夫婦善哉/豊田四郎監督
山田洋二監督は、この映画の森繁の演じる主人公への「共感」ということを語っていた。男としてこのような情けない人間の気持ちが分かるということなんだろう。実際の自分とは違うとはいえ、こういうことってあるんじゃないか、とか、このような女の行動に羨ましさを感じたりする、ということなのらしい。
実を言うと、僕はこの主人公にまったく共感を覚えないという印象を持ちながら観ていたので、ちょっとばかり驚いてしまった。随分僕とは違う考え方の男の話だなあ、と思いながら、しかしながら恵まれている人間の弱さというのは、このような依存体質を作るものなのだろうか、などと分析していたのに、男としての共感の話になると、正直言ってかなり「?!」という感じなのだった。
僕自身は男としてはずいぶん情けない人間だとは思うのだけど、その様なナイーブさを知っているというのが、ある意味で自分の強さになっているとは自覚している。女として生きるには弱過ぎるので仕方なく男に生まれて来たようなものなので、女社会に怒られないように最小限の努力をしているようなものだ。それが自分の分のようなもので、それ以上でもそれ以下でもない。
この映画の主人公は、家を捨てて駆け落ちした癖に、いつまでも家の未練を捨てきれないばかりか、その権威にすがる自分の姿さえ、上手く認めることが出来ないように見える。最初に自分の方が家というもの裏切っておきながら、家からの断絶に腹を立ててばかりいる。もともと曲がらないものを、自分のわがままで曲げられない非力に気付いていない様子なのだ。だから飛び出したはずなのに、家のことが気になって仕方ないということなんだろう。
基本的にその様な生き方を選択した人間が、むしろ自分の生き方に介入してくる者に対して反発をするというのであれば、僕自身も理解できるのだろうとは思う。しかしながら相手をしない相手の方に、自ら再三にわたって乗り込んで行って腹を立てている。一種の狂言であって、なんの理も分も無い話なのではないか。日本の文化の幼い家長制度という気がして、どうにも嫌悪の気持しか湧かない。早いとこ没落すればいいだけの事のように思えて仕方なかった。
視点としては、その様なひ弱な若旦那に対して優しいものであるのだが、このような優しさというのは、子供を育てる母性のようなものにすがっているようにも見える。伴侶に母性を求めて何も悪いことは無いのだろうが、さらにそういうものが魅力であることも理解はするけれど、基本的に夫婦というのは、本当にそういうものなのだろうか。さらにそういう人が世の中に居てもかまいはしないというのはあるにせよ、僕自身はまっぴらごめんという感じかもしれない。共感を持つような感情以前の事のようにも思う。
人間は馬鹿をするものだし、またその様な馬鹿をしてしまったことについて咎める気持ちにあるのではない。馬鹿するにしても、自分の主体性が大切なような気がするということなのかもしれない。自分の業のようなものに抗えずに、ついついやってしまうという馬鹿については、だから僕は共感が出来る。しかしながら自分の意思とはよく分からないモノに翻弄されるのを自ら望んでいるような考え方に、なかなか同意できないということなんだろうと思う。出来れば友人どころか、知り合いにさえしたくない、そんな人間が森繁のような感じがして、まあそれも好き好きだが、馬鹿な女もいたもんだな、というような映画だったと、思ったことだった。