即効的に効くわけはないのだが、将来的に良くなっていくような、わずかばかりの期待がわく。
 そうして数日やり過ごしていたが、目覚めて階段から降りる際に少し楽になっているような気がした。午前中にすぐ動かすにはまだ危ないかもしれないので、しばらく様子を見るようにする。パソコンいじったり読書したりしてあえてゴロゴロ。昼にテレビを見た後にようやく散歩に出ることにした。自分でも外に出たいし、なにより杏月ちゃんが僕の動きに期待しているのが分かる。これ以上待たせるのは不憫でならない。
 想像以上に外の空気は気持ちがいい。気温もことのほか高く、薄手の上着はすぐに脱ぐことになった。長そでシャツの袖も折って肌を出す。日影の冷たい風が気持ちいい。熊ん蜂が威嚇するように静止したりぐるぐる舞ったりする。綿が飛んでまばらになったタンポポの種が残っている。杏月ちゃんが横を通るだけで、ふわっと種が舞いあがって風に乗って高く飛んでいく。今年の春はまだ長く続いている。寒い日が続いたので、この暖かさにまた春の慌ただしさが増している感じすらする。
 僕の歩くコースはたいてい裏道ばかりなのだが、すれ違う人が多くて忙しい。犬を連れた人、老夫婦、ご婦人だけの小集団、若い気合いの入った歩き方の女の人、半そでシャツのお父さん、乳母車を押して歩くラッパーのような夫婦(だろう、たぶん)等々。みんな思い思いに外の空気を楽しんでいる。
 しばらく歩いていると杏月ちゃんが自分の後ろ脚を頻繁に気にしだす。彼女の毛に多くの種子がまとわりついて離れないのである。取ってやろうすると、毛が引っ張られて痛いのだろう、嫌がって体をくねらせて逃げる。口のまわりにも、いわゆるバカがたくさんついている。短時間によくぞここまで体にくっつくものがあるものである。これも春ならではのことなのかもしれない。
 足をかばいながら歩いたせいだろうか。いつもなら40分程度のコースをまるまる一時間かかって歩いた。膝の状態も悪くない。家のそばになって杏月ちゃんのリードを外すと、まだ勢いよくダッシュして駆けていく。少し喉が渇いた。冷たい水かお茶を飲みたいと思った。
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牛乳瓶の紙蓋

2010-04-18 | 雑記
消えゆく牛乳瓶の紙蓋
 その前にすっかり牛乳瓶自体を見なくなった。僕は中学生時代は新聞配達少年だったから、牛乳配達のおじさんたちとは馴染みで近親感があった。新聞に比べて重いので大変だろうなあと気の毒でさえあった。フルーツ牛乳って何種類あるのかなと気になったこともあったが、結局飲む機会は無いまま大人になってしまった。
 さて、牛乳瓶の蓋は、二千枚以上ためて持っていたはずである。いつの間にか忘れてしまったが、おそらく御袋がこっそり捨ててしまったに違いないと思う。もし残してくれていたとしてもとても探し出せまい。家は建て替えたのでそのときに紛失したかもしれない。
 二千枚と覚えているのは、僕が初めて百まで数えることができたのは牛乳瓶の蓋のおかげだからだ。集めてためて数を数える。毎日数えているうちにいつの間にか100まで数えられるようになったと記憶している。千枚以上数えるのは時間がかかったが、なぜか毎日数えていたような気がする。あれは小学生だったのか幼稚園生だったのかあやふやだが、粘土箱に入りきれなくなって、クッキーか何かの大きな箱に移し変え、それでも一杯になって二つ目の箱をねだったというようなこともあったようだ。ときどき変わった種類のものが集まると、筆箱に入れて学校に持っていった(やはり小学生か)こともあったかもしれない。駄菓子屋のゴミ箱をあさって怒られたこともあった。何であんなに欲しかったのか、今となってはよく分からない。カラスがわけの分からないものを集めるのと同じようなものだったのかもしれない。
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収入はどれくらいが適当か

2010-04-17 | 時事
オバマ氏の年収5億円超

 大統領の給与としてはどうなのかな、とふと思ったが、印税がほとんどとなるとなんだか少ないような気がする。日本でも相当売れていた感じがするから、あれだけ売れてもそんなものなのかという感じかもしれない。
 以前茂木健一郎の脱税でもたったの数億円ということで、あれだけ売れてもそんなものかというがっかり感があった。芸能人だとあの露出だと数倍の収入の違いがあるだろう。
 米国ということを考えると、たとえばメジャーリーガーなら平凡な契約額という感じすらする。それでも多いじゃないかという考えもあるだろうことは分からないではないが、大統領の収入がそれくらいあった方が逆にいいことなんじゃなかろうかとさえ思う。特に表に出る金額がそれくらいあれば、わざわざ不正して裏金をかき集めようという気にもならないんじゃなかろうか。まあ、どれくらいが適当かというのは正直言ってよく分からないにしても。
 どこかの国の首相はもともと金持ちなんで、政治で金を集める必要もなさそうなんだが、だからと言って総理大臣としてそれなりに収入があった方がいいようにも思う。全然いりませんということになると、かえってかなり怪しい。収入って難しいものだと思う。

 ところで、「役員報酬の個別開示」というニュースも読んだ。
 米国とおんなじメンタリティーになるかどうかは正直言ってよく分からないにしろ、なんだか嫌らしい政策であることは間違いない。報酬というのは働いた対価だから、それなりに大きな事業を成し遂げたならそれなりに頂いたところで文句をつける筋合はない。しかし、その金額まで競争ということになると、やはりいやらしく感じられるものだ。
 しかしながら現在の資産の内情を考えると、特にオーナー経営者の場合は株式というものがある一定以上あるということが考えられる。もっているだけで跳ね上がることもあるわけで、本当に自由な資産としての収入なのかは分かりづらいのではあるまいか。
 いづれにせよ、人のことをどうこうしたいという欲求のため(経営者の給与を抑えたいというのは妬みの欲求だ)何かを過剰にコントロールしようとする試みは、そう簡単にうまくゆくものではなさそうだ。理屈の上でいいとおもわれているものが結果としてもいいものを生み出すわけではない。世の中はもっと想像以上に複雑で、単細胞には理解不能であるというだけの話なんではなかろうか。
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ケインズvsハイエク

2010-04-16 | 雑記
ケインズvsハイエク


 アゴラ経由で拝見。実に見事。分厚い本を敬遠している人にはせめてこれだけでも。これでも分からないなら、それはそれで問題だが、諦めるいい理由にはなるだろう。あなたには経済は絶対に理解不能だ。
 まあしかし、経済理論は政治が利用するのだから、ケインズに軍配が上がるという結果にしかならないのかもしれない。ケインズもそれが狙いであったことは間違いあるまい。正しいから採用される理屈なのではないのだ。そういう意味で、ケインズというのはひどく有害だが、戦争と同じで破壊するのが目的であるのなら、そうした方がいいということなのであるかもしれない。焼け野原になると、さすがになすすべがなく自由だ。
 馬鹿げているが、人間の理解力なんてその程度の馬鹿げた結果しか生み出せないのかもしれない。それにたしかにハイエクが言うように、自由だからと言って幸せになる方法を我々は知らないのだ。そんな難しいことを言われても自分で考えることができない人が理解できない方が当たり前である。というか、それで不安が解消することはないからである。
 政治は無害なことに拘泥した方が、人々にはしあわせなことなのかも知れないと想像する。それを許してくれるほど政治は無力でないのが何よりの絶望である。
 
 
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本当に二冊来た

2010-04-16 | 読書
 twitterで書いたとおり、先ほど二冊届けられた。
 注文してたっけな、と思って注文した記憶はあるが、以前に注文した記憶は無い。昨日注文の発送メールが二通来たので、ありゃりゃ、と思った次第。いまさらどうにもならんので大事に二冊読まなくては(んなことはたぶんしないが)。
 前回はつれあいが先に読んで僕が後で読んだ。今回は一緒に読めるね、と今朝がた話をしたところである。
 僕は一般的に本を読むのは早い方(案外普通かもしれないが)だと思うが、小説を読むのはひどく遅い。途中であれこれ想像しないと読めない所為かもしれない。特に痛い場面なんかがあると具合が悪くなって胸を押さえながら読まなくてはならなかったりして、その分時間がかかってしまう。泣けるところではハンカチも必要だ。映画だと勝手に画面が進んでくれるけど、小説はそうもいかない。ある程度の葛藤を経て、やっとページをくくるという感じかもしれない。
 
 現在の村上春樹ブームについては別にどうということは感じなくなった。それは勝手にやってくれである。確かに純粋なファンだから、村上さんが幸福になることには異論がない。つまらない作品を書いてくれてもかまわない。今回はひどくつまらない、という作品だってなんだか愛おしいというものだ。だから今回のように、ひたすら長い感じだとかえってありがたい気もする。読み終わってどうこうというのは、まあ、仲間うちだとそれなりに楽しいのかもしれないけど、どうでもいいと言えばどうでもいい。読み進んで読み終わらないという時間の方が楽しいのである。当たり前だがそういうことで、今回の恋愛がうまく成就するといいなあ、と思うけど、そうは問屋がおろさないというのだって、それはそれでいいのである。
 さて、そんな想像をめぐらせていても、その結末は今僕の手のうちにある。二冊買ってしまったのは正直言って失敗だけど、今はそのようなささやかな幸福が届いたことを素直に喜んでいるところなのである。
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他人のブログが何故面白いか

2010-04-15 | 雑記
 他人の日記を読んで面白いかというと、正直言って面白い。おそらくブログ文化がこれほど浸透しているのは、書くことの面白さはもちろんだが、読んでもそれなりに面白いからだと思われる。厳密に日記だとのぞき見的な面白さもあるのかもしれないが、公開されているから、むしろ自己主張なんであるから、そういう問題ではない。知った人だと、なるほどそういう面もあるのかという発見もあるし、知らない人だって変なこと考えてやがるな、などと笑える。プロの文章でないから価値が無いのかというと、ぜんぜんそんなことはなくて、むしろプロじゃないから面白いともいえる。それはいったい何なのかな、と考えるのだが、つまるところよく分からない。
 面白い人に出くわすとそれなりに過去ログも遡って読んだりするが、たいていの人は更新した新しいもののみ拾い読みする。しばらく更新しない方はすぐに忘れられる。日々の継続性が一種の中毒性を生むのだと思う。よくネタ切れという話も聞くけど、ネタを考えなくてもいいように思う。まあ、そういう苦労の跡も面白かったりするからいいんだけれど…。
 僕もときどき書いたりするので批判するのは卑怯かもしれないが、あんまり主義主張が強すぎるのも考えものだ。例えば政治ネタなどは、あんがいつまらないものだ。自分の考えと違う場合はそれなりにウンザリするし、同じだったからといって気恥しかったりして。それに、なんというか普遍じゃないというか、世の中の影響で簡単に変わってしまう主張のような気がして白々しいのかもしれない。もちろん好みがあろうから好きな人はどんどんどうぞ。
 僕自身は日頃のことを書いているようで、あえて書かないということも多い。その代表格はPTA関係かもしれない。理由は簡単で、書こうとしても(実際に書いても)なんとなくウンザリしてそのつまらなさにUPするのを諦めてしまうからだ。たぶんそれは教育論のようなどうでもいいものが含まれているからだと思う。正しい教育があるのなら、それはすでに長い人間の歴史の中で確立されているはずであって、つまり今自分が信じていることなんて、どうでもいいことのように思えてしまうのだ。たぶん僕が正直に書くと怒る人も出てくるだろうと思うし、平和を愛する僕の主義に反する(嘘だけど)。そういう訳で実際にかかわっている時間に比例しないまま、現在にいたっている。そうはいっても書くかもしれないので、期待している人はお楽しみに。
 普遍的なことを書くべきかというと、ぜんぜんそんな必要はないのだが、ある程度はどうでもいいことの中に、あんがいそういうものがあるような気がしているのかもしれない。たとえば僕は焼酎のお湯割りが好きだが、お湯を先に入れて焼酎を入れないとなんとなく気分が悪い。水割りだと氷をたくさん入れて、焼酎を先に水を後にしてくれなければ機嫌が悪くなるだろう。そんなことどうだっていいじゃないかと思う人もいるだろうけど、絶対にどうでもよくないと断言したい。つまり何が言いたいかというと、そういう日々のどうでもいいようなことに、その人のどうでもよくなさがにじみ出てくるもので、そういうことの中にある種の人間的な普遍性を観る訳だ。それが面白い理由ではないか。と僕は考えているわけだ。
 ネタ切れだよ、とつぶやいている人は、悩むのは勝手だけど、僕のような読者がいることは、励みにならないだろうか? あえて言わせてもらうと、出来るだけどうでもいいことを書いて欲しいのである。僕の焼酎の話が面白くない人もいるだろうけど、それはあくまで引用でいっているだけで、人は何故かそのようなことをしてしまうしやってしまうということは、断然面白いことだと思う。なんとなくわかりますよね?
 ブログの面白さは、あんがいそのようなどうでも良さ加減ではないかと、思ったというだけの話でした。これからもよろしく。
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日本語は亡びない

2010-04-14 | 読書
日本語は亡びない/金谷武洋著(ちくま新書)

 小林秀雄賞を取った水村美苗著「日本語が亡びるとき」を発端にして、その論を論破するとともに、日本語とともに日本の将来までも感動的に考察した本である。日本語話者に限らず、おそらく日本語を勉強しようとするもの、または英語を中心とする自己中心主義にうんざりしている人も巻き込んで溜飲を下げることになるに違いない。
 とまあ、見事な本なんでぜひ内容は読んでもらわなければならないが(自分で体験しないともったいないから)、僕自身も著者と同じく「日本語が滅びるとき」は(雑誌「考える人」で抄本を読んで)駄目だと思ったクチである。それはたぶん、僕が中国語を勉強していた過去の経験があるためだと思う。実感として日本語が将来的になくならないことは、外国語を勉強したことのある多くの人が感じることなんじゃなかろうかと思う。何故か英語関係者には勘違いする人もいるようだが、普通の外国語や外国を知ると、日本という巨大な国と巨大な言語圏を自然に知ることになるので、そのような間違いは犯しようがないことなんじゃなかろうかと思うのである。
 日本人の英語に対する畏敬の念というのは、はっきり言って異常すぎるのである。グローバル社会(実は米国化というローカル化なんだけど)において英語が席巻するという幻想を抱き続け、英語ができるだけで語学ができるということを平気で思ったりする。残念だが英語が話せることと語学ができることはほとんど関係が無い。いや、出来ることにこしたことはないが、今勉強している人にも悪いとは思うが、人間の脳の機能として、母語以外の言語を習得することの方が、非常に困難というばかりではなく(たとえ一部の人が非常に出来るとしても、科学的に実証されている事実だ)、不必要な状態なら他の言語を習得する必要すら、これからも今現在もまったくないということが分かっていないだけの話である。アメリカとこれだけ親密にお付き合いをしている現在であっても、一部の人ができるだけでほとんど間に合うばかりでなく、将来的にもっと英語が必要になる可能性は今よりはるかに低いだろう。アメリカの覇権が続くのかどうかはよく分からないが、多くの人はその可能性が低いと思っていることは間違いのないことだ。別に嫌米思想でそう言っているわけではなく、それが日本人以外の人たちの、ごく一般的な認識にすぎないことだと思う。
 また、日本語という言語に注目していくと、必要だから習得する道具としての言語ではなく、多くの外国の人があこがれる国の教養として、勉強している人は増え続けているのである。英語ととって代わって世界に広がる(広がれば広がるほどむしろ不完全な英語が増えるだけである)ということはないだろうにせよ、大虐殺が起こって日本語の話者が根絶されるというようなことが起きない限り、日本語が将来的に亡びたり、ましてや廃れたりすることはあり得ないことなのである。
 まあ、しかしそういう有害なことを信じたい人は信じ続けてもどうでもいいことかもしれない。事実認識を間違っているのだから、ちょっとの間国内の憂国の民にはウケるのかもしれないだけの話で、将来的には笑い話にしかなるまい。
 この本の日本語の文法的な話が、日本人や世界の人を救うのかどうかは僕にはわからない。日本語に主語がいらないことは、多くの文章が証明していることだし、学校で文法を習う受験生の拷問のためにある理屈はすでに実生活では通用しない。そういう部分だけは、将来的に改善されていくことを望むばかりだ。
 別段この本は日本語礼賛というだけの内容ではない。実は滅びかけて形を変えさせられて現在に至る英語の悲しい姿や、他の言語と比べて日本語がタフである理由や、何故か二人の日本を代表する「みゆき」さんを持ち出して、日本の庶民思想までも暴きだして見せるのである。
 薄い本だが内容は鋭く盛りだくさん。別に英語を勉強するなという本ではないので安心して楽しんでください。むしろいろんな国の言葉を、僕らは楽しく勉強していくことに興味を抱くかもしれない。それが本来的な意味での将来的なグローバル社会を生きていく正しい姿なのかもしれない。もちろん、母語に日本語をもっている子孫の皆さんと同じく、僕らの現在の正しい立ち位置なのである。
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男子新体操 鹿児島実業2010

2010-04-13 | culture
男子新体操 鹿児島実業2010


 ツイッターで話題だったので。
 男子に新体操があるって知りませんでした。
 あのシンクロの映画からいろんなものが変わったのかも…。
 いえ、面白いばかりでなく、じわっと感動もあるのは流石です。
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落雷でキノコの収穫が

2010-04-13 | 雑記
落雷でキノコの収穫量が増加

 そういう話は聞いたことがあるような無いような。
 実は職場でもシイタケはつくっている。(もちろん時期にもよるが)雨が降るとにょきにょき出てくるので楽しみである。ナメクジが来ないうちに収穫しなければならない。
 とれたてをちょっとあぶって塩するだけでもう最高。本当は売りものなんだけど、スタッフが先を争って買うので困るくらいである。
 知り合いにもシイタケづくりをしている人は多い。気になるのはコストだが、人口落雷で採算があうのなら、飛びつく人も多いのではないだろうか。
 また、キノコ類以外でも応用ができないのか気になるところである。高圧線の下の作物がよく育つという話は聞いたことがある。
 しかし、得体のしれないと言って嫌う人も多いのかもしれない。遺伝子組み換えでもアレルギーは多いみたいだし。言いたくないけど、組み換えでないと明記されているものが本当だと思っている方がおめでたいだけなんですけどね…。
 まあ、落雷が本当に落ちると別に困ることが起きそうだということはあるにせよ、裏山のシイタケには、人間の思惑としていいことなんだということらしい。
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四月馬鹿の見本

2010-04-12 | culture
April Fools: Math Class Shadow


 エイプリルフールってこんなふうにつくものなんだ。勉強になりました。

 まあ、マジックというかイリュージョンのようなものかもしれませんが、確かに文化的な違いを感じさせられるのでありました。
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王将の研修

2010-04-12 | HORROR
餃子のなんちゃら


 非常に合理的な教育(洗脳とは教育の別名だから)のやり方だと思う。いいとか悪いとかは別の話だ。いい人材を選ぶのではなく教育しなくてはならないという日本という社会で、生き延びる企業の当然の対策なのである。これをやれない企業は苦しい訳で、多かれ少なかれ似たようなことをやらざるを得ない。日本の風土が強制的に企業に求めることの防衛策として、やらざるを得なかったということなのだと思う。会社が悪いのではない。
 しかしながら、こういうことをやりたくないから、人は努力できるという側面はある。道は一つではないし、むしろこの道に入る前に本人の選択があるわけだ。教訓として知っておくと、備えとして勉強する子供が増える可能性はある。それができなければ、日本という特殊な社会で生きていくことを選択するとして、このような世界を体験しなければ、人間の復活は無いのかもしれない。それは多かれ少なかれ自分で教育を拒否した結果受ける儀礼のようなものかもしれないのだ。
 もちろんこれすらも拒否することの方が簡単なのだ。結果として王将が勝つのならば、このやり方が生き残る可能性の方が高い。本当に嫌悪するのなら、これに勝つやり方で勝てばいいだけの話だろう。

 以前プロ野球の選手の雑談で、広島に対しては意地になって選手が戦うという話があった。広島の練習は地獄のような特訓が有名で、選手としてはあれをやられるとたまらない。結果として広島流が強いのならば、他の球団もその方針を取り入れる可能性がある。他球団の選手はそれだけは困るので、広島に勝たせてはならないということらしい。もちろん現在の広島の低迷はそれだけの理由では無いだろうけれど、なんだか説得力があって面白かった。

 繰り返すが選択肢は一つではない。気づかなければならないのは、本来的に自分個人の問題だ。なにをやるかを与えられるのではなく、自分で決めて選択すればいいだけの話なのだろうと思うのである。
 でもやっぱり、この世界に入らなければならないことになってしまったら、恐ろしいですね。はい、という訳で、頑張ろう。
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名乗って意味があるのだろうか

2010-04-12 | 時事
職業は、ニンジャです。

 訳はよく分からない。
 日本だと末裔が俳優さんだったり、薬売りだったりするという話は聞きますね。現在も忍者を続けてらっしゃる人は知りません。
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ゴルフ場の火事の原因

2010-04-11 | 雑記
ラフでスイング、着火

 ゴルフって意外と危険なスポーツらしい。
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