カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

夕凪の街 桜の国

2007-07-12 | 読書
抱える重み
夕凪の街 桜の国/こうの史代著(双葉社)

 薄い本である。書き込んである線も妙に細い。時間の流れも早くない。なんとなくたどたどしささえ感じる。
 しかし、この本はかけがえのない心の響きを伝える力がある。
 僕は戦争体験がないので戦争の記憶はない。戦争の記憶は追体験である。両親から戦争の話を聞いたことはあるが、多くは戦後の苦労話である。両方とも昭和一桁だから、それはそうなのであろうと思う。
 母方の祖父から、戦争はそんなに大変じゃなかった、とかえって驚く話を聞かされたことがあるくらいだ。日本に帰ってきてからのほうがつらかったとか。そういうこともあるのかもしれない、と思ったものだ。
 驚いたのは、著者も戦後生まれであることだ。それも同世代のようだ。僕は被爆地そのものではないが、長崎県出身者である。広島には友人がいるが、今もいるのだろうか。
 お好み焼きは好物でないけれど、広島のものはいけると思う。広島カープのブラウン監督は実際に見たことがないけれど好きな人かもしれない。共通点があるようで、まるでないような気がしないでもない。しかし、この漫画には激しい共感を抱いた。いや、かなりショックだった。
 僕は嫌米主義者ではないが、欧米人の差別主義は根強く感じる。この漫画は翻訳すべきだろうと強く思う。米国の政治家はもちろんだが、多くの一般の人にも読んでもらいたい。原爆が多くの人命を救ったと信じていたり、発言する人には読むのを強制させたいくらいだ。ちょっと方向は違うが、特にマイク・ホンダという人には読ませてみたい。
 取り立てて残酷な場面が続いたり、そういう表現が多いわけではない。悲惨な場面はあるが、絵のタッチはあくまで柔らかだ。それでも「はだしのゲン」のような力強さはちゃんと感じられる。漫画という表現というのは、分からないものだと思う。それは演出ということなのか。物語のつむぎ方ということなのか。柔らくても侮れない、すごい表現力があったもんだと思う。
 生きていることの罪悪感というものがある。生き残ったものの罪悪感ということかもしれない。それは共感する心の現われなんじゃないかと思う。キリストは生きている僕たちのために死んだのだという。そうであれば、欧米人にも理解できるのではないか。
 残された僕たちのために死んでしまったのではない人たちではあるけれど、残された僕たちは、その人たちのことを考えることはできる。そして、生き残ってしまった罪悪感を抱えることになるのかもしれない。何も悪いことなどしていないけれど、この気持ちを抱えることで、僕らは未来を手にすることができるのだと思う。僕らの子供達や、まだ見ぬ未来の人たちに向けてできることは、僕らが罪悪感を抱くことではないか。そういう命の尊さとは、死んでしまった人たちを思う僕らの記憶なのである。この感覚を感じて抱えることから、口先でない平和という言葉の重みが、僕らの体重の一部になるのだろう思うのである。
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片付くことが快感

2007-07-12 | 雑記
 午前中は予定通りにことが進まずちょっとイライラ。午後がつぶれるのであせっているのである。自分で決めたことが自分自身で進められないという感じが歯がゆい。ルーチンでもサクサクいくと気持ちいいが、その逆状態なのである。思わぬ障害も見つかり、原因も特定する。まあ、そう考えると前進としておこう。
 僕は図面を書いたりするのが苦手だけれど、精密に作製するのが得意な人たちがいる。ちょっとした細部を実に丁寧に根気よく修正したりすることも喜びに変わるということなのであろうか。僕に足りないのはそういう細部へのまなざしではないか。
 ふとそう思うといろいろ思い当たることがけっこうある。子供の頃からプラモデルを完成させることがほとんどなかった。これは父親の虚栄心のようなもののせいで、僕の能力を超えたものばかり買い与えられた所為ではないかと疑っている。結局兄に泣きついて作ってもらうのであった。だから僕は工作が大嫌い。今は何にもつくりたくない。見事な教育の成果である。
 編み物なども気が狂いそうになる。一時間編んでこれだけしか進まないのか、という現実を前に、すべてのものを投げやりにしたくなるのである。
 ジグソーパズルも苦手である。見上げる空は美しいが、パズルの空は何故ああもいやらしいのか。
 病院も嫌い。診察の恐怖よりどれぐらい待てばいいのか不明なのがたまらない。何分ぐらいといわれれば待てるが、分からないといわれると席を立つことにしている。具合の悪いよりも苦痛なのだ。子供の頃に病院にいって、待合室から逃亡することが度々あった。家に帰って「病院には行ったよ」とウソでない事実だけを報告するのだった。結局つれられてまた行くことになるのだから、時間の無駄であった。
 ただただ根気が足りないという事実だけですな。失礼しました。

 午後から夏越関係。抽選前の急なざわめきにこの集まりのツボを見た気がした。
 夏越関係を引き続き、打ち合わせなど、これはサクサク終了。
 久しぶりの昼事務局訪問も果たす。いや、この間も行ったけど、作業をするのは久しぶり。
 せっかく夏越モードなので資金に回ろうと思っていたけど、時期的に早いといわれる。記録を見なくては分からないけれど、いつもどおりではないかな。グータラだと思っていた自分の偏差値は、実は高いのではないかと思ったりする。いや、単にみんな忙しいだけだろう。後回しのクセが僕だけでないと安心するのは危険である。
 そういうわけで少しだけ資金回り。いつも大変ですね、とねぎらわれると単純に嬉しい。もう一年か、といわれると感慨深い。嫌われるとブルーになる。それでも一軒一軒。前に進んでいる感覚は楽しいとさえ思える。この片付き感が欲しいのかもしれない。僕は一軒一軒が長いので、とても一回で回りきれない。麦茶をもらって(Mと君ありがとう)のどの渇きはいえたが、仕事が残ったのが残念だった。今度はいつ回ろうかな。

 夜も部会。
 僕は別の仕事でイベントを取り仕切る役をやっているけれど、単純に出演者会議にしてもいいんじゃないかと思うことがある。出演の際にどのような配慮が必要か確認する。基本的にはそういうことをやってはいるのだけれど、部会となると構成員の立ち位置と要求ぐあいが微妙なニュアンスを帯びてくるのを感じる。本来同じような立場にいるはずの人間から一方的に要求されているというか、そんな感じがよくないのではないか。いったん解散して、「来年から出演者をこちらか選別して招聘します」ということになるだけで、ものすごい改革ができそうな気がする。こちらだけの都合だけじゃなく、出演するほうもやる気が出るんじゃなかろうか。

 はねてNぼっちゃんの行きつけの店へ。知恵熱は下がったのだろうか。
 K又専務とも、考えてみると長い付き合いになってきたね。一緒に並んで飲むのも久しぶりだった。Yまちゃんとも久しぶりだ。いつも飲みに行っているのに、一緒に行く構成員にはそれなりに変遷があるようだ。
 さて、T瀬君は大型新人の予感がする。やっぱり活力は若い力だね。オレもがんばろうッと。
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