カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

若者たち

2011-07-11 | 映画
若者たち/森川時久監督

 兄弟喧嘩は夏の夕立の様なものだと子供のころによく言われた。激しいけれどすぐに止むということらしい。確かにあっという間に火がついて、しかし次の瞬間には一緒に遊んでいる。仲がいいから喧嘩するともいう。共同体だから利害が一致するわけで、喧嘩するより仕方無いことも多いのかもしれない。
 それにしても、大人になってまでよくもまあ激しい喧嘩をするものである。その混乱ぶりが売りなんだろうけれど、近所迷惑も甚だしかろうと思った。回りにいるすべてに迷惑である。中国に留学中はあちこちで喧嘩が始まるので閉口したが、昔の日本と同じであるようだ。まあ、あれも慣れてしまうもので、今となっては懐かしいものだけど。
 戦後しばらくの左翼的空気も今とはだいぶ違うようだ。兄が妹を心配するあまり保守的な差別的な発言をしてしまうのだが、知識的文化人である弟に諭される理屈はしかし、ちょっと左がかりすぎていたりする。みんな貧しいわけで、余裕なんて無いわけで、どこかそのような理想主義的なものを持っていなければつらいというのもあるのかもしれない。まあしかし、だから誰かが支えて生きているのは変わりがないと思うし、弟の様な境遇を支えているのも兄なのだろう。みんな社会が悪いというのは簡単だけど、個人の境遇は今であっても社会的にそう簡単に変えられるものではない。自己責任という言葉も嫌いだけど、悩んだ上で自分で決めるしかないではないか。
 理想主義で自分自身を縛って相手を威圧する妹の友人もめんどくさい。自分の問題を社会化しすぎで、結局は甘えているようにしか見えない。その上他人の好意に助けられているわけで、なんだかそれだけは不快に思った。実際はしがらみもあって余裕もないのだけれど、ひがんで閉じこもっているのは誰なのだろう。
 しかしながら、そういう異質なものがゴロゴロ引っかかりながらも、なかなか面白いのも確かである。その時代にかなりヒットしたらしいが、今の時代でも似たような現象は起こり得るのではないかという気さえした。もちろんそのままでは時代背景が違いすぎるのだけど、このような失われてしまって久しいきょうだい間の家族的なつながりというのは、現代にも通じるテーマではなかろうか。
 現代人の目から見て偏見に見えるようなものも、実は人間だれしも持っているような普通の感覚だったりするのかもしれない。今のフクシマのことを考えても、なかなかドキリとするようなことでもある。そういう意味でも、デフォルメはあるが、あんがいさらけ出してカタルシスを得るような映画といえるのかもしれない。普通はあれだけ喧嘩すれば、怪我の代償の方が大きいのであろうけれど…。
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