カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あの歌はもう聴こえない

2010-04-22 | 雑記
訃報、多田富雄さん

 父の本棚から何気なく手にとって読みだして驚愕した本が「免疫の意味論」だった。体はすでに意識するしないにかかわらず自らシステムを作り出し、そしてアイディンティティを持っている。この日本語に訳しにくい概念を、日本語にあろうとなかろうともっていると主張しているようにも見える。用語は慣れないととっつきにくいんだけど、決して理解不能な世界では無い。そしてぐいぐいと引き込むような面白さに任せて読めばいいだけなのだ。
 
 ある方が亡くなられたのだが、僕はあえてある意味で彼は異分子のような存在だったのかもしれないと考えていた。システムの中でも生きていくことはできただろう。しかし、彼は自分の好きなことをやりたいということだけに賭けて生きたのではなかったか。自由というと聞こえはいいかもしれないが、実は荒波の世界だ。上手く乗り切れていたかどうかは僕は知らない。ただ、誰かのシステムとして生きていたわけでは無かったのだと思う。そういう人が居なくなるというのはどういうことか。考えあぐねているが、自己システムの一つが消えてしまったのかもしれないのだった。誰も彼のようには生きられない。それはたぐいまれな存在だったのだ。

 もちろん、ひとりひとりは決定的に個として他の個とは違う。意識しないでも強烈に体はそれを主張している。
 多田富雄は「女は存在だが、男は現象にすぎない」と言ったらしい。僕は男だから普段は存在を無視しては生きられない。しかし男としては現象を起こさないわけにはいかないのだ。そうでなければ生きられない。
 そして、確かに何か、その現象自体が消えたのだと思う。影響を受けた僕らはどうなるのか。少なくとももう二度とあのような風はふかないということらしい。そのことは、いつか理解することにはなるのだろう。
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