頭が痛くないというだけで、かなり楽だということが分かる。つれあいは頭痛薬をよく飲んでいるが、やはりつらいのだろう。僕のつらいときはありがたいのに、彼女がつらくても僕は何もできない。お気の毒である。痛みが遺伝子をも狂わせるという論文もあるという。本当かどうか知らないが、恐ろしい。我慢してはいけないのである。どんどん薬を飲むがいい。飲みすぎなければ痛み止めは、癌の予防にもなるという。それも本当か分からないが、誰かが試すよりないだろう。焼き魚食ったって癌になるらしいから、薬を飲んで反応があるのはまともである。副作用のない薬は効き目がないということの証明である。痛みが消えるということの副作用は、普通は胃が荒れること(だから胃にやさしいなんて嘘をいう風邪薬が存在するのだ)なんだろうが、それがさらに抗癌になっても、それはそれで不都合はない。医療はつまるところいつまでも実験のようなものだ。怒られるけど、たぶんいつまでもそういうものだと正直に言ってしまおう。
さて、やっと活字を追うことができるようになって、なんとなく欲望が爆発したくなっている。いえね、いやらしい意味じゃござんせんよ。いろいろ読みたいものがチラチラ目の前にあって落ち着かないのである。最近は読書評などやらなくなったが、飛ばし読みではけっこう書籍も読破した。いいものにもあたってそれなりに収穫も多かった。年末年始比較的難解なものにも手を出したいところなのである。それで白状しますが、ついクリックしちゃうんですね、ネット販売。今週は毎日本が職場に届くのではないだろうか。まあ、ほとんどは物理的に読めないわけだが、積読も読書のうちである。本を並べるだけでも楽しい。これは中毒のようなものである。分からない人はそのままでよろしいと思う。
さて、昨日は家族交流会(クリスマス会)があった。少し食いだしてまずまずの体調回復を実感できたが、焼酎を飲みだした頃にやはりなんとなく違和感がある。嘘だと思われるかもしれないが、少し自重した。
おかげさまで子供達もそれなりに満足げな会になって本当にありがとう。委員長さんたちのそれぞれの言葉もよかったし、卒業生のコーナーも感慨深くよかったと思う。セレモニーも、僕が段々年をとった所為であろう、好ましく思えるようになった。なんとなく気恥ずかしさもあるんだけれど、それはまだ僕の青い部分なんだろうと思う。自分が当事者でなければセレモニーはいいのだという気がする。
しかし、ちょっと思い出すのはアニメの「赤毛のアン」で、アンの詩の朗読にマシュウとマリラは本当に誇らしい気持ちになる。僕は別に誇らしい気持ちになりたいわけではないが、それはそれで大変に幸せな人間感情だろうということもよく理解できる。それこそセレモニーの大切なところなんだという気もする。マシュウもマリラもアンの親ではないが、アンは親孝行をこの一瞬で果たすのである。それがセレモニーの持つ魔術なのではないだろうか。
家に帰って子供達は、プレゼントのトス・バッテングマシーンで遊びだした。こういうことで興奮する子供というのが僕にとっての孝行であると思ったりする。僕はなんにもしてないが孝行を受けている。少なくとも子供は僕の教師だなあと思うのである。