カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

好意の猪鍋

2006-12-17 | 雑記
 JCの九州地区フォーラム。会頭をはじめ役員のいろんな主張を聞くにつけ、みんな若いなあ、などと思うようになった。もう僕にはこういう考え方は若すぎる問題だ。日本を何とかしたい情熱は買おう。しかしロックスターが社会ではオルタナティブであるように、扇動は本当に大衆性があるから支持されるものではないと思う。まあ、僕のほうがもっとはずれた位置からものを考えているので、聞こえない問題なんだろうけど…。
 しかしながらハムちゃん次年度と五千分の四副会長Tきちゃんには声援を送ることができた。ちょっとはずしてしまったが、役割は果たした。と、思う。せっかくだから会頭とも名刺交換。なんとなくオタクと見た。
 懇親会の後に中州に繰り出して再度食事と飲み会。えらく歌ってる人たちがいて、魂の伝承を受ける僕がいた。結局日帰り組も一時過ぎまで飲んでK又専務予定者に送ってもらった。すさまじい睡魔と腰痛をおして、悲痛なまでの帰りのドライブの中、僕は途中の意識を失った。S一君は素直に先に意識を失っていた。が、50歩100歩で、申し訳なかった。家まで安全に送ってくれてありがとう。
 帰宅は4時過ぎであったらしいとは記憶しているが、朝から寺子屋冬バージョン。ものすごく酒臭いらしかったが、先生方と準備をこなし、門松作ったり餅つきしたりした。寒い中だったけれど、それなりに充実した内容になったのではないだろうか。
 終了後湯取り餅を食べて、門松講師の爺さんの友人のハンターからおすそ分けという猪肉の豚汁風鍋も振舞われる。朝早くおきて、近所の公民館で鍋を炊いて持ってきていたのだという。なんという準備力(というか)だろうか。終わりにお茶を飲みながら何気なく「猪鍋があるんだけど…」なんていっておいて最初から振舞うつもりだったということに、ご年配の方の並々ならぬ好意の熱意を感じられずにいられない。日本ってこういう熱意がけっこう空回りしている国なんじゃないかなあ、などと一人感じ入りながら舌鼓を打ったのであった。まことに美味でした。
 しかしながら、今日予定されていた青少年委員会の反省会が流れたのは、結果的に助かった。Y介委員長、お大事にしてください。僕はもう寝ます。
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交差点の高揚感

2006-12-16 | 雑記
 一日目は別件研修会。ひどく下腹が痛むと思ったら次は激しい鼻水。単に風邪がぶり返したらしい。くしゃみばかりするので、前の席に座っている人がもじもじしている。後ろを振り返って僕の確認をしたいところだが、遠慮して出来ないということだろう。もう一人つれできている仲間が、そういえばウチでもノロウイルスがはやっていて、などと大声で私語をするので、真後ろに座っていたおじさんはトイレ休憩後には消えていた。
 夜はなぜか五反田で飲み会。考えてみると駅から初めて降りた町かもしれない。つれの大学時代の友人のトシちゃんの激務話に同情する。給料はいいんだろうけれど、体がもつのかという感じ。仕事って無理して頑張んないといけない世界なんだろうか。なんて甘ちゃんの僕は考える。
 翌日から目当ての研修会。二日間みっちりお勉強。これを元に地元に帰って、再度講師を務める身なので、けっこう真剣である。しかし、情勢は変化している。情報も錯綜している。以前なら中央情勢を下に下ろすという役割も確かに重要ではあったが、今は独自性というか、言うことを聞かないことも大切だ。役人とけんかして恨まれても仕返しされるだけであるが、言うことを聞かないということがどれほど大切かは死活問題でもある。まあ、上手にやりましょうね、ということか。しかし、そんなこと教えらんないですね。死活問題ですから…。
 新橋で飲んでラーメン我慢して餃子とビール。支払いのとき気づいたが、僕のほうがラーメンの三倍ぐらいの値段。主力商品のほうが安くて付随したものの方が高いのである。これも一種の商売であるな。ふむふむ。
 研修会終えて、さて飛行機出発まで時間がある。それで何年ぶりかで渋谷へ繰り出す。何度も来たことあるはずだが、ぜんぜんわからない。イーストウッドの「硫黄島からの手紙」を見て(戦争は遠くになりにけり。別で論じます)東急ハンズをぶらついて人ごみを脱出する。僕は買い物には興味がほとんどないが、ここは人の欲望をよく表している街だと思う。なんというか商売の勉強にはなるなあ、という感じ。いや、ここだから発展するのかも。いや、やっぱりその逆か。ま、両方の相乗なんだろうと勝手に自分の解釈で落ち着く。交差点で人ごみがダイナミックに交差する体験は、ちょっとした高揚感のくすぶりがある。微熱が心地いいような、そんな感じだろうか。
 出張すると、少しギアがシフトする感じがある。もしくははっきりした区切りであるとか。僕はカトリックの家庭に育ちながらクリスマスは性に合わないが、年末というものがやっと意識されだした。しかし今までも続いている忘年会の類が、来週は集中するだけであるようにも思う。さらば、06。年賀状どうしよう。
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渋滞すると都合がいい/渋滞学

2006-12-12 | 読書
渋滞学/西成克裕著(新潮選書)
 田舎に住んでいるので渋滞とは縁がない。といいたいところだが、程度の差こそあれ、渋滞という状態は存在する。人の集まるところ、この不快な現象は起こるらしい。日頃渋滞慣れしていないので、ちょっとの渋滞がたまらなく不快だ。車の渋滞に限らず、待たされるのがひどくつらい。ちょっとの時間という待ち時間が人間の感情をここまで逆なでするのはなぜだろうと常々疑問に思っていた。しかしながら自己防衛のために集中を避けて生活するようになっている。通勤時間は25分程度だが、一時間前には出勤する。25分前に家を出ると、車が混むので30分の時間を必要とする。その5分が異常にもったいない気がする。25日出勤として、一月に2時間もロスする。新書程度なら読んでしまいかねない。
 一時間前ならほとんどこのロスがないようだ。事実読書量は増えた。なんでも効率化すればいいとは思っていないが、ささやかなる勝利である。
 もちろん不可避的な渋滞を覚悟しなければならない場合も多い。以前ならただイライラするよりなかったが、この本を読んでから、渋滞の状態を考えるようになった。なるほど流れになんとなくだが法則がありそうな気もする。回避する決定的な術はないのだが、精神衛生上、少しは改善された。一つのブロックを通過する時間を予想したりして、楽しめないまでも、余裕は生まれたようである。また、そういう心掛けを持つ大切さも改めて知ることにもなるのである。焦りが人間にとって如何に危険なものか、実証的に証明もしてくれる。
 実は渋滞の謎が解明されると、個人的には大きなメリットを失ってしまいかねない。だからこの本が売れるというのも少々困るのかもしれない。いや、どうせ田舎の人でこの本を買う人などそうたくさんいないだろうから、読むことで多少のメリットは確実にある。なにより面白い本で、時間をつぶすのに適当である。
 茶目っ気のある文章も学術的な内容を非常に分かりやすく解説している。渋滞だけでなく複雑な問題を数学と工学を融合させて解説しているところがなによりすごい。文系の人間にも非常に得をする面白い研究であることがよく分かる。火事などあえて渋滞をおこした方が都合のよい場合もある。お金であっても渋滞するシステムをつくられれば得する人が出てくるだろう。一部が得をしすぎると、多くの人の不利益になる。たぶん、だから税金があるという考え方もあるわけだ。
 それにしてもニュートン物理学から微積分まで幅広く大まかな理屈も頭に入る。説明が非常に上手いので、そうだったのかとなんども膝を打った。これはものすごくお得な本である。読まなければどうなるかというのは、読まないから分からないだけの話である。面白い本は、時間をつぶすだけの効用があるのではない。人間力は総合的な力の総体によって決まると僕は考えている。ガクモンの世界も、専門性と相互の橋渡しが大きな力を生むのであろう。改めてその人間の叡智という破壊力を楽しんでみては如何だろうか。
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明日から出張

2006-12-12 | 掲示板
明日から出張です。卒業式に出られないのがなにより残念です。それではごきげんよう。
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石油が枯渇するのはいつだろう

2006-12-12 | 時事
 立場として中途半端なのはマグロ問題かもしれない。獲れなくなったということならばそれでまあ仕方ないで終わりのような気がする。獲ってはいけないはバカといいたい。鯨問題と一緒ですね。いじめはいけないんですよ。知らないの。
 しかしたぶんマグロには馴染がないせいが大きい。トロが旨いはわからないではないが、どうしても食わなければならないものではない。マグロがなくても困らないからであろう。キャビアやフォアグラを食わなくても嫉妬もしないし苦しくもない。それと同じである。
 鉄火巻きは大好きだが、長崎では鉄火といえばハマチである。習慣のせいであろう、マグロよりこちらの方が旨い。最近は回転寿司でマグロが見られるようになっただけで、もともとマグロは鯨よりマイナーである。ほとんど生活に関係ないのである。それにあわせて、高くないとたいして旨くないのも気に食わない。安くても冷凍赤身は別になくてもいいとさえ思う。唯一僕はシーチキンが好きであるが、これは今の問題と関係なかろう。
 テレビで騒いでいるけれど、東京地方の問題を全国的に持ち込まないで欲しいとさえ思う。東京はある意味で異文化である。既に日本でさえないんじゃないかと疑っている。石原慎太郎は中東の人ではないだろうか。「日本人に愛されるマグロ」問題というものいいは、押し付けがましいエゴではないかと思う。
 中国人もマグロを食えばいいし、日本人の特権である必要はない。そういう感じもなんとなく嫌である。いつから日本人という人たちは、近隣の人のせいで損をしたり嫉妬したりするようになったのだ。
 一方で野菜の値段が暴落すると、廃棄処分になってしまう現状もある。経済的に見ると仕方のないことであるが、それがマグロの暴騰と同じ仕組みであることは間違いがない。なんでも経済的に考えることは、人間的ではないのかもしれない。
 もともと高いマグロをみんなで一斉に食わなければならないと思ったり、ナショナリズムを煽ったりするのは筋違いなのではないかと思う。
 しかしながら西洋人は、たぶん僕のような感覚で鯨を攻撃したのに違いない。併せてそんなことも分からないサルには制裁が必要だと思うのだろう。だから獲るなは反対なのだ。
 いいたいことはひとこと「落ち着け」である。資源というものはとりすぎるとなくなる。実にシンプルなのだ。そうなってからでは、たぶん取り返しはきかない。そういうシビアで残酷なものなのである。しかしまだあるうちは、誰もそのことを考えていないだけなのではないだろうか。いや、考えたくないだけなのではないか。
 僕は石油が早くなくなってくれないかな、と本気で思う。地球温暖化という考え方もあるが、中国ががんばって消費して、早く使い切ってくれればいい。人間のエゴがなんであるか。なくなってみると分かるんじゃないかと、そうでなければたぶん分からないんじゃなかろうかと、老婆心ながらに心配しているのである。
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サッカーと新幹線

2006-12-11 | 雑記
 昨日は隣町鹿島にてサッカーの試合。佐賀JCと鹿島JCとの二試合を行う。結果的に惨敗のスコアではあったのだが、それなりに内容のあった試合だったのではないかと思う。
 なにより個人的な話だが、二本もシュートを打ったのは実に久しぶりだった。一本目は狙いとしてよかったとは思うが、キーパーに近すぎてコーナーキックになってしまった。二本目はディフェンスに詰められるのが少しプレッシャーになって上げてしまった。二本ともほとんどフリーで、悔やまれるが、シュートを打てた状況というのがそれだけで嬉しい。本当に練習以外ではめったにないことなのである。交代要員のいない厳しい条件での試合であったけれど、大変に楽しくていい一日になった。
 僕は正式にサッカーをしていたのは小学生の3年間だけである。ポジションは引き目のハーフで真ん中か右が多かった。ディフェンスがとにかく苦手で、前に行きたがる典型的な小学生サッカースタイルしか身につかなかった。フォワードではないから多くの点を取ったわけではないが、それでもチームでは三番目ぐらいには点取り屋だったのである(えへん)。
 しかし今となっては前の方で使われる機会はめったにない。正直に言ってシュートを打てる状況になってみて、久しぶりにかなり緊張を味わった。しかし、これこそ心地いいんだということも久しぶりに味わった。佐賀戦では相手がばてておりいけるという幻想がめぐってきて自滅してしまった。もう少し点が取れたはずだった。鹿島戦では中盤を支配されてかなり厳しかったけれど、いいチャンスはけっこうめぐってきた。こういうドキドキする試合なんてそんなにあるものではない。
 助っ人君が多いと使われないが、少ないと体力的につらい。そういう状況で昨日の試合は、奇跡的に一体感のあるチームでの試合になったのではないだろうか。最後は体がバラバラになるのではないかと思うほどの疲労に襲われたが、充実感も大きかった。

 打ち上げは祐徳温泉。お隣の今日になって議員さんだったと判明したS口さんといろいろ話ができた。彼は新幹線容認派なんだとか。現実路線派ということなのかもしれない。
 後にJCOBでもある市長も登場。膝を交えて話す機会もあり、実直な話も聞けて貴重だったと思う。スジ論としての道理も理解できた。政治というものは、特に日本の政治というべきものだが、なんでもありのちゃんぽんが現実である。自民党のような政党は、世界中にも日本にしか存在しないだろう。原理原則で成り立っていないものを論ずるのが政治のようである世の中にあって、ちゃんと支持をもって市長になっているということが、やはり重いのだろうと思った。立場(って、俺の立場は実はないが)は違っても、まっとうな考えだと正直に思ったのであった。
 朝から体重計に乗ると何年ぶりかの72キロ台。サッカーとちょっと米酢の効き目かな。少なくとも疲労回復にはいいような気がする。体は痛いがすっきりした朝だった。
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マラソン大会

2006-12-10 | 雑記
 長男が近所の池田湖マラソンに参加するので見学に行く。
 僕のような生粋の地元住人にとって「池田湖」という名称はなんとなく気に食わない。ここはもともと堤であって湖ではないと思う。いつの間にか公園整備され、きれいになったのには不満はない。格段に利用者も増えているようで、憩いの場として新生を遂げていることは認めよう。しかしまさに勝手に湖にすることには不満がある。立て看板に拠る説明もあるにはあるが、もともと灌漑用堤である旨は説明してある。しかし、湖になったいきさつは不明だ。まあ、今年で15回大会ということで、比較的新しい(なんて思うぐらい僕は古いのか)ために名称として過去と決別しているということなのだろうか。いまや灌漑用水のためのため池でなくなったということなのだろうか。詳細は不明だが、池田湖は鹿児島との混同もあって聞き苦しい。どこでも銀座というのも悲しくもほほえましいものだが、明らかに同じで小規模というのがさらにこの名称を気に食わなくさせている。堤がだめで湖がいいと思う根拠は何なのだろう。謎が余計に不満を大きくさせる。僕らの育った環境は、過去との決別にあるのだろうか。普賢岳が平成新山になると、歴史が消えたようで寂しいとは思わなかったか。イメージの一新なんていうが、たぶん嘘だろう。結局噴火を売り物にまちおこしをしているではないか。池田の堤にマイナスイメージがあるとも思えないが、ここで事故があって死んだ人もいないではない。まあ、そのために名前を変えていたんじゃテロと同じであろう。
 子供の頃の日常を思い起こすと、池田の堤とは文語で言うが、アクセントはあくまで「イケダン、ツツミ」であった。だからこのマラソン大会の名称は「池田ん堤マラソン」じゃなきゃおかしいと思う。というか、やっぱりぴんとこないじゃないか。
 しかしながらいつの間にか誰でも「池田湖」というようになってしまったので、僕だって「池田湖」といってしまうことが何より悲しい。老人とは、人にはわからない悲しみを抱え込むことであるのかもしれない。
 肝心のマラソン大会であるが、あいにくの小雨の中の開催となって、子供達にはちょっとだけ気の毒なコンディションだったかもしれない。大人たちも微妙に気合の少ない応援で感じがよかった。お汁粉とかなんだっけ、何か出し物もあったようだ。狭い空間に適当な人の賑わいでそれなりの盛況というのが僕には新鮮だった。
 ものすごく足の遅い子も参加していて、希望者だけの参加であるというのはたぶん嘘なんだということがわかる。民主主義は嘘が多いなあとは思うが、そういう社会なので仕方がない。
 さて、息子の番が回ってきたが、不覚にも最初の一周目(二周する)には見落とした。通り過ぎて後姿でなんとなく確認。どんどん離され後がない。二週目では完全にへばっていて歩き出しそうな気配がある。ゴール地点の手前でゴールと一人だけ勘違いして立ち止まり、再度気力を振り絞って走り出したが、ゴールの直前で追い抜かれびっくりしてゴールした後にダッシュしていた。
 後で聞くと昨日の試走のときより二つ順位が上がっているとのことだった。レベルの低いことは別にして、なかなかの頑張りじゃないかと素直に思う。得意じゃなくても、やり遂げたことに意味がある。などと勝手に僕自身が満足する大会であった。
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「まずい」らしい

2006-12-09 | 雑記
 僕の職場では今年は忘年会をやらない。毎年必ずやらないかというとそうでもなくて、以前は当たり前のようにやっていた。ここ三年は近所の同業事業所と合同忘年会を開催していて、三年という区切りだったので、止めた。今年はどうしようということで一応提案したが、「希望者だけで…」という声が上がったので、止めることにした。何というか意味がない。
 スタッフを構成している半分以上は女性ということもあるとは思う。女性のその半分は主婦との兼業である。最近は男性も理解あるとはいえ、これは社会的な事実であろう。また、忘年会を開催していて思うが、確かに全員が飲むわけではない。出入り業者さんとかを呼んで、それで盛り上がったりしている。忘年会でも結局気を使うという話も聞いたことがある。もちろん僕だって気遣うが、そういうことではないのだろう。
 つれあいに聞くと、以前の職場でも一度全体忘年会をやって、後で若手で別の忘年会を開くのが通例であったという。まあ、そういうものかもしれない。そうかもしれないが、僕のJCの先輩も同じようなことをしたがるのが僕には不思議だった。飲み会自体が嫌いではないが、わざわざそういうことをしたいという気分はまったく僕にはわからない。結局仲間としての親近感が違うということなのだろうか。違うはわかるが、もともとこの団体で知り合ったのだ。そこでまた分かれるが、多分僕にはわからないのだろう。
 僕は小さな仲間は必要じゃない。くくる範囲で違いがあるのはわからないではないけれど、いくら範囲が広くても僕にとっては窮屈じゃない。友人は大切だと思うが、友人がいなければならないとは思わない。一人ではさびしいかもしれないが、大人なので一人でも楽しいも知っている。どちらだけという縛りがあると窮屈かもしれないが、どちらかを行き来するバランスが楽しいのかもしれない。
 少し脱線気味だが、共同体の問題かもしれない。僕は日本国民だが、お国のためにという意識はまったくない。国が個人の僕に何かしているという感覚もない。軍事で守られている実感がないのもそのためだろう。むしろ危険にさらされている可能性だってあるだろう。そういう疑いとあいまって、対等にチャラじゃないかとさえ思う。僕が国のために何かできたら、それは多分もっと人々を危険にさらすだろう。能力がないとは平和の礎である。国家とは勝手にあって幸せなものの代表だろう。
 また脱線。職場の問題。
 これはかなり近しいチームだが、馴れ合いでもない気がする。友人とは違うし、微妙に利害も違う場合もある。僕の立場からすると、本当に心開いてもいけない場合がある。いや、心開いていいんだけど、本当にそれで彼らが安心するかは別であろう。求めてもいないだろうし、同じでないからなんとなくうまくいっている面のほうが多いようにも思う。
 イタリア人のタレントさんが、イタリアで職場の同僚と酒を飲むということが、ちょっと考えづらいことだとテレビで言っていた。仕事帰りに一杯というのが、まずイタリア人には理解できないであろう、ということだった。イタリア人に限らない気もするが、彼らは友人や恋人や家族と酒を飲むのであろう。結婚しても、週末などは子供が寝た後に、朝までバーのような酒場で飲み明かすのが普通なんだとか。そういうことをしない人のほうが、ちょっと異常かもしれない、という感覚らしい。
 さてここは日本である。会議の終わった席で、ついうっかり「ウチは忘年会はなくて…」という話をしてしまったら、他の同業経営者は一同に、「それはまずい」という感じでたしなめられた。まあ、それはまずいの意味がわからないではないが、一方で僕の世代の感覚もなんとなく持ち合わせているので、そういう感覚もまた「まずい」んじゃないかとも思うわけだ。ちょっと断絶的にいうと、わずらわしいので説明はしない。はいはいそうですね、と、話してしまった自分のうかつさを呪うだけである。説明してもいいんだが、残念ながら、彼らのほうが一方的に理解しようとしないだろう。時間の無駄と馬鹿の壁である。
 かのように、忘年会ひとつでも共同体世間のある日本ではまことに難しい問題をはらんでいる。僕はもう一回別の会を催す必要のある共同体なら、最初の一回を省きましょう主義者と考えていただきたい。もちろん、後の一回さえしない人もあろう。だから妥協案で、新年会をしましょう、ということになった。これって解決策なのかどうかわからないけれど、少なくとも煩わしさの軽減策であることは確かである。将来的には忘年会もやってみようという話になるような気もする。僕のほうからやりたいは、やはり本当に「まずい」ことだと思っているだけの話なのである。
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ま、生きているうちだな

2006-12-08 | 雑記
 朝から立哨。初めてのお父さん。これからもよろしく。
 仕事じゃなくて生活習慣病検診。これは人生にとって無駄な時間だが、役場の人間のためにだけ受けるだけの苦役である。僕は病気の早期発見の必要をまったく感じていない。必要のないものをありがたがって受ける必要もない。だから本当はちゃんと拒否したいが、事業所として、全員に検査を受けさせないところとして指導を受ける。不届き者はいったい誰だ。それは僕だ。率先して受けなければならない人なのにといわれる。馬鹿に薬をつけても治らない。ヘイヘイ、お前が馬鹿だという証明に受けてやろうじゃないの。馬鹿のために寿命を縮めるしかないのは不条理だが、付き合ってやろうではないか。変にポリープなんか見つかったあかつきには、不安で癌になってしまいそうだ。見つかったら彼らが喜ぶだけだから意地でも癌になりたくないが、自分で決められないなら仕方がない。だから、知らないで癌であるなら受け入れる。一種の運命である。それによって死んでも不服はない。
 しかしそれを楯に言い訳する奴は糾弾するが、それは脱線するのでここでは割愛。
 しかしながら事業主なので中途半端にこういうムダに毎年付き合う。血を採られてふらふらになって、最悪の気分で帰宅する。社会のいじめがなくならないのは、社会が腐っているからだと思う。このときばかりはすべての役人を解雇したい欲望にかられる。いっそのことカースト制にでもなって、役人が最初から偉くなればいいのだと思う。彼ら(の考え方)は限りなく馬鹿だが、この馬鹿の連鎖をありがたがっている庶民がいるのも確かな話で、無常なる絶望には違いない。結局は人間のおろかさに付き合うしかないのである。
 ささやかなる抵抗で、僕は胃の検査は受けない。バリウムに懲りたせいもあるが、自分が知りたくない検査をする必要はないと思う。一応小言は言われるが、断固拒否する。馬鹿と話す時間がもったいない。僕は義理があって付き合っているだけで、苦痛を楽しむほど余裕はないのである。マゾなら別だが検査は誰かの雇用を助けるだけの膨大なる時間の浪費に過ぎない。少なくともこの検査のために癌になる人も全国規模では少なくないことだと思う。証明ができないだけの話であろう。
 まあ、僕の行き場のない怒りは別として、拷問の後に会議に出席。途中で僕の出席義務のない会議をはさむので、仕方なく散歩する。原爆広場に行くと、多くの花が手向けてある。誰が持ってくるのかは知らないが、生花である。噴水のしぶきがかかって肌寒い。しかし、渇きで苦しんだ人のことを思うと、一年中水がたっぷりあるということが重要なのであろう。人間とは、死んだ人のことを思ってここまで親身になれる。生きていることには無頓着でも想像力が人間性であるということがこれでもわかる。
 帰ってまた総会に出席し、全体ではないが懇親会に誘われて、会長がトイレに行っている間に失礼する。本調子でないので説明が難しい。逃げる人間性をとがめられないうちにいなくなる。酒の魚になって愚痴をいわれても、生きているうちが花なのである。死んだ後は意識がない。つまり知らないのだから問題などない。それだけの話じゃないか。
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ROCK IS DEAD

2006-12-07 | 音楽
 先日のイベント会場でBGMとしてビートルズの曲が流れていた。なんかモノラル時代の感覚で覚えのあった曲が随分音がいいように感じる。最近の技術的なものでリマスターとかいうのかな、そういう感じで作り直されているのかなあ、などと思いながら聞くともなしに聞いていたが、なんだか曲自体もちょっと違うようである。ああ、リミックスしてあるんだとやっと気づいた次第。
 それにしても中途半端ないじり方だなあ、と思っていたら、ジョージ・マーティンが息子と一緒にリミックスしたんだそうだ。デモ音源もオノ・ヨーコから借りてきたらしくて、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」なんかはそういう音源からどんどん展開していってなかなかいい。そして、ジョンの声は切ない。「ブラック・バード」は「イエスタディ」になってなんじゃらほいであるが、僕は「ブラック・バード」の方が好きなんだから、そっちを中心にして欲しかった。まあ、許してやるけどね。
 PAのS上さんから、ビートルズは調弦に気を使ったんだという話を聞いたが、なるほどこういう使われ方をすると知ってたら、やるべきことはちゃんとしなくてはならないとは思う。キース・リチャーズにはできないことだろう。
 オアシスとかジェットとか、最近のメジャー・バンドは明らかにビートルズの焼き増しであるが(リスペクトって表現が、なんか嫌だけど)、今の世代の人はどういう感覚で聞いているんだろうと思ったりする。いや、説教くさいことやウンチクを言いたいわけじゃなく、僕もちゃんと好きである。けれど、やはり少し違う感覚なんじゃないかなと、なんとなく思うわけだ。
 こういう嗜好性はポップ・ミュージックの宿命なんじゃなかろうかとも思う。しかし、だからといってただの同じじゃ駄目なのだ。アメリカにもビートルズよりビートルズらしいバンドがたくさんあったらしいのだが、当然というか、ビートルズのように支持されることはなかった。ジョンとポールだけのバンドじゃないけれど、この二人が友達で、そんでもって一緒にバンドをおこして、世界(まあ、西側に過ぎないが)を揺らすような共感を得たということが、奇跡でなくてなんだろうと思う。
 それにしてもこのラブというアルバムのジャケットはかっこ悪くて、欲しいけど躊躇してしまう。いい音であんまりいじらず作られたので、オリジナル・アルバムだというのはどうなのかとも思う。もう少しぐちゃぐちゃしてもよかったと、ロック少年の僕はいうが、やはりこの世界をいじることは、少しの躊躇があるということなんだろう。それが、かえって今の人たちが求めるビートルズ観なのかもしれないと思うと、僕は素直にオアシスを聞いたほうがいいような気がする。現代ではロックはやっぱり死んでしまったのであろう。もちろん死んでしまったものには文句はないが、僕らが求めてきた新しいものは、ロック以外でしか生まれえなくなったと考えるべきなのではないか。
 以前高島俊男が、芸術というのは初期に巨人が現れて、後は焼き増しに過ぎないと書いていたように思う。その巨人は後世の人には決して超えられない。そんなバカな、と思うかもしれないが、クラッシック音楽がそうだし、文学だってそうかもしれない。ロックはビートルズを超えられない。それはひとつの確認になるような気がしないでもない。
 違う文法が必要だ。今はただそう思うのである。
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自然の厳しさと、さらに寒い空

2006-12-06 | 雑記
 今年は特にいのししが多いようだ。別に来年に備えているわけではなさそうではあるが、最近近所で三匹も捕獲された。写真は珍しく二匹一緒につかまった様子。
 
 近寄ってみると逃げようとして激しく檻に衝突する。既に血だらけで、そうとう格闘したものらしい。ちょっと残酷な話だが、二三日消耗するのを待って、いわゆる「しめる」のであるという。
 いろいろと意見があるのはけっこうだが、自然と人間は共存できない。境界線で暮らす人たちは人間の代表として衝突があるということである。僕の感情にもかわいそうだという気持ちはもちろんある。まだウリ坊だし、顔だって実に愛嬌がある。怒ってみせる威厳だってちゃんとある。自然と闘いながら生き物として格闘している姿には尊敬すらしている。しかし、人間とは衝突してしまうのである。せめて、その肉はありがたくいただかなくてはならないと思う。たとえ菜食主義者であろうと、人間は多くの血や犠牲の上に生きている。無自覚でも生きていけようが、自覚することで感謝が生まれるのではないか。驕りが消えるのはないか。

 最近野良猫が二匹職場の回りをうろうろしている。残飯をあさりに来ているのである。アイドル犬のひかり君がいよいよ老成してしまって猫を追うこともできない。逆にドッグフードまで食われてしまっている。力関係のバランスが崩れると、何か違う現象が現れる。猫ちゃんは元飼い猫であることは逃げ方でなんとなく推察できる。放浪の末、たどり着いた先なのであろう。
 二月前にもひどくにおいがするので原因が分からず騒ぎになったが、結局中庭の渡り廊下の軒下に猫の死体が腐って横たわっていた所為だった。
 野良猫はどこにでもいるものではあろうが、こんな山奥には珍しい。飼い猫はちゃんとそのテリトリーを守っている。憶測に過ぎないが、山に捨てにくる人がいるのだろうと思われる。この辺の人たちはちゃんとした農家なので、増えすぎるとちゃんと自分で「なんとか」する。彼らが捨てることは考えにくいのである。
 僕は正視しない現代人が嫌いである。いろんな嘘があるのは分かるが、みてない人が気づかずにつく嘘には罪があると思う。知らないは罰せられないかもしれないが、大きな罪を背負っていると僕は思っている。いってもはじまらないとは思いつつも、静かな怒りはなかなか抑えられない。
 しかし現実の僕は甘ちゃんなので、野良猫一匹「処分」できない。いっそのことここで飼おうじゃないかと今朝提案したのだが、あっさりと却下される始末である。いつまでもおろおろ寒空を見上げるのみである。
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データの力と少しの勇気

2006-12-05 | 雑記
 藻谷浩介さんを迎えてのセミナー。僕としては佐世保以来ですね。お久しぶりです。
 委員会の勉強の成果も、多少分かりにくかったにせよ良かったと思う。プロじゃないんだからわかりやすい必要はない。問題意識でもって考え調べひとつの結論として導き出したということがなにより大きいと思う。僕なんて恣意的動きにはまったく興味もないぐらいだから、けっこう啓蒙されました。いや、これは個人レベルにも影響のあることだったんだということを教えてくれた功績は小さいものではない。
 さて、メインの藻谷氏の講演なのだが、実感として圧巻である。データの力強さと展開の仕方は見事で、時々けっこう私見も交えているんだけれど、それも含めて天地をひっくり返す力を持った内容だった。普通は「これを参考にして…」ということになるんだろうが、はっきりと結論まで導いてあるので、参考どころかやるべきことは明確だ。
 これだけ聞けて今回の講演料は、ものすごく安いのではないかと思う。個人的には会費に含まれているとはいえ、当日受講料は無料だったのである。聞かせるべき人も他に明確にいたにせよ、本当に得をした。忙しい人らしいが、そりゃ忙しくもなるだろう。おいらも呼びたい、という人が後から生まれることは確実だからだ。はっきりいって、つばつけておいて定期的に話を聞くということが必要だと思う。マクロな話を落とし込まなければならないので、少人数でちょっとだけ理解してもムーブメントを起こせない。つまり景気と同じで結果待ちになりかねない。やることは分かっているが、やられるほうが分かってなければ、やはり物事は動かないのだ。
 いやあ、劇的な話だ。別に中心市街地だけの問題じゃないので、これはどこでもまちづくりできるということでもある。もちろん簡単じゃないけれど、不可能じゃない。おいらも商売しようかなと思わせられる。あ、既にもう商売してるんだっけ。まちとしてやんなきゃなんないんだよなあ。祭りでもわずらわしいので、僕には尻込みしてしまうのも確かだ。面白さなんだよね、たぶん尻を押してくれるのは。
僕が今回聞きながら考えたのは、シンプルに延縄より一本釣り。そしてテクノロジー(技術向上)に向き合うことだ。
 前に養老さんの本で、中国人は飯屋があたったら店舗拡張したり複数店展開したりすることが上手で実際そうするが、日本なら例えば鰻屋のオヤジは、従業員増やしても自分でクシを刺して焼いているのではないか、と言っていた。また、日本と言う世間は、そういうものを店に求めているのではないかとも思う。もちろんマクドナルドだって日本には定着していることは認める。しかし僕のような年よりくさいやつは、そんなところでは絶対に満足できない。たぶんヨーロッパにもそういう感じを少しは分かるとは思う。ただあちらでは、シェフを雇うのだろうけど。
 釣りもやらないし不器用な僕が、一本釣りと技術を磨くのだからそりゃ大変ではある。しかしよく考えると今までもやってきていることではあるのだ。「今までのやり方が駄目だったんじゃないの」と疑問に思っている向きもあろうが、それでも逆転できるんですよ、と言ってくれたのが藻谷さんだったわけだ。トヨタにできないことを僕等がやってやろうってんだから鼻息が荒いけれど、おいらは将軍様の国に生まれたわけじゃないからね。それだけでもかなり拾いもんの幸運の持ち主なんだから、がんばるに越したことはないのである。なにより元気になれたことを感謝したいものである。
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システムの問題

2006-12-05 | 雑記
 Y本君のところからプリンターを注文していたのだが、いきなり佐川のトラックで運ばれてきた。半そでのお兄さんがさっさとおろしていったが、玄関先に邪魔になると思って抱えようとしたら、重くてとても一人で持ち上げられるものではない。いや、少し宙に浮かせることぐらいは僕にもできるが、その状態で移動するのが難しい。佐川の給料は高いと聞いたことがあるけれど、その分働いているんだろうなあ、などと感心してしまう。昔ベストテンという番組で大川栄作がでかい家具をひょいと担いで見せていたが、アリがモノを担いでいるみたいで偉いものだと思った。他の歌手は自分の趣味なんかをちょっと披露したりするんだけれど、大川栄作の特技は苦労がにじみ出ていて、演歌人としてもすばらしい人だったのではないかと思わせたものだ。
 さて、「荷物が来てるんだけど」とY本君に連絡して来てもらうと、「こんなに速く来るはずじゃなかった」としきりにブツブツいいながら組み立てていた。僕としては早く来てくれたほうがいいのでそんなに困らないで欲しい。
 当初は別のプリンターを買うはずだったのだが、職場に戻ると既に同じようなものがあるらしかった。よく話を聞いてみると、もう少しでかいサイズのものがあるともっとよいというので、でかいものを買うことにしたのである。そのでかいヤツも既にあるにはあるが故障して動かないらしい。ついでに修理してくれといったら、厳密には修理というより悪いところを交換するしかないということだった。厳密に調べると分かるには分かるのだろうが、今の状態では、簡単にどこが悪いのか分からないらしい。メーカーに持っていく運送料だけでも馬鹿にならないことだろう。それぐらいこいつもでかくて簡単には動かせない。ある企業から無償でいただいたのはいいんだが、トナーの予備だけで10万近くしたので捨てるに捨てきれずにいたのである。異物が事務所にデーンと居座っていたわけで、今はいろんなものがその上に積み上げられていて、かなり見苦しい状態になっていた。
 まあ、新しいプリンターだってやはりでかいのではあるが、異物のトナーに多少の毛が生えたぐらいで新品なのだから、技術進歩というのか、物の値段というのは恐ろしいものだと思う。でかい企業が倒産するのは、経営陣の不正にあるだけではなさそうである。買う方としては確かに安いほうがいいけれど、異物の方は5年ぐらい前だと100万近くはしていたはずである。多少性能は違うにしても、5年程度で8分の1ぐらいの値に落ちていくというのは、なんとなく僕の理解を超えた出来事のように思える。最初に買った人たちの恩恵で後の僕たちは廉価品を買うことができるようなイメージがあるが、それだけ大量に物が作られるシステムが出来上がってくると、とんでもない価格の下落が可能になるということなのであろう。電卓だって最初のものは小型車ぐらいはしたらしいが、今はさらに性能がよくても100円ショップで買えるのだ。技術が進歩することは、必ずしも儲けとは違うシステムであることは間違いない。だから研究成果を求めるのは止めにしよう。などといっても今の教育には通じない話ではあるな。企業は成果の呪縛から逃れられない。しかし、それはあくまで考え方なんだけどなあ、などとプリンターの所為で思いをはせてしまう。
 Y本君はセッティングにも苦戦して、暗くなる前まで僕の職場で格闘していた。事務所に請求書が来ていたが、以前に買おうとしていた小さい方のプリンター料金であった。いろいろ混乱しているようだが、人間の方もシステム崩壊である。
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孝行を受ける

2006-12-04 | 雑記

 頭が痛くないというだけで、かなり楽だということが分かる。つれあいは頭痛薬をよく飲んでいるが、やはりつらいのだろう。僕のつらいときはありがたいのに、彼女がつらくても僕は何もできない。お気の毒である。痛みが遺伝子をも狂わせるという論文もあるという。本当かどうか知らないが、恐ろしい。我慢してはいけないのである。どんどん薬を飲むがいい。飲みすぎなければ痛み止めは、癌の予防にもなるという。それも本当か分からないが、誰かが試すよりないだろう。焼き魚食ったって癌になるらしいから、薬を飲んで反応があるのはまともである。副作用のない薬は効き目がないということの証明である。痛みが消えるということの副作用は、普通は胃が荒れること(だから胃にやさしいなんて嘘をいう風邪薬が存在するのだ)なんだろうが、それがさらに抗癌になっても、それはそれで不都合はない。医療はつまるところいつまでも実験のようなものだ。怒られるけど、たぶんいつまでもそういうものだと正直に言ってしまおう。
 さて、やっと活字を追うことができるようになって、なんとなく欲望が爆発したくなっている。いえね、いやらしい意味じゃござんせんよ。いろいろ読みたいものがチラチラ目の前にあって落ち着かないのである。最近は読書評などやらなくなったが、飛ばし読みではけっこう書籍も読破した。いいものにもあたってそれなりに収穫も多かった。年末年始比較的難解なものにも手を出したいところなのである。それで白状しますが、ついクリックしちゃうんですね、ネット販売。今週は毎日本が職場に届くのではないだろうか。まあ、ほとんどは物理的に読めないわけだが、積読も読書のうちである。本を並べるだけでも楽しい。これは中毒のようなものである。分からない人はそのままでよろしいと思う。

 さて、昨日は家族交流会(クリスマス会)があった。少し食いだしてまずまずの体調回復を実感できたが、焼酎を飲みだした頃にやはりなんとなく違和感がある。嘘だと思われるかもしれないが、少し自重した。
 おかげさまで子供達もそれなりに満足げな会になって本当にありがとう。委員長さんたちのそれぞれの言葉もよかったし、卒業生のコーナーも感慨深くよかったと思う。セレモニーも、僕が段々年をとった所為であろう、好ましく思えるようになった。なんとなく気恥ずかしさもあるんだけれど、それはまだ僕の青い部分なんだろうと思う。自分が当事者でなければセレモニーはいいのだという気がする。
 しかし、ちょっと思い出すのはアニメの「赤毛のアン」で、アンの詩の朗読にマシュウとマリラは本当に誇らしい気持ちになる。僕は別に誇らしい気持ちになりたいわけではないが、それはそれで大変に幸せな人間感情だろうということもよく理解できる。それこそセレモニーの大切なところなんだという気もする。マシュウもマリラもアンの親ではないが、アンは親孝行をこの一瞬で果たすのである。それがセレモニーの持つ魔術なのではないだろうか。
 家に帰って子供達は、プレゼントのトス・バッテングマシーンで遊びだした。こういうことで興奮する子供というのが僕にとっての孝行であると思ったりする。僕はなんにもしてないが孝行を受けている。少なくとも子供は僕の教師だなあと思うのである。
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繰り返される歴史

2006-12-03 | 雑記
 断続的にであれ病臥していたという感じから、少しは復活の朝を迎えた。ちょうど日曜で、新聞をゆっくり読む楽しさをかみしめる。夜にニュース番組などを見て寝ると、翌朝の新聞はほとんど不要だということはわかるのだが、やはり活字で確認するという感じで新聞を読むのかもしれない。テレビはコメントがうるさくてわずらわしいし、新聞は文章が恣意的でわずらわしいという共に欠点はあるけれど、確認したりする場合は、やはり活字に一日の長がある。
 真央ちゃんの記録は、やはりいかにずば抜けていたのかということは新聞の方がよくわかる。しかし、映像での印象としては、時代にあった人なのかもしれないとも思う。伊藤みどりでは、高得点にならなかった時代があって、現在の真央ちゃんがいるのではないか。印象的な細さと軽さも関係があるかもしれない。回転のスピードでは村主のほうが明らかに早いが、難度ということで、ジャンプの時代が来ているのかもしれない。

 記事で気になったのは次世代DVDの紹介であった。僕はかすかにビデオ規格の記憶があるが、次世代DVDも同じような戦いになっている。どちらかの規格を選択したほうが間違いなく損をすることがわかっているので、歴史を学ばない競争社会は不毛であるといまさらながらに感慨がある。
 さて、比較のために両陣営の主張が並列してあるが、これは公平に両陣営の主張が並べられているだけで、何の意味もない気がする。まさに報道の限界を如実に表している。
 たとえば一番の違いである記憶容量の問題であるが、東芝は圧縮技術があるので問題がないという。つまりできないで無くできる。しかし松下はやはりできないという主張に終始しており、この判断は結局誰かに聞かねばならない。
 値段の問題も東芝は当然普及版の有利性を強調しているが、松下はディスク自体の値段はむしろ安いと主張している。これは店頭で確認するより仕方がない。つまりどちらかがうそをついている。
 公平に報道しようとする姿勢は必要なのかもしれないが、これだけ矛盾だけが出てしまう結果になることがわかっていて比較といえるのかどうか。どちらを選ぶのかは消費者の判断であるというのはもちろんわかっているが、過去にソニーを選択したことのある人にとっての悲しみを覚えているものにとって、割り切れない思いがある。いや、僕は素直に松下(子会社のビクターですね)を選択(正確には父か兄なのかもしれないが)したものではあるが、いつまでもベータで映画を観ていた人たちも覚えている。結局完全敗北なのでVHSを手に入れるよりないのだが、なかなか買い換えられないという心情はよく理解できた。僕はその頃からソニーが嫌いになったのかもしれない。負けたのだから仕方がないにしても、作り続けるべきだったのではないだろうか。
 さて、東芝は先行発売して普及を重視している姿勢で、松下は提携など政治的な攻勢有利ということがいえると思う。松下のことを思い出すと、これは過去のビデオの戦いのときとまったく逆の立場であることが面白いと思う。結局はシュアがものをいうということはわかりきっているが、ビデオのときと大きく違うことは、既に記憶媒体が多様化していることだ。いづれ次世代というが、ハードディスクが小型化して容量が巨大していく技術進歩の前に、ディスク自体の魅力がどこまで消費者の心をつかむものかという問題もあると思う。同じような問題は音楽媒体のウォークマンでも見られたように、カセットテープからミニディスクへ移行問題を飛び越えて、結局アップルが油揚げをかっさらってしまった。こうしたことから、いっそのこと完全にルールが違うほうが、結局は有利なのかもしれないとも思う。ほとんどの場合どのような配給方法が便利なのかということなのかもしれない。そして少しばかりのステータス。それは所有するものが味わう満足感であろう。
 まあ、僕には未来は予言できるわけもないから傍観するだけではあるけれど、どちらが勝利しただけという結果だけがすべてなのであろう。こういう戦いは社運をかけているのはわかるが、面白くはないと思う。結果重視の社会が生み出した機運のような感じもする。良くも悪くも、繰り返される時代を垣間見るほど、僕は年を取ってしまったというだけのことなのであろう。
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