カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

チャンスは自分でつかむものか

2022-11-05 | 境界線

 本場アメリカでジャズを学んでいる若者のドキュメンタリーがあって、その中に才能ある若い日本人もいるわけだが、いわゆる積極性の面で、問題があるということらしかった。お国柄ということもあるし、本場のジャズ文化ということとか、教育の考え方もあるかもしれない。
 楽器にもよるのだろうが、この曲をだれかやれる? と先生が言うと、やはり積極的なものから先に自分がやると言い張る。じゃあやってみて、となって演奏する。じゃあ次は? となるとまた誰かが手をあげて選ばれる。そうしてまた演奏する。手をあげないものはいつまでたっても聴いているだけで、演奏には参加できないということになる。演奏できないものは、先生の目に留まることもできないということになり、本番のプレーヤーに選ばれることも当然なくなってしまう。チャンスは積極性の先にしかないことであり、黙っていてめぐって来る社会ではないのである。
 基本的な視点はそういうことだった。しかしながら学校だから、さまざまな場面でレッスンがあり、演奏する機会や、高度なものを見たり聞いたりする実践の場が豊富にあるようにも感じられた。
 もちろん先生も、積極性のないものにチャンスは訪れないと頻繁に口にしている。向こうの積極性は、ある意味でやる気であるとか前向きであるとか、何か自分で勝ち取るアグレッシブな力のありようのようなものなのかもしれない。
 そうしてある者はそのチャンスを勝ち取るために、我こそ先に人を押しのけて前に出ようとするのである。それがその世界の美徳なのだ。
 これは実際によく分かる話ではある。日本とは違うということのようだが、日本社会であっても、村社会の集団内では、多かれ少なかれそういうことは起こる。積極性が無くても指導者が勝手に持ち上げる場合もありはするが、それが正当なものばかりでもあるまい。実力通り客観的に人選がなされる社会なんてものは、アメリカだろうと日本だろうと、必ずしも実現していないかもしれないではないか。
 しかしながら例えそうであっても、本当に飛びぬけて実力のあるものというのは、やはり突き抜けてしまうものではないか。そんなに差が明確でない競争であれば、それのプラスαが必要だし、はっきり言って運だって味方にしなければならないだろう。そういうもの以上のものがあるのだったら、そもそも積極性だとかいう以前に、ここはお前だろう、という話になるのが当然だろう。
 もっともそんな人間なんて、やっぱりそうそういるものでは無いのかもしれない。しばらくたって結果的に実績が積み上げられ、スゴイ人になるということなのだから、最初からものすごく凄くなくたっていいのである。今が凄くないから、凄く鍛錬を積む素養ができるのかもしれないし、伸びしろだってたくさんあっていいじゃないか。
 まあ、場合によっては恥ずかしがり屋は損かもしれないが、前に出てほんとに失敗するのだって相当つらいですよね。そういう恐怖を打ち破るためには、やっぱり何らかの自信というものは必要なのかもしれないけれど……。
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