抱える重み
夕凪の街 桜の国/こうの史代著(双葉社)
薄い本である。書き込んである線も妙に細い。時間の流れも早くない。なんとなくたどたどしささえ感じる。
しかし、この本はかけがえのない心の響きを伝える力がある。
僕は戦争体験がないので戦争の記憶はない。戦争の記憶は追体験である。両親から戦争の話を聞いたことはあるが、多くは戦後の苦労話である。両方とも昭和一桁だから、それはそうなのであろうと思う。
母方の祖父から、戦争はそんなに大変じゃなかった、とかえって驚く話を聞かされたことがあるくらいだ。日本に帰ってきてからのほうがつらかったとか。そういうこともあるのかもしれない、と思ったものだ。
驚いたのは、著者も戦後生まれであることだ。それも同世代のようだ。僕は被爆地そのものではないが、長崎県出身者である。広島には友人がいるが、今もいるのだろうか。
お好み焼きは好物でないけれど、広島のものはいけると思う。広島カープのブラウン監督は実際に見たことがないけれど好きな人かもしれない。共通点があるようで、まるでないような気がしないでもない。しかし、この漫画には激しい共感を抱いた。いや、かなりショックだった。
僕は嫌米主義者ではないが、欧米人の差別主義は根強く感じる。この漫画は翻訳すべきだろうと強く思う。米国の政治家はもちろんだが、多くの一般の人にも読んでもらいたい。原爆が多くの人命を救ったと信じていたり、発言する人には読むのを強制させたいくらいだ。ちょっと方向は違うが、特にマイク・ホンダという人には読ませてみたい。
取り立てて残酷な場面が続いたり、そういう表現が多いわけではない。悲惨な場面はあるが、絵のタッチはあくまで柔らかだ。それでも「はだしのゲン」のような力強さはちゃんと感じられる。漫画という表現というのは、分からないものだと思う。それは演出ということなのか。物語のつむぎ方ということなのか。柔らくても侮れない、すごい表現力があったもんだと思う。
生きていることの罪悪感というものがある。生き残ったものの罪悪感ということかもしれない。それは共感する心の現われなんじゃないかと思う。キリストは生きている僕たちのために死んだのだという。そうであれば、欧米人にも理解できるのではないか。
残された僕たちのために死んでしまったのではない人たちではあるけれど、残された僕たちは、その人たちのことを考えることはできる。そして、生き残ってしまった罪悪感を抱えることになるのかもしれない。何も悪いことなどしていないけれど、この気持ちを抱えることで、僕らは未来を手にすることができるのだと思う。僕らの子供達や、まだ見ぬ未来の人たちに向けてできることは、僕らが罪悪感を抱くことではないか。そういう命の尊さとは、死んでしまった人たちを思う僕らの記憶なのである。この感覚を感じて抱えることから、口先でない平和という言葉の重みが、僕らの体重の一部になるのだろう思うのである。
夕凪の街 桜の国/こうの史代著(双葉社)
薄い本である。書き込んである線も妙に細い。時間の流れも早くない。なんとなくたどたどしささえ感じる。
しかし、この本はかけがえのない心の響きを伝える力がある。
僕は戦争体験がないので戦争の記憶はない。戦争の記憶は追体験である。両親から戦争の話を聞いたことはあるが、多くは戦後の苦労話である。両方とも昭和一桁だから、それはそうなのであろうと思う。
母方の祖父から、戦争はそんなに大変じゃなかった、とかえって驚く話を聞かされたことがあるくらいだ。日本に帰ってきてからのほうがつらかったとか。そういうこともあるのかもしれない、と思ったものだ。
驚いたのは、著者も戦後生まれであることだ。それも同世代のようだ。僕は被爆地そのものではないが、長崎県出身者である。広島には友人がいるが、今もいるのだろうか。
お好み焼きは好物でないけれど、広島のものはいけると思う。広島カープのブラウン監督は実際に見たことがないけれど好きな人かもしれない。共通点があるようで、まるでないような気がしないでもない。しかし、この漫画には激しい共感を抱いた。いや、かなりショックだった。
僕は嫌米主義者ではないが、欧米人の差別主義は根強く感じる。この漫画は翻訳すべきだろうと強く思う。米国の政治家はもちろんだが、多くの一般の人にも読んでもらいたい。原爆が多くの人命を救ったと信じていたり、発言する人には読むのを強制させたいくらいだ。ちょっと方向は違うが、特にマイク・ホンダという人には読ませてみたい。
取り立てて残酷な場面が続いたり、そういう表現が多いわけではない。悲惨な場面はあるが、絵のタッチはあくまで柔らかだ。それでも「はだしのゲン」のような力強さはちゃんと感じられる。漫画という表現というのは、分からないものだと思う。それは演出ということなのか。物語のつむぎ方ということなのか。柔らくても侮れない、すごい表現力があったもんだと思う。
生きていることの罪悪感というものがある。生き残ったものの罪悪感ということかもしれない。それは共感する心の現われなんじゃないかと思う。キリストは生きている僕たちのために死んだのだという。そうであれば、欧米人にも理解できるのではないか。
残された僕たちのために死んでしまったのではない人たちではあるけれど、残された僕たちは、その人たちのことを考えることはできる。そして、生き残ってしまった罪悪感を抱えることになるのかもしれない。何も悪いことなどしていないけれど、この気持ちを抱えることで、僕らは未来を手にすることができるのだと思う。僕らの子供達や、まだ見ぬ未来の人たちに向けてできることは、僕らが罪悪感を抱くことではないか。そういう命の尊さとは、死んでしまった人たちを思う僕らの記憶なのである。この感覚を感じて抱えることから、口先でない平和という言葉の重みが、僕らの体重の一部になるのだろう思うのである。