僕の職場では今年は忘年会をやらない。毎年必ずやらないかというとそうでもなくて、以前は当たり前のようにやっていた。ここ三年は近所の同業事業所と合同忘年会を開催していて、三年という区切りだったので、止めた。今年はどうしようということで一応提案したが、「希望者だけで…」という声が上がったので、止めることにした。何というか意味がない。
スタッフを構成している半分以上は女性ということもあるとは思う。女性のその半分は主婦との兼業である。最近は男性も理解あるとはいえ、これは社会的な事実であろう。また、忘年会を開催していて思うが、確かに全員が飲むわけではない。出入り業者さんとかを呼んで、それで盛り上がったりしている。忘年会でも結局気を使うという話も聞いたことがある。もちろん僕だって気遣うが、そういうことではないのだろう。
つれあいに聞くと、以前の職場でも一度全体忘年会をやって、後で若手で別の忘年会を開くのが通例であったという。まあ、そういうものかもしれない。そうかもしれないが、僕のJCの先輩も同じようなことをしたがるのが僕には不思議だった。飲み会自体が嫌いではないが、わざわざそういうことをしたいという気分はまったく僕にはわからない。結局仲間としての親近感が違うということなのだろうか。違うはわかるが、もともとこの団体で知り合ったのだ。そこでまた分かれるが、多分僕にはわからないのだろう。
僕は小さな仲間は必要じゃない。くくる範囲で違いがあるのはわからないではないけれど、いくら範囲が広くても僕にとっては窮屈じゃない。友人は大切だと思うが、友人がいなければならないとは思わない。一人ではさびしいかもしれないが、大人なので一人でも楽しいも知っている。どちらだけという縛りがあると窮屈かもしれないが、どちらかを行き来するバランスが楽しいのかもしれない。
少し脱線気味だが、共同体の問題かもしれない。僕は日本国民だが、お国のためにという意識はまったくない。国が個人の僕に何かしているという感覚もない。軍事で守られている実感がないのもそのためだろう。むしろ危険にさらされている可能性だってあるだろう。そういう疑いとあいまって、対等にチャラじゃないかとさえ思う。僕が国のために何かできたら、それは多分もっと人々を危険にさらすだろう。能力がないとは平和の礎である。国家とは勝手にあって幸せなものの代表だろう。
また脱線。職場の問題。
これはかなり近しいチームだが、馴れ合いでもない気がする。友人とは違うし、微妙に利害も違う場合もある。僕の立場からすると、本当に心開いてもいけない場合がある。いや、心開いていいんだけど、本当にそれで彼らが安心するかは別であろう。求めてもいないだろうし、同じでないからなんとなくうまくいっている面のほうが多いようにも思う。
イタリア人のタレントさんが、イタリアで職場の同僚と酒を飲むということが、ちょっと考えづらいことだとテレビで言っていた。仕事帰りに一杯というのが、まずイタリア人には理解できないであろう、ということだった。イタリア人に限らない気もするが、彼らは友人や恋人や家族と酒を飲むのであろう。結婚しても、週末などは子供が寝た後に、朝までバーのような酒場で飲み明かすのが普通なんだとか。そういうことをしない人のほうが、ちょっと異常かもしれない、という感覚らしい。
さてここは日本である。会議の終わった席で、ついうっかり「ウチは忘年会はなくて…」という話をしてしまったら、他の同業経営者は一同に、「それはまずい」という感じでたしなめられた。まあ、それはまずいの意味がわからないではないが、一方で僕の世代の感覚もなんとなく持ち合わせているので、そういう感覚もまた「まずい」んじゃないかとも思うわけだ。ちょっと断絶的にいうと、わずらわしいので説明はしない。はいはいそうですね、と、話してしまった自分のうかつさを呪うだけである。説明してもいいんだが、残念ながら、彼らのほうが一方的に理解しようとしないだろう。時間の無駄と馬鹿の壁である。
かのように、忘年会ひとつでも共同体世間のある日本ではまことに難しい問題をはらんでいる。僕はもう一回別の会を催す必要のある共同体なら、最初の一回を省きましょう主義者と考えていただきたい。もちろん、後の一回さえしない人もあろう。だから妥協案で、新年会をしましょう、ということになった。これって解決策なのかどうかわからないけれど、少なくとも煩わしさの軽減策であることは確かである。将来的には忘年会もやってみようという話になるような気もする。僕のほうからやりたいは、やはり本当に「まずい」ことだと思っているだけの話なのである。
スタッフを構成している半分以上は女性ということもあるとは思う。女性のその半分は主婦との兼業である。最近は男性も理解あるとはいえ、これは社会的な事実であろう。また、忘年会を開催していて思うが、確かに全員が飲むわけではない。出入り業者さんとかを呼んで、それで盛り上がったりしている。忘年会でも結局気を使うという話も聞いたことがある。もちろん僕だって気遣うが、そういうことではないのだろう。
つれあいに聞くと、以前の職場でも一度全体忘年会をやって、後で若手で別の忘年会を開くのが通例であったという。まあ、そういうものかもしれない。そうかもしれないが、僕のJCの先輩も同じようなことをしたがるのが僕には不思議だった。飲み会自体が嫌いではないが、わざわざそういうことをしたいという気分はまったく僕にはわからない。結局仲間としての親近感が違うということなのだろうか。違うはわかるが、もともとこの団体で知り合ったのだ。そこでまた分かれるが、多分僕にはわからないのだろう。
僕は小さな仲間は必要じゃない。くくる範囲で違いがあるのはわからないではないけれど、いくら範囲が広くても僕にとっては窮屈じゃない。友人は大切だと思うが、友人がいなければならないとは思わない。一人ではさびしいかもしれないが、大人なので一人でも楽しいも知っている。どちらだけという縛りがあると窮屈かもしれないが、どちらかを行き来するバランスが楽しいのかもしれない。
少し脱線気味だが、共同体の問題かもしれない。僕は日本国民だが、お国のためにという意識はまったくない。国が個人の僕に何かしているという感覚もない。軍事で守られている実感がないのもそのためだろう。むしろ危険にさらされている可能性だってあるだろう。そういう疑いとあいまって、対等にチャラじゃないかとさえ思う。僕が国のために何かできたら、それは多分もっと人々を危険にさらすだろう。能力がないとは平和の礎である。国家とは勝手にあって幸せなものの代表だろう。
また脱線。職場の問題。
これはかなり近しいチームだが、馴れ合いでもない気がする。友人とは違うし、微妙に利害も違う場合もある。僕の立場からすると、本当に心開いてもいけない場合がある。いや、心開いていいんだけど、本当にそれで彼らが安心するかは別であろう。求めてもいないだろうし、同じでないからなんとなくうまくいっている面のほうが多いようにも思う。
イタリア人のタレントさんが、イタリアで職場の同僚と酒を飲むということが、ちょっと考えづらいことだとテレビで言っていた。仕事帰りに一杯というのが、まずイタリア人には理解できないであろう、ということだった。イタリア人に限らない気もするが、彼らは友人や恋人や家族と酒を飲むのであろう。結婚しても、週末などは子供が寝た後に、朝までバーのような酒場で飲み明かすのが普通なんだとか。そういうことをしない人のほうが、ちょっと異常かもしれない、という感覚らしい。
さてここは日本である。会議の終わった席で、ついうっかり「ウチは忘年会はなくて…」という話をしてしまったら、他の同業経営者は一同に、「それはまずい」という感じでたしなめられた。まあ、それはまずいの意味がわからないではないが、一方で僕の世代の感覚もなんとなく持ち合わせているので、そういう感覚もまた「まずい」んじゃないかとも思うわけだ。ちょっと断絶的にいうと、わずらわしいので説明はしない。はいはいそうですね、と、話してしまった自分のうかつさを呪うだけである。説明してもいいんだが、残念ながら、彼らのほうが一方的に理解しようとしないだろう。時間の無駄と馬鹿の壁である。
かのように、忘年会ひとつでも共同体世間のある日本ではまことに難しい問題をはらんでいる。僕はもう一回別の会を催す必要のある共同体なら、最初の一回を省きましょう主義者と考えていただきたい。もちろん、後の一回さえしない人もあろう。だから妥協案で、新年会をしましょう、ということになった。これって解決策なのかどうかわからないけれど、少なくとも煩わしさの軽減策であることは確かである。将来的には忘年会もやってみようという話になるような気もする。僕のほうからやりたいは、やはり本当に「まずい」ことだと思っているだけの話なのである。