梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

ナチハンター(その2) ~朝日新聞GLOBE要約の続き~

2024年06月08日 05時58分12秒 | Weblog
【ナチスの犯罪を追い続けるドイツ当局の執念】
 ドイツ南西部のルートビヒスブルクは人口9万人の小さな街だ。多くの観光客が足を運ぶバロック様式の宮殿があり、そこから歩いて5分ほどのところに、塀に囲まれた建物がひっそりと立つ。ナチスの犯罪を追う司令塔、「ナチ犯罪追及センター」だ。
 国内外の捜査機関などと協力し、訴追のための事前捜査をしている。証拠が集まれば、資料を各地の検察に送る仕組みで、起訴につなげてきた。西ドイツ成立後、ナチスの犯罪追及が下火になりつつあった1958年に設立された。60年以上かけて作成した個人の名前、所属部隊などの検索カード178万枚が、地味で地道な作業を物語る。カードは膨大な所蔵資料とひもづいている。容疑者になり得る人物がいれば、各地の収容所の名簿、役所の年金記録などと照合。「容疑者が名前を変えている場合も多いから、追跡は簡単ではない」と所長のトーマス・ウィル(63)。
 センターによれば、戦後ドイツで有罪認定に至ったのは約6500人にのぼるが、「多いとは言えない。10万人の犯罪者がいたと指摘する歴史家もいる」。訴追の可能性があるケースは残りわずか。そしてその可能性は日に日に低くなる。近年は死亡による捜査打ち切りや、裁判に健康状態が耐えられないと判断される例もある。センターのスタッフは最盛期の60年代には100人を超えていたが、今は20人。ただ、可能性がゼロにならない限り、捜査は続く。所長のウィルは希望して2003年にセンターに来た。「私は直接、ナチスの犯罪に関わった世代ではないが、過去への責任は感じる。訴追を続ける理由には、人々に忘れさせないということもある。私たちはこの犯罪の歴史に向き合わないといけない」。
 ナチスの犯罪追及は、ドイツの「過去の克服」の柱の一つ。センターは今、地域の誇りとなっている。だが、かつてはそうでなかった。設立当時、世論はナチスの犯罪追及に目を向けなかった。自国の暗い過去を暴くセンターや職員は白眼視され、買い物や家探しにも困るほどだったという。その流れを変えた裁判を知る人に会うため、フランクフルトに向かった。

【歴史を刻んだアウシュヴィッツ裁判 追及する検察の苦悩】
 「あの頃のドイツは『杖に泥がついた』状態だった」。ドイツ・フランクフルトの自宅で、ゲアハルト・ウィーゼ(95)は静かに振り返った。舗装されていない、ぬかるんだ道を歩くと、靴に泥がつく。汚れを杖でこすり取れば、靴はきれいになるが、杖には泥がついたままだ。悪事を隠していたり、罪悪感を抱いていたりする様子を表現する。
 敗戦後、米国や英国など連合国による「ニュルンベルク裁判」で主要戦狙ら24人が起訴され、「人道に対する罪」などで裁かれた。占領下で裁判は続き、ナチ党員だった人物の公職追放など、社会の「非ナチ化」も進められた。しかし、機運は長くは続かなかった。冷戦の進展と東西ドイツの分割で、米国をはじめとする西側陣営は、西ドイツに再軍備を求めた。初代首相のアデナウアーは社会の安定と統合を優先し、恩赦と軍の名誉回復に踏み出した。経済復興にわく市民も過去に目を向けようとしなかった。ミュンヘン現代史研究所によれば、1950年に700件を超えたナチスの犯罪の有罪認定は、58年には20件にとどまったという。
 ドイツが「泥」と格闘するきっかけになったのが1963年。100万人を超える人々が犠牲になり、ホロコーストの中心的役割を担ったドイツ占領下のポーランドにあった、アウシュヴィッツ強制収容所を巡る裁判が始まった。収容所の生存者からもたらされた情報を基に、外交関係が無かったポーランドの協力を得るなどし、州検事長のフリッツ・バウアーが実現にこぎつけた。若手検事の一人として加わったのが冒頭のウィーゼだ。「私が選ばれたのは、45年以前に検察官として仕事をしていなかったからだ」。元ナチス党員やシンパは、司法界にも多かった。
 アウシュヴィッツ所長の副官らに対する起訴状は計700ページに及んだ。1年半にわたる裁判では、ホロコーストの生存者を含め、約350人が証言。工場の流れ作業のようなプロセスで、いかに効率よく大量殺人が行われていたかを明らかにした。証言でつまびらかにされた収容所の「日常」は、法廷に詰めかけ記者らの報道で全土に知れ渡った。ウィーゼは「あの裁判の一番の意義は、ホロコーストは本当にあった、ガス室もあった、と認定されたことだ」。今は自明とされる「事実」の証明にも、それほどの時間と労力が必要だった。
 ただ、判決には満足できなかった。20人の被告のうち6人には終身刑が言い渡されたが、数年~十数年の有期刑や無罪判決の者もいた。個々の直接的な残虐行為は裁かれたものの、大量殺人マシンと化した収容所の一員だったというだけでは、被告を有罪にすることはできなかったという。さらに、法廷でほとんどの被告は「命令に従っただけ」などと答え、謝罪や反省を口にすることもなかった。
ユダヤ人だったバウアーのもとには、「豚野郎」といった脅迫状や嫌がらせの電話がひっきりなしに届いたという。ウィーゼは「彼は広報の役割も引き受けていたから。夜中の電話は体にこたえただろう」。バウアーは68年に浴槽で死亡。検視で鎮痛剤とアルコールが検出され、自殺も他殺も退けられたが、死因を巡って様々な臆測が飛び交ったという。
 ウィーゼは、ホロコーストのような悲劇を繰り返さないために必要なのは、「若い人たちに全てを話すことだ」と強調する。歩くのに杖が必要となり、目はかすみ、耳は遠くなった。それでも定期的に学校を訪れ、自身の体験を伝えている。歴史を刻んだ裁判の立役者バウアーが亡くなった68年は、世界各地で若者たちが反戦運動などに立ち上がった年でもあった。ドイツでも、若者による「一撃」が新たなページを開いた。

前回と今回でGLOBEの要約は終わります。戦後ホロコートは封印されたまま、元ナチ党員が厳然と存在していた時代を経て、帰属した個の罪を裁くことから、自国の犯した過ちを見直そうとの機運が生まれます。しかし、膿が出し切れていないドイツが浮かび上がります。

今回このGLOBEを取り上げた理由は、過去私のブログで書いた人物がこの特集にも載っていたからです。次回、2年前のブログを載せようと思いました。最後のGLOBEの記事の登場人物フリッツ・バウアー、歴史を刻んだ裁判の立役者バウアーについての内容です。  ~次回に続く~





 
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