梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

分かれ道は(その2)

2021年04月17日 04時49分42秒 | Weblog
「フォルクスワーゲン(以下:VW)」は、現在自動車メーカーとしての名前となっていますが、ドイツ語のVWとは「国民車」の意味です。ヒトラーが1934年のベルリンモーターショウで提唱した国民車計画に従い、著名なF・ポルシェによって、進歩的なメカニズムを備えた流線型のリアエンジン小型車が開発されました。この国民車を供給すべく1937年に、旧VW製造会社はナチス政権の国有企業として設立されました。

しかし1939年に第二次世界大戦が始まるとまると、VW製造会社は軍需生産に移行し、この車をベースに転用した軍用車両を生産します。民需であり大衆を喜ばそうとした国民車は生産されず、積立金を支払っていた購入希望者への納車はされなかったのです。そのような情勢で、当初のVW計画は立ち消えた形になりました。

「アウトバーン」を直訳すると「自動車の走る道」、つまり高速道路のことです。1929年に起こった世界恐慌はドイツにも深刻な不況をもたらし、国民10人に1人の失業者を抱えます。1932年から1933年の選挙キャンペーンで、ナチ党は国民に職とパンを与えることを公約します。高速道路着工や病院建設など公共事業は財政政策の柱でした。アウトバーン工事の特徴として、あえて機械化比率を抑制し、失業者を雇用しての人力施工部分を多くしました。

一方ヴェルサイユ条約を実質破棄し、再軍備をすることで雇用を創出する狙いもあり、18から25歳までのドイツ男子は兵役義務が課されました。また国家労働奉仕団と称し、同じ年齢層に6か月の労働研修が行われました。その結果、600~700万人いた失業者は35万人まで減少したといわれます。開戦までにアウトバーンは3,860㎞が完成しますが、そこに個人が所有しようとしたVWが走ることは一度もなかったのです。

「歓喜力行団(かんきりっこうだん)」とは、ナチ党政権下、国民に多様な余暇活動を提供した組織です。国家管理のもと、旅行・スポーツ・コンサート・祝典などを企画しました。この活動の目的は、「歓び」を通じて労働の「力」を回復させ、併せナチ党の理想を行き渡らせ、ドイツへの忠誠心を高めることでした。それまで労働者階級には手が届かなかった中産階級的レジャー活動を、広く国民全体に浸透させようとしました。

党幹部は既に戦争が回避できないと察知しており、労働者に休暇を与えることで、低賃金でも不満をつのらせないガス抜きの意味もありました。歓喜力行団は提供する活動を増やしながら、民族共同体を目指し、大衆の人気を博してドイツ最大級の組織となりました。しかし戦況が悪化すると、クルーズ船は病院船に転用され、積立制度が反故にされるなど、提供されるサービスが削減されることになります。

「フォルクスワーゲン」「アウトバーン」「歓喜力行団」これら三つの政策が、結果的にドイツ国民を狂わすことになります。本来は「公平」を目指し、「団結」を固め、「格安旅行」楽しんでもらうためのものでした。私の観たテレビ番組では、これらは「快感をくすぐられ簡単にコントロールされる人々への施策だった」、と真相を言い当てています。

『人々はなぜヒトラーに笑顔で従ったのか?』 番組では大学生に、ナチス体験授業(ユニホームを着せ同じ行動を繰り返す)をさせ、そこに社会の敵を与えられると、恐ろしい集団行動へと暴走していく実験も行われていました。また、戦後何十年も経た高齢の人(当時は青年)が、現在もヒトラーを深く信奉している姿も映し出されていました。その老人は、いまだに何か夢を追いかけているようでもありました。

「信じる者は救われる」との世界があります。困難や不安や恐怖におそわれた時、人は何かに救いを求めます。しかし人々が救いを求めた、全権を掌握していた総統ヒトラーは自殺し、戦争に負け、国は東西に分断され、ドイツはホロコーストを行った非人道的で卑劣な国として世界中から非難を浴びます。優秀な民族といわれたドイツをそこまで追い詰めた、その分かれ道はどこだったのでしょうか。  ~次回に続く~
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