カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

いつもと違うせいだ

2007-07-17 | 雑記
 そういえば小浜で見た台風の風に少なからず違和感を持ったわけだが、なんでだろうとしばらく考えていた。小浜観光ホテルの窓から見える海側の風景の、右から左に風が吹いていたせいだと、後で気づく。それもその風の方向は終始変わることがなかった。台風の渦巻きは北半球では左巻きになるらしい。水の渦についても同じだという人があるけれどこれには異論もある。しかし脱線するので今回は割愛。
 さて、僕の自宅は南向きに立っている。台風がやってくると風は大抵左から右か、正面からという場合が多く、もちろんこれは上陸したからそうなる。通り過ぎる時に逆になる場合もあるが、その道理ももちろん当然。地図で確認してもらうと分かりやすいことだけれど、台風の渦巻きが左巻きだから、風の方向は自然とそうなる。
 僕の違和感はホテルからの風景がいつもの風向きと違ったためだが、もうひとつの誤解は、ホテルの窓の向きを勝手に南向きと思っていたせいもあるのだと思う。島原半島の位置関係で、小浜を南側だと思っていたふしがある。夕焼けの名勝地であるのだからその間違いに気づくべきであったが、大きな窓は南向きという感覚がそういう認識の邪魔をしたのではないかと思う。勝手なかんちがいであるけれど、これで認識を改めることができた。今回は台風がそれたせいで、風も一方方向のみであったということだ。自然現象と報道が正しかったということが分かっただけで、なんとなく嬉しい。
 しかしながら、自然の猛威は続いているわけで喜んでばかりもいられない。今度は今回の地震の亀裂はどのような断層を描いているのかが気になる。2004年の中越地震と関係があるのだろうか。詳細はもう少し後になって確認しなくてはならない。
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台風一過

2007-07-16 | 雑記
 台風一過という言葉を、子供の頃は「台風一家」だと思っていた。第何号というのは、家族の構成員だとも思っていたわけだ。しかし、最近はこの言葉自体を使う人が少なくなった気がする。まさか僕のような誤解をする人が増えたせいではないだろうが、言葉遣いには流行があるのだろうと思われる。台風が過ぎ去った後には、台風自体が雨雲も一緒に吹き飛ばしてくれるのかどうか知らないが、静かに晴れた青空が広がったりするのである。平穏のありがたさが広がる一時の時間なのである。
 しかしながら大陸の台風というのは少し様子が違うようだった。知り合いのフィリピン人の話を聞くと、日本と同じような感じらしかったけれど、中国や米国の場合は、台風というのは、その風の脅威というより、台風後に大雨が続いて増水し、長時間水に苦しめられるということであった。もちろん地域性もあるのだろうけれど、確かにそういう報道も聞くような気がする。日本は急峻な山間に集落がある場合が多くて、土砂崩れのような災害が起こる代わりに、長期間水浸しになるということは少ないのかもしれない。大陸の平野部は、水が長期間滞留し、人々を苦しめるということなのかもしれない。どちらがいいという話ではないが、一気に死ぬか、じわじわ死ぬかという選別のような気がしないではない。もちろんどちらも嫌であるけれど。
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台風と宴会

2007-07-15 | 雑記
 小浜で初老の会をしてもらった。ちなみに僕の知り合いの小浜人は民主党を支持し反クリントンだといっていた。そういうことでもまちおこしになるんだろうか。
 折りしも台風4号が吹きすさぶ中で、多くの人が集まった。先に開催された会議での会場や宴会場の窓が広くて、吹き荒れる嵐を存分に眺めることができた。台風には珍しく雨はなく雲の少ない感じだったけれど、海のしぶきが舞い上がって霧状になってゆくさまがすさまじかった。かもめのような鳥が風に流されてぼろ切れのように飛んでゆくのが心配になった。椰子の木が激しく揺れて大きくよじれても折れないのは立派だった。船着場の台船がギシギシときしむ音が苦しそうだった。実際には少しばかりはずれたと聞いているが、なかなかどうして立派な台風であったようにも思う。比較的安心な状態で見られたので余裕があるけれど、車も少なく、外出を控えた人も多かったことだろうと思われる。この日に行事を予定していたところも多かったのではないか。さまざまな残念を生んだ台風なのだった。
 さて、宴会のほうは、次々に酒をついでもらって気分良く飲ませてもらった。しかしながら風呂上りでもあり、調子に乗って返杯のために一気飲みをしたのがたたって、早い時間からかなり苦しい状態になってしまった。記憶のほうも、かなり怪しい。日本酒が混ざると吐き気がするのだが、その吐き気をこらえるために必死に焼酎を飲んでなんとか持ち直すのであった。
 宴会の途中からビンゴゲームが行われていたけれど、自分ではどうなっているのかすぐに分からなくなる。しかし、ピンクの手錠とバイブレーター(大人のおもちゃが景品だったらしい)とか目の前に並べられていたことと関係があるのだと思う。持って帰りたかったけれど、いつの間にか誰かが持っていってしまった。きっと何か別の戦いに敗れたに違いない。
 二次会でもたくさんの人と握手して、ブロックの仲間と友好を深めた。よく知っている人たちばかりなのだが、これまであんがい一緒に飲んでなかったような気もする。そういえば珍しくケーキも一気食いしたが、僕のバースデイでもあったのだった。本当にありがとう。こういうことってあんまり経験がないので少し照れくさいけれど、いい思い出になりました。

 しかしながら部屋の冷房にやられたのか、翌朝はひどい鼻水のせいで目が覚めた。まだ5時半ぐらい。風呂に入ってごまかしたが、部屋に戻るとやはり寒い。着替えて散歩して駐車場の車の中から読み止しの本を探して読書してトイレに行って時間をつぶすが、風邪はますますひどくなりそうな感じである。朝飯食って二度目の散歩に出て魚釣りなどを見学していると、K村君から電話があって帰ろうということになった。既に一万歩近く歩いて今日の目標は楽にクリアできそうであった。
 昨日も会議前にちゃんぽんを食ったり、宴会の上にフィニッシュラーメンも食ったし、朝飯はおかわりしたりしてドカ食いし続けているが、最近は調子がよかったのでリバウンドして減ることを期待する。本当に体重が減っているときは、ちゃんと減るほうにリバウンドする。しなければ本当には減っていなかったという証明である。逆に減っていてもリバウンドで増えてしまうという話をよく聞くけれど、それはちゃんと減っていないという証明でしかないと思う。四五キロ減らすことは簡単だけれど、50グラム減らすことこそが難しいのである。それが分かればダイエットの王道を行くことができる。つらくないといえば嘘になるけれど、当たり前に減ることの楽しさが続けば、何ヵ月後には望んだ自分と対面することになるわけだ。今が楽しいということが、一番減る原動力になるのだと思うのである。
 ああ、鼻水がつらいので、やはり寝よう。急にM田から電話があったが、オレは約束した覚えはないぞ。それにしても昼間から酔っていたようで、大丈夫だろうか。今回は失礼したが、落ち着いたら飲みに誘います。それまで失敬します。
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年配の人はなぜマナーが悪いのか

2007-07-14 | 雑記
 午後から仕事がらみの会議へ出席。短く終わるという会長の宣言があったにもかかわらず、結局長時間の会議になる。要するに決定事項が見えない会議の所為である。僕には原因がわかっているがどうにもならない。式次第の議題を見て直感し諦める。ものすごくたくさんの意見があるが、すべて封印することに決めて会議に臨む。しかしながら僕の消極的な努力は当然報われず、話はひたすらわき道にそれて長くなってゆくのであった。
 昨日電話のマナーのことを少し書いたけれど、電話のマナーは圧倒的に年配者が悪い。もちろん若い人にも悪い人がいるけれど、年配者ほど無自覚ではないと思う。若い人でマナーが悪いのは、ちゃんと人間的にもひねくれているとか、精神的に子供だとかヤンキーのようなやんちゃな場合が多くて、それはそれでまっとうなことだという意味である。まあ、馬鹿なんだから仕方がない。
 しかし、ご年配の方は悪いという意識が希薄である上に、どんよりとしたあきらめの力も大きく、また、簡単に伝染もするのでタチが悪い。誰かが悪い習慣を行って、それが許容されると、たちまち皆右へ倣いでダーッと悪い方向へ流されてゆく。この勢いはなかなか止められるものではない。
 そういうわけで会議中にもかかわらずひっきりなしに電話がかかり、それぞれが急ぎ足で外へ出て行こうとする。中には窓を開けて顔を外に出して大声で話し出す人まで現れる。そうすることで体半分は会議に参加しているという主張かもしれない。エアコンが効いていたので、近くの席の人は露骨に嫌な顔をしていたが、もちろん本人には見えないのである。
「今は会議中で出られません」と大声で返答する人もいる。その前に電話に出ないことである。
 しかし、それでもそういう年配者を弁護できないではない仕方のない面も、確かにあるにはある。
 まず、電話の操作があまり分からないので、マナーモードという言葉と設定が分からないという人がいるようなのである。そういう機能があるらしいということを知っていても、自分の電話にそういう設定をすることは、ルービックキューブをするような難しい手順を必要とするものだと信じている人もいそうである。または最初から覚えることを拒否している。機械の操作は、自分の能力を超えたものであるという自覚があるのだろう。下手に操作すると、精密機械である電話が爆発する(壊れるも含む)と信じている人もいそうである。
 いくらなんでも幼児じゃないので電話に出ることはできるが、それ以外の操作なんて「おいら分からんもんね」状態を貫いているために、マナーまで悪くなってしまうのだ。
 そして公共のマナーという点では、公共という意識より、その場の世間という単位の慣れがあるので、比較的知り合いの多い場合には簡単に甘えてしまうのである。今回は会議とはいえ役員会という小規模なものなので、遠慮のタガが外れているのだと思う。悪気がないのが分かっているだろうという気の緩みである。だから講演会などのような席では、ちゃんと電源を切っているか、あえて忘れて鳴ったとしても、あわててその場に及んでから必死で停止ボタンを押すような行為をちゃんとするのである。その場合「ピ、ピ、ピ、ピー」という停止音もしっかり会場に響いてかなり恥ずかしい思いをするはずであるが、繰り返す人はちゃんと繰り返す。学習能力がなくなっている所為である。
 非常にしまりのない上に何も決定することができずに長時間の会議は終わった。僕はいろいろな空想をして時間をつぶしたが、何を考えていたのかは忘れてしまった。会議中にたくさんの資料が出ていたので、後日目を通さなければならないかもしれない。せめて時間のつぶし方も準備しておくのであった。
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不快な電話

2007-07-13 | 雑記

 ウチの事業所は電話の応対が悪いと評判である。分かっているけれど応対の悪い責任者に自覚がないので相変わらずである。それで言い訳ではないけれど、もうあきらめてしまった。ウチは悪いというのは売りにはならないけれど、まあ、それはいいのだ。
 しかしながら、朝のミーティング中に電話があって、新人さんが「会議中なので」というのが気になり、みんなの前で注意した。これは役場とか他の職場でもよく聞かれる言葉だけれど、はっきりと失礼な物言いだと思う。
 電話の応対は、先方からはこちら側が見えない。どのような理由で電話に出られないか、正直にいう必要はないと思う。現在出られないという事実を伝えることが重要で、どういう理由であるかは、ある意味でどうでもいいことだと思う。
 さて、そのどうでもいい理由だが、どうでもいいのだから、何といってもいいという理由にはならない。わざわざ相手を不快にさせる理由をいう必要などはないのである。
 今回の「会議」という理由は、絶対的にこちら側の都合である。こちらとしては重要であるから中座できないという正直な感覚があるのだろうけれど、それはつまり相手の立場が会議と相対して重要ではないという意味になると思われる。用事用件があるから電話をかけてきた相手に対して、最初から失礼極まりない対応といわねばならない。
 じゃあどういうのだと言うのは、各事業所か勝手に考えればよろしい。出られない理由なんだから、もっと仕方のない理由を考えたらどうだろう。死んだとはいえないなら、何というか。それがヒントである。
 しかしながら相変わらず電話というもの自体は失礼ではあると思う。いきなり割り込んできて優先順位を上位にもたらすという意味では、電話の優先順位を下げようという運動があってもいいのかもしれない。最初から電話対応はしないという態度でも、それはそれでいいのだろうとも思う。実際上ネット関連の大きな会社などは、電話対応をしない態度が明確である。そのために都合するリスクのほうが大きいのであろう。
 携帯電話のマナーの方も、相変わらずひどい状態は続いている。これについて語りだすと話が終わらないので今回は止めよう。せめて着信音を出さないとか、回りへの配慮上電話を慎むべき時に電話自体に出ないという態度を貫けることが好ましい。もちろん個人的な希望である。
 都合があって電話するのだけれど、延々と出ない人がたまにいる。もちろん出られない状態なのかもしれないので、一回目はそれでいい。留守電サービスにしてくれるといいのだけれど、そういうことを最初からしていないという人は要注意である。二度三度と電話をする。時間を空けて、休憩時間っぽい時間帯を選択したり、夜になってかけなおしたりなど工夫してかけてみるけれど、やはり出ない。場合によっては知らない電話番号を警戒しているのかもしれないのだけれど、なんどもかけているのは、自分に用事があるためであるという想像力が無いのだろうと思う。
特に名は秘すが、つい先日の話である。
 運転中に電話がかかってきて出られなかった。途中で車を止めて折り返しの電話をした。都合が悪くなったのか相手は出なかった。その後折を見て何度も電話してみるが、どうしても出ない。仕方がないので諦めかけていたが、会議中に僕が発言している時に折り返しの電話がやっとかかってきた。しかしながら、この状態では電話に出られない。会議の切れ間に抜け出して電話するが、やはり電話には出なかった。そうして二三日過ぎた頃に、その人と会う機会があった。なんども電話したが、お互いタイミングが悪いようで、といってわびた上に改めて用件を聞こうとしたら、「オレの電話には出られないぐらいつめたい人になったらしいね」と皮肉を言うのであった。自分の方もこちらを知ってて出ていなかったくせに、なんだか不公平を感じて愕然とする思いだった。それでいて用件は依頼なのである。久しぶりにこいつは相当のバカだと気がついた瞬間だった。
 電話というのは便利ではあるけれど、本当に不快なアイテムである。しかし、電話自体が悪いのではなく、やはり本当に悪いのは、使っている人間の態度であった。オチとしてあまりにまともで申しわけありません。
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夕凪の街 桜の国

2007-07-12 | 読書
抱える重み
夕凪の街 桜の国/こうの史代著(双葉社)

 薄い本である。書き込んである線も妙に細い。時間の流れも早くない。なんとなくたどたどしささえ感じる。
 しかし、この本はかけがえのない心の響きを伝える力がある。
 僕は戦争体験がないので戦争の記憶はない。戦争の記憶は追体験である。両親から戦争の話を聞いたことはあるが、多くは戦後の苦労話である。両方とも昭和一桁だから、それはそうなのであろうと思う。
 母方の祖父から、戦争はそんなに大変じゃなかった、とかえって驚く話を聞かされたことがあるくらいだ。日本に帰ってきてからのほうがつらかったとか。そういうこともあるのかもしれない、と思ったものだ。
 驚いたのは、著者も戦後生まれであることだ。それも同世代のようだ。僕は被爆地そのものではないが、長崎県出身者である。広島には友人がいるが、今もいるのだろうか。
 お好み焼きは好物でないけれど、広島のものはいけると思う。広島カープのブラウン監督は実際に見たことがないけれど好きな人かもしれない。共通点があるようで、まるでないような気がしないでもない。しかし、この漫画には激しい共感を抱いた。いや、かなりショックだった。
 僕は嫌米主義者ではないが、欧米人の差別主義は根強く感じる。この漫画は翻訳すべきだろうと強く思う。米国の政治家はもちろんだが、多くの一般の人にも読んでもらいたい。原爆が多くの人命を救ったと信じていたり、発言する人には読むのを強制させたいくらいだ。ちょっと方向は違うが、特にマイク・ホンダという人には読ませてみたい。
 取り立てて残酷な場面が続いたり、そういう表現が多いわけではない。悲惨な場面はあるが、絵のタッチはあくまで柔らかだ。それでも「はだしのゲン」のような力強さはちゃんと感じられる。漫画という表現というのは、分からないものだと思う。それは演出ということなのか。物語のつむぎ方ということなのか。柔らくても侮れない、すごい表現力があったもんだと思う。
 生きていることの罪悪感というものがある。生き残ったものの罪悪感ということかもしれない。それは共感する心の現われなんじゃないかと思う。キリストは生きている僕たちのために死んだのだという。そうであれば、欧米人にも理解できるのではないか。
 残された僕たちのために死んでしまったのではない人たちではあるけれど、残された僕たちは、その人たちのことを考えることはできる。そして、生き残ってしまった罪悪感を抱えることになるのかもしれない。何も悪いことなどしていないけれど、この気持ちを抱えることで、僕らは未来を手にすることができるのだと思う。僕らの子供達や、まだ見ぬ未来の人たちに向けてできることは、僕らが罪悪感を抱くことではないか。そういう命の尊さとは、死んでしまった人たちを思う僕らの記憶なのである。この感覚を感じて抱えることから、口先でない平和という言葉の重みが、僕らの体重の一部になるのだろう思うのである。
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片付くことが快感

2007-07-12 | 雑記
 午前中は予定通りにことが進まずちょっとイライラ。午後がつぶれるのであせっているのである。自分で決めたことが自分自身で進められないという感じが歯がゆい。ルーチンでもサクサクいくと気持ちいいが、その逆状態なのである。思わぬ障害も見つかり、原因も特定する。まあ、そう考えると前進としておこう。
 僕は図面を書いたりするのが苦手だけれど、精密に作製するのが得意な人たちがいる。ちょっとした細部を実に丁寧に根気よく修正したりすることも喜びに変わるということなのであろうか。僕に足りないのはそういう細部へのまなざしではないか。
 ふとそう思うといろいろ思い当たることがけっこうある。子供の頃からプラモデルを完成させることがほとんどなかった。これは父親の虚栄心のようなもののせいで、僕の能力を超えたものばかり買い与えられた所為ではないかと疑っている。結局兄に泣きついて作ってもらうのであった。だから僕は工作が大嫌い。今は何にもつくりたくない。見事な教育の成果である。
 編み物なども気が狂いそうになる。一時間編んでこれだけしか進まないのか、という現実を前に、すべてのものを投げやりにしたくなるのである。
 ジグソーパズルも苦手である。見上げる空は美しいが、パズルの空は何故ああもいやらしいのか。
 病院も嫌い。診察の恐怖よりどれぐらい待てばいいのか不明なのがたまらない。何分ぐらいといわれれば待てるが、分からないといわれると席を立つことにしている。具合の悪いよりも苦痛なのだ。子供の頃に病院にいって、待合室から逃亡することが度々あった。家に帰って「病院には行ったよ」とウソでない事実だけを報告するのだった。結局つれられてまた行くことになるのだから、時間の無駄であった。
 ただただ根気が足りないという事実だけですな。失礼しました。

 午後から夏越関係。抽選前の急なざわめきにこの集まりのツボを見た気がした。
 夏越関係を引き続き、打ち合わせなど、これはサクサク終了。
 久しぶりの昼事務局訪問も果たす。いや、この間も行ったけど、作業をするのは久しぶり。
 せっかく夏越モードなので資金に回ろうと思っていたけど、時期的に早いといわれる。記録を見なくては分からないけれど、いつもどおりではないかな。グータラだと思っていた自分の偏差値は、実は高いのではないかと思ったりする。いや、単にみんな忙しいだけだろう。後回しのクセが僕だけでないと安心するのは危険である。
 そういうわけで少しだけ資金回り。いつも大変ですね、とねぎらわれると単純に嬉しい。もう一年か、といわれると感慨深い。嫌われるとブルーになる。それでも一軒一軒。前に進んでいる感覚は楽しいとさえ思える。この片付き感が欲しいのかもしれない。僕は一軒一軒が長いので、とても一回で回りきれない。麦茶をもらって(Mと君ありがとう)のどの渇きはいえたが、仕事が残ったのが残念だった。今度はいつ回ろうかな。

 夜も部会。
 僕は別の仕事でイベントを取り仕切る役をやっているけれど、単純に出演者会議にしてもいいんじゃないかと思うことがある。出演の際にどのような配慮が必要か確認する。基本的にはそういうことをやってはいるのだけれど、部会となると構成員の立ち位置と要求ぐあいが微妙なニュアンスを帯びてくるのを感じる。本来同じような立場にいるはずの人間から一方的に要求されているというか、そんな感じがよくないのではないか。いったん解散して、「来年から出演者をこちらか選別して招聘します」ということになるだけで、ものすごい改革ができそうな気がする。こちらだけの都合だけじゃなく、出演するほうもやる気が出るんじゃなかろうか。

 はねてNぼっちゃんの行きつけの店へ。知恵熱は下がったのだろうか。
 K又専務とも、考えてみると長い付き合いになってきたね。一緒に並んで飲むのも久しぶりだった。Yまちゃんとも久しぶりだ。いつも飲みに行っているのに、一緒に行く構成員にはそれなりに変遷があるようだ。
 さて、T瀬君は大型新人の予感がする。やっぱり活力は若い力だね。オレもがんばろうッと。
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風の強い日

2007-07-11 | 雑記

 連日昼に夏越の件。まあ、時期だしね。
 一応人と会うので着替えに帰る。昼食は抜こうと思っていたけれど、トマトとソーセージのスープを飲む。少しすっぱい感じの熱いスープ。夢中になって飲んで汗をびっしょりかいてしまった。

 風の強い日である。突風が吹くと体もぐらりと揺らされる。いろんなものがパタパタと音をたてている。固定しなきゃな、と思う。特に何をという具体的なものは思い浮かばない。飛ばされないように、固定しなければならない。そう思うのだ。
M浦君と一緒に相談に行って、一部は辞退されてしまった。後で聞くと、上の方では本当はOKの話だったそうだ。
「煩わしい」と顔に書いてあった。もちろんそう読んだのは僕である。「簡単じゃない」とも書いてあった。確かに降ってきた仕事はつらいのだろう。いっているニュアンスもよく理解できる。毎年のようなことであるけれど、本業とは確かに外れたことなのかもしれない。しかしそれは実はお互い様で、共感力が足りなかっただけであろう。対立したいわけでもないし、こういうわだかまりの感情を抱いても、障害が増えるだけのことである。もう少し前提の話をしたかったなあ、とも思った。本来分かり合える前段階が不足していたのだろうと思うのだ。
 帰りも風が強くて、話し声が大きくなる。さえぎるものがたくさんあって、妙な習慣がなじめなくて、なんとなく釈然としない気分が残った。しかし残さず当日を迎えるような変換が必要だ。ここは超えるべき自分の精神の障害である。

 ネットで買物した商品が届くが、注文したものとは型式が違う。よく似ているので知らずに開封し、いろいろ操作したのちにやっと違うと気づいた。慌ててメールをするが、非常に残念で、なおかつ不安だ。商品の形自体は確かに似ているのだけれど、完全に注文書と別に型式である。もちろん期待した機能はついていない。これと同程度のものは既に持っているのだ。こういうものはネットの不安材料だな、と改めて思う。メールには電話の問合せ先さえ明記されていない。トラブルこそ話した方が早そうなのにとも思った。まあ、すばやい対応を期待しよう。

 夜は例会。最近は平均点が高いが、今回もとてもいい例会だった。
 ディベートではツボに入って笑いが止まらなかった。資料の写真が小さくなっていくセンスは、個人的には買う。しかし勝敗には不利にはなるだろう。むつかしいものだ。
 そして次年度予定者も決定。立ち上がってすぐに、ほのかに上気したような紅潮したTきちゃんの顔を見て、独特の決意と緊張感が伝わってきた。やっぱりこれは特別のことなんだ。改めてそう思う。拍手も鳴り止まず、会場もまさに一体となった瞬間だった。
 これから大いなる助走が始まる。あえて楽しんで欲しいと思うのだった。
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コケがつかなきゃいいんだ

2007-07-10 | 雑記
 このところ決断力というか実行力の欠乏を感じる。
 けだるいというか、実は仕事をしたくない病である。これがまた、嫌な仕事を残しているのである。大変な割りに見返りか少ないというか、損な役回りを押し付けられているというか。まあ、そんなようなものだと思ってください。
 気が乗らないので後回しにしてきたが、もう後に回せないほどリミットが迫ってしまった。そうなるとタイミングの悪いことに別の仕事が舞い込んでくるものである。もともと嫌で後回しにしてきたのだから、当然また後回しにしてしまうわけだけれど、じわじわと背中の方に影のようなもやもやした雲のような雑念のようなものが浮いているような重たいプレッシャーになって僕を苦しめるのだ。こんなことなら少しでも手をつけておくんだったよ、と、またなんども反省したことを反省しなおすのである。それでもやっぱり嫌な仕事ってあるもんで、これはこれで仕方ないのである。ちゃんと済ませたらご褒美にまた本でも買おう、と思って片付けることにしよう。別にそうでなくても我慢できずに買うくせに、ものは考えようだ。特に他に欲しいものもないし、僕が嬉しいんだからいいのである。

 昼から校長会にお邪魔する。夏越の相撲のお願いである。Tもっぴーと待ち合わせていたのに彼は来なかった。時間がきたので仕方が無いので資料を配って一人で説明済ませて退室したら、Tもっぴーがロビーで待っていた。遅れてしまったので躊躇して入室できなかったのだろう。
 最初はそれなりに頭に来ていたが、済んだことは仕方ないと思っていた。そういうことには、あんがい僕は鈍感である。裏切りはいつもされていることなのだ。
 しかし、「これは貸しておくな」というと、「今までこっちが貸していた分もあるんじゃないか」といわれた。普段の僕ならキレていたところであるが、まあ、子供の頃からなんとなく見たことのある付き合いの長いTもっぴーのことである。何とか感情を整えることができた。僕の寛大さに拍手を贈ろう。

 なんとなく仕事をしたく無い病なので帰りに本屋へ寄る。おお、買いたい本がまるで無い。これで本屋なのか(知ってるくせに)。結局100円の波と文春を久しぶりに買う。
 僕はできるだけ駐車場には店舗から遠いところに停めるクセがあるが、店に入るときは降ってなかったのに、帰りは土砂降りである。いかんサイクルだなあ、と天を仰ぐのだった。もう許したんだからいいじゃないか、幸福の女神よ、また振り向いておくれよ。

 夜は部会長会議。
 一見いい意見。翻訳すると、当初の精神忘るるべからず。この話を聞かせたいのは僕ら後輩に向ってということはよく分かる。しかし、実際に聞くべき人は、僕ら後輩ではない気がする。このことがいつも残る残便感のような疲れである。声を大にして言っても届かないのでいわないけれど、そんなことは分かってやっていて、跳ね返されてきたのである。精神の届かない連中と長年付き合って築き上げてこられた歴史が今なのである。現実を見ろ、と僕は思う。もちろん思うだけだ。言わない。いわないことが改革になる。やっとそのことが分かってきたのだ。坦々と時を刻もう。次に石を渡そう。

 K村君とA生君とWe love 鳥勝で、ズリ刺し&ヤキトリ。ニンニク少々。うんうん、酒場の話題じゃーッという話が続いて、なんでか二次会に行こうということになって、やっぱりなんでか若桜。おからを食うまではヘルシーだったけれど、結局ミニサイズながら天ぷらうどんフィニッシュを飾ってしまった。分かっちゃいるけど、転がり続けろローリング・ストーンなのである(もうやけくそだ)。ああ、そうです。そして、寝不足二日酔の出来上がりなのである。
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短気は損気

2007-07-10 | 雑記
 電話で出席すると返事をしたのに、改めてファックスするように言われる。出先だったので戻ってから急いで案内文章を探し、要求どおりファックスする。廊下を歩いていると後ろから事務員が慌てて追いかけてくる。
「コピー機が同じ文章をたくさん出し続けています」
 とのことだった。
 不条理なことを要求されると仕事が雑になる。これが僕の性格というかクセなのだと深く反省。お陰でしばらくは裏紙に不足は無くなった。意地でも使い切ってやる、と、また考えてしまうほど僕は子供である。
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うどんの力

2007-07-09 | 雑記

 早朝から杏月ちゃんに耳をかまれて起こされる。おきる時間を覚えているのだろうか。犬の体内時計はえらいものだなあ、と思いそうになったが、よく考えてみると毎日決められた時間に起こされているわけではない。結局杏月ちゃんが気まぐれなだけではないだろうか。まあ、早くおきて欲しいという欲求が強すぎるのだろう。自分だけ目覚めてもつまらないから起きてくれろ、ということなんだろう。昼は隙あらば寝ているくせにずるいと思う。

 学校に行って球技大会に参加する。今年から副会長に就任したO塚さん大活躍である。司会しながら挨拶して進行もして汗びっしょりになっていた。時々一所懸命になりすぎて声がひっくり返ったりして、臨場感抜群で見ていて面白かった。これも一種のスポーツなんだろうか。普通に消費カロリーが高いということなのだろうか。いや、単に体育館が暑かったということだろう。
 僕も試合に出たが、作戦として逃げるに徹し切れなかった。狙われると当てられる。なんどか偶然キャッチできたけれど、あのスピードにまともに対応できる体力ではないことがよく分かった。それでも一瞬の迷いが体をボールをとりにいかせるモードに変えてしまう。そうなると当然のように取れない。無理なのに反応しようとする体との相反する動きに戸惑ってしまった。僕の体の動きとしては、ハンドボール出身なので、キャッチにいこうとするのが当然なのである。しかし実際には今となっては同じ動きなどできない。ましてやドッチボールであって勝手が違うのである。「はやく分れよ自分の体」と言い聞かせながら、ひたすらボールから逃げる努力をした。
 それでもフェイントで相手に数回ぶつけることができて気分爽快。僕が本気で投げると思っていないお父さんがいて、パスを出しそうな人にインターセプトを狙おうとしている。そのまま速く投げると当然取れない。毎回同じ手に引っかかるので、学習能力が足りないのではないかと思ったが、まあ、儲けである。手の握力が無くなって痛くなってもまた投げたかった。
 結果的に勝ち進んで(といっても二試合)、決勝へ。試合慣れしてきて最後は貫録勝ちした。お父さんと先生とお互いハイタッチしあって嬉しかった。外国の習慣は盛り上がるなあ、と思った。

 家に帰ると昨夜見た「UDON」に影響されたのか、見事な讃岐うどん。煮干の風味の効いただし汁に、おろし生姜とたっぷりの葱がのっている。熱々のコシのある麺をすすると、長くてとても食べきれない。ズルズルと麺との格闘を楽しみながら汗をかく。結局後悔覚悟のお代わりまでしてしまって大満足だった。
 うどんには蕎麦のような品格が無くてすばらしい。それでいて確かな充実感が新たな生命力を補給してくれる。最近のうどん好きは知性があるけれど、そういうものをいっとき忘れさせるパワーこそ、うどんの醍醐味ではないだろうか。
 腹いっぱいになると猛烈な睡魔に襲われ爆睡。この世の贅沢を満喫した休日の午後なのであった。
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野球への偏見のまなざし

2007-07-08 | 雑記
 雨は続く。個人的には暑いほうが苦手なので、雨でもいいと思う。そう思わないとやはりうっとうしいのかもしれない。不思議と何かをやりたいという欲求のほうが減退するような気がしないではない。そういうやる気方面の力を弱めるような力が雨にあるというのだろうか。雨音のリズムは眠気を誘うというけれど、それは僕にはわからない。アルカリイオンが発生するとも聞くが、アルカリだから体によいというのは幻想のような気もする。そういう背景に左右さえれない、立派な大人になれるようになりたいものである。
 大リーグ放送も久しぶりに見る。今年はプロ野球放送も見たことがないので比較しにくいけれど、相変わらず大リーグは一所懸命な感じがして好ましい。特に大リーグのピッチャーはすばらしいと思う。坦々というか、どんどん前向きに投げる感じがとてもすばらしい。日本のピッチャーは、プロもアマも時間がかかりすぎてイライラする。特に人気のある斉藤君なんかは、時間がかかってとても見るに耐えない。僕が本当に野球を好きになれないのは、このだらけた気分かもしれない。
そうは言っても、相撲の間合いは我慢できるのは自分でも疑問だ。単に時間の問題ではないのだろうか。
 この間ブロックの野球大会があったのだが、これも間合いが長くて見ているだけでだいぶ疲れた。皆さん一所懸命なのは分かるが、野球ってずいぶんずるいスポーツだとも思った。いろいろと牽制したり圧力かけたり、忙しいのは正式なプレーの時間より、そういうかけ引きの時間のような気がした。それらは反則ではないのだろうけれど、素人の僕にはちっとも楽しいプレーではない。野球で交流というのはもともと不都合なスポーツなんではないかとさえ考えてしまった。
 もちろんサッカーのプレーだって、実際にはずいぶん汚いものも多いのだけれど、一連の動きが早いので、個人が悪くても組織が悪いという感じではない。野球というのは全体のダークな空気が、結局は名門という組織力ともイコールのような感じがある。嫌な感じのチームが強くて、フェアな感じのチームは結局競り負ける。多くのスポーツは、姑息な手より正当な力が結局試合を制する大きな要素であるのに対して、やはり日本のスポーツらしい姑息さが、ベースボールでなく野球にはあるのではないだろうか。
 そんな偏見を考えていたら、田口壮のブログではやはりそんなことはないらしい。トリッキーなプレーを楽しみながら平然とする国の選手もいるようだ。やはり同じスポーツでもお国柄というは出るものだろう。多様性ということでは、これが好ましいなんていうのはあくまで偏見の上のことに過ぎないのであろう。
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雷が落ちた

2007-07-07 | 雑記
 豪雨が続く。外に出て排水溝やら普通の溝やら川などを見ると、ものすごい水の流れに見とれてしまう。脅威という言葉はまずは水かもしれない。普段バカにしている(なんとなくそういう感じだと思ってください)道路わきの溝にも畏敬の念を抱いてしまう。人間には到底及ばない自然の力の前にただただひれ伏すよりない気分だ。
 それにしてもじゃんじゃん降りますなあ。昨夜の雷もすごかった。近所に落ちたんじゃないかと二階の窓から周囲を眺めてみるけれど、どこに落ちたのかは分からない。もちろん落ちてないかもしれない。
 僕の同級生にYなお君という人がいるが、彼の家には二度雷が落ちた。確か二度目で小火になった。なんとなく不幸そうに感じたが、偏見かもしれない。ちなみに彼はよく漫画雑誌を買って僕に見せてくれた。どういうわけだがその当時でもマイナーな「少年キング」だった。今はたぶん廃刊しているのではないだろうか。他の雑誌は見せてくれなかった。どういう意味だったのか、今となってはまったく不明である。
 さて、実は僕は雷が落ちるのを間近で見たことがある。いや、正確には体験したということだろう。子供の頃に子ども会のキャンプがあって、あいにく雨になった。雨になったがレクリエーションがあって外で何かしていた。何をしていたのかは思い出せない。肝試しのようなことだったのだろう。
 僕はどういうわけか大きな道から外れて、W君という友人と小道を歩いていた。懐中電灯も持っていたと思う。そこでいきなり目の前の杉の木に雷が落ちた。ドーンというものすごい音と閃光が同時に鳴って、目の前のすべてのものが真っ白になったように感じた。しばらくは耳の奥がキーンとなって、他の音なんか何も聞こえなかった。杉の木は皮がはがれてメラメラと火があがっている。その後にバケツをひっくり返したような土砂降りになって、火はジワジワと消えていった。ふと気がつくと僕と友人W君は、腰を抜かしてへたり込んでいたのであった。たぶんあれが、僕が初めて腰を抜かした体験であった。その後もそんなに腰を抜かした記憶がないから、ひょっとすると唯一の本格的腰ぬかし体験かもしれない。どれぐらいそうして動けなかったのか忘れてしまったが、とにかく立てないのである。
 漫画でびっくりした人が「あわあわ」などと発言していることがあるけれど、ああいう感じはよく分かる。ひょっとすると本当に僕も「あわあわ」といってしまったかもしれない。
 Yなお君の家ほどではないが、職場にもよく雷は落ちるほうである。周りに大きな建物が無いせいなのかもしれないし、あの場所に落ちるのが雷にとって都合がいいのかもしれない。
 避雷針があるので大きな被害は出ないが、建物が激しくドーンと揺れる。雷といえばあの閃光を思い浮かべる人が多いと思うが、それは遠くの出来事であるからそうなのであって、近いとほとんど轟音という印象になる。一度は井戸のポンプのコイルがやられて大損害をこうむったが、建物が壊れたというようなことはないようだ。雷にももちろん大小があるようで、大きな奴であったらひょっとすると何かを壊すぐらいのことはするのかもしれない。ご近所にもう少し大きな建物が建つようなことは今後100年にわたって考えられないので、おそらく今後も落ちるのではないかと思われる。Yなお君がご近所に引っ越してくると、ひょっとすると状況は変わるかもしれないけれど、そういう期待にわざわざ応えてくれることも考えにくい。それより彼は今はどうしているのだろう。もちろん別に会いたくはないので、近況を知っている人は知らせてくれる必要などない。ただそう思っただけなのである。
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配分を誤った

2007-07-06 | 掲示板
 曇っているが気温は上がる。
 先日エアコンの調子が悪かったので業者の人にみてもらったのだが、まったく異常ないとのことだった。確かにその時は動いていた。しかしまた調子が悪いようだ。タイマーのセットをしていないのに一定時間でとまってしまう。一度とまりだすと今度は動かない。コンセントの元栓を切って再度動かすと、騙されたのか少し動く。しかしまたしばらくするといつの間にかとまっている。切れると暑くなり、勝手にいらいらしてしまう。もてあそばれている気分である。
 ひょっとするとフィルターが汚れているのかもしれないと思い、ふたを開けて取り出して掃除機でゴリゴリ掃除する。見た目にはちっとも汚れているようには見えない。埃がついているのかさえ分からない。見ていたほかのスタッフも「別によごれてませんねえ」といぶかしげに眺めている。
 しかしながらそうやってセッティングしなおすと、今度は機嫌よくとまらず動いてくれた。一定時間たつと掃除してやらないと機嫌を損なうものなのだろうか。まあ、とりあえず動くようになったのでまた業者を呼んでも異常なしといわれる気がする。黙ってみてもらうべきだったであろうか。

 仕事のついでに役場によって、いろいろ頼まれていた書類を提出する。まったくのお使い仕事なので、何のためなのか知らずにいた。しかし担当者からいろいろ質問されて困ってしまう。印鑑を押したりサインをしたり、調べることもあった。確かに頼まれて持たされていた袋の中に、そういうデータ書類も入っている。こりゃ図られたな、とやっと気づく。二つの課をいったり来たり、担当から説明をもらいながら片付ける。これはこれで勉強にはなった。
 ちょっと気になるものも残ったが、破棄していいのだろう。いや、年金問題も破棄したから取り返しがつかないようでもある。それでも一見不要のようにも思える。そうやって捨てられないのは困りものだ。仕方が無いので五年ぐらい保管して破棄することにしよう。

 戻ってきてもサインしたり印鑑を押したりする仕事が多かった。遠方の都合の書類もあって、電話でいろいろ確認する。担当の人の声がずいぶん若い女の人のようである。ほとんど小学生のような声ではあるが、それでも的確に指示してくれるので、なんだか聞きながらニコニコしてしまった。きっと優等生なのだろう。

 選挙の挨拶も数件来る。いろいろとパンフレットも増えてきた。
 久間発言がどうだったという共通の話題があって、今回は話に困らない。そのためではないのだろうけれど、けっこう普通に争点になっているのかもしれない。まあ個人的に言わせてもらうと、そんなことが関係する方がおかしな話ではないか。発言を撤回させるようなことをたびたびいう人だったので、マスコミに狙われていたのだと思う。それを正直にまた繰り返すので、餌食になっただけだろう。ただの馬鹿げた話だ。初の女性防衛長官だということだって、僕にはどうでもいい事のように思える。
 これは怒られるかもしれないが、「平和のまち長崎だからこの発言は許されない」という考え方が嫌いである。どこかの市長みたいに何があっても紋切り型にこういう発言を繰り返す意味が分からない。ただこういう発言を言えば済んでしまう思考の浅さが情けない。僕は池田信夫の意見にまったく賛成である。池田信夫までいかないと、なかなか本当ではないのではないか。それは僕が青いせいなのだろうか。

 夜には夏越。人が集まって友情を感じた。ここは少し弱いところだという共通認識があるのだろう。そういう気分のようなものが続いてくれるといいのだが。
 はねて飲んでいるとかつての仲間が…。結局合流して飲むことになった。なんだか人数のわりには大騒ぎである。
 焼き鳥屋で軽くフィニッシュのつもりで飲んでいたので、完全にペース配分を誤った。なぜだか焼ビーフンまで引っ張り、完全にグロッキーになってしまった。まだ飲みにいくような空気が少しあって、かなり恐怖を感じた。代行運転で逃げるように帰ったのだった。
 さて、酔って思ったのは、やはり過去を引きずるのはつまらないなあ、ということ。別に批判ではない。もう僕なんてすっかり忘れてしまったことなのに、いつまでも恨みが残るのは悲しいことだ。立つ鳥あとを濁さず、ということができるように気をつけよう(個人的に)。つらいこともあったけれど、今となっては笑って話せる。僕にはそれでいいのである。そのためには頭にきたときにできるだけ吐き出すのがいいのかも。できなくても、こうして飲んで吐き出してしまう。そうして記憶から抹殺して生きていくほうが、ナンボかしあわせやあらへんやろうか(なんで大阪弁)。
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平和の礎

2007-07-05 | 雑記
 豪雨からボチボチやんでどんより曇り空が続く。気温はそんなに上がらなくて助かった。
 帰ろうとしたら傘が無い。意識的な泥棒じゃないとは思うが、傘立てには数本の傘が残っていて、そうだとすると間違って持っていかれたのだろう。こういう場合は残った傘から勝手に借用するというわけにもいかない。また傘を買わなくちゃならないかもしれない。
 そういえば、スタッフの下駄箱周辺には忘れられた傘がたまっていたはずである。報道で日本は傘の輸入で一億三千万本とかいっていたような気がする。それだけ雨の多い地域であるということと、忘れてもすぐに購入するせいでもあるんじゃないか。もったいない話ではあるけれど、日本人の生真面目さも現れている気がする。忘れられた傘を平気で借りて(あえて盗んでとはいわない)帰らない人たちを、僕は信用している。被害にあっても、その被害を他の人に向けないことが、不幸の拡大を未然に防いでいるはずなのである。このことこそ本当の人間の豊かさなのではないだろうか。
 まあ、頭にはくるけどね。久間さんじゃないけど、「しょうがない」と思って退場するか(これは意味が違うけど)。

 夜はPTA理事会。
 籤で選ばれた人たちでも、見事に仕事を進めている。本当に頭の下がる思いだ。雑談の時は奥さん方もものすごい勢いで愚痴をおっしゃるが、だからといって積極的にサボタージュするわけではない。不条理であっても着々と物事は片付ける。日本というのは実務に強い人たちが支えているのだと思う。これができない人はあぶれてしまう。世に言うおかしな人たちは、この実務から逃げている人たちなのではあるまいか。ふと、そんな気がした。
 体育館でも日曜の球技大会の練習が行われていた。
 会議の中で先生方の参加が少ないという話も出ていたけれど、仕事とこういう任意の参加との両立は、精神的に大変なことなんじゃないかとも思う。特に若手の先生がここを踏ん張ってがんばっている。妙に対立する空気を好む人も多いけれど、実際に地道に活躍している人たちのことは目にはいらないのだろうかと、いつも疑問だ。おかしなことは確かに現実としてあるのだろう。しかし、はっきりいって、おかしくないことのほうがはるかに多いのである。その積み重ねで支えられている事実の方を重く感じるべきなのではないか。苦情はいうなとはいわないが、本来とるべきは相手でなく自分自身の行動だと思う。
 しかしながら、苦情係と一緒に仕事をするのも嫌なんですよね。心を入れ替えたのなら別だけれど、口だけの人とはやはり距離を置いて生活するのがしあわせということなのだろう。
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