梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

無我(その3)

2021年09月18日 06時08分46秒 | Weblog
前回の続き20年間修行を積んだ僧の結末です。「無我とはあらゆる欲望を捨て去ることではない」との見解の話しです。最近読んだ無我について書かれた本からの抜粋ですが、以下です。

 中国南宋代の禅書『五灯会元(ごとうえげん)』にある有名な公案です。昔、ある老婆がひとりの僧侶を自宅の離れに住まわせ、仏道修行の手伝いを始めました。僧侶が衣食住に困らぬようにと、老婆が何くれとなく面倒を見てやること20年。ある日、僧侶がどのような境地に至ったかを知りたくなった老婆は、給仕の若い娘に「離れの坊主に抱きついて誘惑しなさい」と指示を出しました。
 すると、言われた通りに抱きつく娘に対し、僧侶は動揺せずに答えます。「枯木寒巌に倚(よ)って、三冬暖気なし(寒い岩の上に枯木が立ったようなもので、何も感じない)」。これを聞いた老婆は、「さすがは長い修行を耐え抜いた清僧ならではの境地」とほめ称えるのかと思いきや、さにあらず。「かような生臭坊主に20年も費やしてしまった」と激怒し、その場で僧侶をたたき出したどころか、離れすら焼き捨ててしまったのです。
 この話が示唆するのは、真に無我に至った者とは、あらゆる欲望を捨て去った世捨て人めいた存在ではないという点です。

このような話のすじです。さて、皆さんはこの話をどう受け止めたでしょうか。そんな老婆が実在したのか、つくり話ではないだろうか。私もそう思わないでもありませんが、何か示唆を後世に残そうとした、800年前の禅宗の史書であることは間違いありません。老婆が下した結末は意外ではあるものの、私は何故かほっとしました。欲望を捨てなくてよいのですから。真に無我に至った人でも、決して特別な人間ではないということです。

特別でない我々にとって、無我とは無欲でもなくまた強欲でもない、普通の状態でいいとのこと。無我になったようで、また自己がぶり返す。「ああ、自己が湧いてきた」と自観法でみる。それでも、ひたすら心と体の一定の状態を保つように、修正の積み重ねをする。これは生涯にわたって修行を続けることでもある。世の移り変わりや理不尽に抵抗するのではなく、服従するのでもなく、停止と観察を繰り返せば、道に迷わず前に進むことができる。私はこのように捉えるようにしました。

ここで、このタイトルの(その1)に立ち戻ります。長くお付き合いのあった方が15年前に私塾を開設し、3年後にそこで座禅を行うことになり、毎週土曜日の早朝座禅会として定着したことをお伝えしました。その塾長が、亡くなられました。(その1)を私が書き出したのは9月1日でした。翌日の9月2日に、息子さんから訃報が入りました。実はその直前の2回の座禅会は、塾長は体の不調を訴え休んでいました。自らが休むことは滅多に無く心配していた矢先です。伏せって2週間、突然の訃報に寂寞の感を禁じえません。享年74歳でした。

塾長との出逢いは22~3年前です。それ以前全く面識がありませんでしたが、わが社を訪ねてこられました。もっと前から来たかったと話されました。話を詳しく伺うと、父は既に他界していましたが、私の父に会いたかったとのことでした。今から50年前、塾長が白ナンバーで運送の仕事をしていた時、製鉄所でわが社の社員(運転手)に接し、軍隊式で厳しく指導されている姿が印象に残っていたというのです。その訪問を契機に、徐々に親しくさせてもらうようになりました。

座禅会は今後、塾長の息子さんが継承して行くことを聞いています。しかし私は、これを機に退会する事を決めました。塾長が今回のようなことを含め継続できなくなった時、私も同様参加できなくなった時、退会させもらうことを以前から考えていました。座禅会は、塾長の会社の社員の方々も参加されていますので、息子さん(その会社の社長)の強い意志で引っ張っていかれることを願っています。

お尻の痛みを切っ掛けに、そして塾長の死に伴い、13年間続けてきた座禅を卒業することになります。私の禅(行)への取り組みは、ウォーキングへと形を変えることになりました。このテーマで書き出したのと塾長の死が重なったのは、偶然だったのではなく、必然性を感じています。
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