カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

印象と事実は違うのではないか

2007-09-27 | 雑記
 知らなくて葬式も失礼していたお宅に訪問して、線香をあげさせてもらう。
 亡くされたのは奥さんである。特に病気とも聞いていなかったので不審に思っていたが、お話を聞くと具合が悪くなってから10日あまりで亡くなられたという。病院には別の件でかかっていたらしいが、ちょっと検査をしたほうがいいといわれた矢先だったらしい。そうして一部見てもらって、次は別の病院で正式に検査を、という時に自宅で吐血した。吐血してもちっとも本人はつらくない様子で、ご自身で「やっぱり調子が悪いのだろうか」などといっていたぐらいだそうだ。そうしてそのまま入院となる。そうなると確かに状態はかなり悪くなっていたらしいけれど、やはり本人はぜんぜんつらくないといっていたらしい。少なくとも死ぬ程度のこととは思っていなかったのではないか、ということである。しかしながら病状は一気に悪化していき、あっという間に亡くなってしまったそうだ。
 やっとふたりになって、合計で170歳ぐらいにはなろう、といっていたらしい。旅行にも行ってなかったな、とおっしゃっていた。
 今は息子さんの嫁が自宅にいるとのことで心配はないそうだが、いつまでもいるわけではなかろう。なんというか、男というのは弱いものだな、と思わずにいられなかった。

 それにしてもやはり日中は暑い。これはなんという熱気だろうか。とても身動きできない。ひきこもりになりたい気分だ。

 夜はPTAの専門部会。
 研修会を企画しているのだが、なかなかとらえどころのないテーマで、話し合いは難航する感じだ。まどろっこしいなあ、と感じていたが、結局、いまどきの親に問題が多いということが共通認識らしい。そういう具合に話がいくと、先生方を含め一気に場の空気が納得したようなものになる。僕も一部は納得がいくのだが、本当には同意する気になれない。差し出がましいので黙っていただけである。話し合いが速く終わることが先決だ。
 だいたい、何と比較して、今の親は駄目になっているというのだろう。話し合いの中で出ていたが、運動会での駐車場のマナーの悪さだとか、テントの利用の仕方の悪さだとか、タバコののみ方だというか問題は、以前に比べて悪くなっているということなのか。
 僕も正確なデータがあるわけではないから同じことだが、僕の印象としては、それでも僕の親世代と比べると、格段に今のほうがマナーがいいとは感じる。未熟な人がいることは確かだけれど、それはそれである。以前の運動会は、酔って喧嘩する人もいたし、子供に罵声を上げる人も珍しくなかった。おかげで子供も野蛮だったけれど、大人の方が立派に凶暴だった。まあ、そういう時代だったわけだが、比較対象が悪すぎるのだろうか。
 もちろん現状をすべて肯定するつもりはない。悪い人は断固として存在しているし、はっきりいってかなり迷惑だ。先生方の信用も、世論的には失墜している。本当に悪いのかは実際にはかなり不透明だけれど、それで了解できるほどには世論的には悪くなっているということは理解している。
 それでもやはり、以前に比べると、少しづつでも今のほうが良くなっているという実感を持っている。先生はおおむね親切になったし、礼儀正しい。以前の先生はおおむね尊大で不親切だった。僕らに理解も求めていなかった。
 今の親の方も子供の教育に熱心すぎるほど熱心だ。たぶん暇なのではないかとさえ思えるほどだ。父親も家に帰るし、ちゃんとお風呂にも入れてやっていると聞く。休みには一緒に遊んだりするのだろう。僕の感覚ではスーパーマンに思える。父親と一緒に住んでいるということさえ、よく分からない少年時代だった。まあ、それも当たり前の時代だったようにも思う。たぶん比較が悪すぎるのであろう。
 しかしながら会議のほうは、なんと言うことはなくなってしまった。ある人の提案で講師候補者が決まると、一気に話し合いは終焉した。案があるんなら出し惜しみしないで早く言って欲しいものだ。話し合いというより、ただの愚痴り合いではないか。

 先日ウチの子と近所の子とで、少し小競り合いのようなことがあったらしい。先方の親から連絡を受けて、学校の方で改めて双方に話を聞いたらしい。結果としてはウチの子が悪いという事になったらしい。納得はいかなかったが、謝らされてしまったそうだ。そういう結果に不満足だからいうのではないけれど、どうも声の大きいほうに仲介の先生が流されているように思えた。納得いってなかったのは分かったが、そうさせてもらったというではないか。子供のすることだからどのようなことが起こるのかは明確にはしづらいとは理解はしている。自分の子を信用したいという心情があるのも確かだ。しかし、納得がいく前に結論を急ぎすぎて、早く結果を出したがったのではないかという疑念が残った。こういう問題なら、最初から仲介などしないほうがいいのではないか。子供のけんかに親が出るようで不快である。
 しかし考えることは止める。これも不毛な問題だ。不愉快にはつきあわない。不快な親がいるということが分かっただけでも収穫としなければならない。ご近所だが、はなれて暮らせばいいのである。
 しかしこういうことでも先生の信用は失墜する。教育問題を考えるなんて、僕には最初から無理な相談なのであるようだ。
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2 コメント

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Unknown (ボズ)
2007-09-29 10:36:16
確かに、出口の無い迷路のような教育問題だが、実際子供の居る家庭は切実だ。

両親の方で、しっかりした教育方針のすり合わせが、まず、必要でしょう。(学校対策も含めて)

我が犬友の金太郎パパなども、佐世保の「アノ」学校の子供達を守る運動をしている。
ワシなんかも出来る事は無いだろうか?

子供を守ろう。
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Unknown (korin310)
2007-10-01 13:35:10
僕は正直に言って教育には不熱心だと思います。我が子の心配は確かにするのだけれど、こうしなければという確固たる信念もありません。危険からは守りたいけれど、教育が悪いから育たないとも強くは思わない。個人差があるから一律ということだけが気に食わないだけのようです。しかし画一教育が一方的に悪だとも考えていません。教育というものは長い歴史があるにもかかわらず確立できないほど難しいものだとは考えています。不熱心だけれど無関心ではないという態度で行きたいと思います。
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