因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

朱の会vol.5 朗読シリーズ―ときめいて、艶めいて

2022-05-19 | 舞台
*神由紀子構成・演出 余田崇徳音楽 公式サイトはこちら 野方・ブックカフェ「どうひん」22日終了(1,2,2',3,4)俳優の神由紀子が主宰する「朱の会」の節目となる第5回公演の初日を観劇した。

[第1部]
「雨傘」・・・川端康成のわずか2ページの超短編であるが、そのなかに込められた情感や味わいの深いこと複雑なこと。文学を越えた芸術品のようである。互いに好き合っている少年と少女。しかし父の転勤で少年は町から出てゆく。雨の降る日、別れの前にいっしょに写真を撮って写真屋を出る。目で読めば5分もかからない。それがこうして丁寧に朗読されることで情景がいっそう鮮やかに思い浮かび、少年の心の移ろいが伝わる。朗読は高野百合子。あれは「小紋」という柄だろうか、淡い水色の着物が美しく、この小さな物語を客席へ確かに届けた。
「日向」・・・これは川端康成自身の生い立ちと初恋にまつわる随筆である。幼いころに両親も家も失い、盲目の祖父と暮らしたときについたある癖のこと。ある娘と恋をして、わだかまりが解かれた喜びが綴られている・・・と自分で解説しながら語彙力の貧しさにめげるほど複雑で、にわかにわかりにくい心の動きである。朗読は渡部美和。この随筆を敢えて女性が読むこと、笑顔で締めくくることの演劇的効果について考えている。渡部は淡々とした読み方に密やかな魅力を発することができる俳優と思う。別のアプローチもあり得るのではないだろうか。
「あめあがり」・・・映画の1シーンのような三浦哲郎の短編である。昔別れた女と偶然出会った、そのわずかな時間の男の心の移ろいを岩間太郎が読んだ。第3回公演の「しあわせの王子」からぐっと深みが増し、それでいて技巧的な嫌味のない読みぶりがこの方の佳き芸風である。
「とんかつ」・・・ある鄙びた宿を舞台に、母親と雲水になる息子と、宿のおかみたちの交流が温かく綴られている。地の文とおかみ役は玉木文子。母親や女中を高野百合子が読む。冒頭、「ぽんぽこぽん」というのだろうか、何やら楽しくユーモラスな打楽器の音で客席を和ませ、おかみの良き人柄を表すようだ。寺での厳しい修行に入る前の親子の夕餉に、母親は息子の好物の「とんかつ」を所望する。ほんとうにこれは「ハンバーグ」や「ステーキ」ではだめで、「とんかつ」でなくてはならないのだと思わせる。「見終わったあと、とんかつを食べたいと思っていただけたら」と当日パンフに玉木が記していたが、みごと成功ではないだろうか。楽しく気持ちの良い一篇である。
「赤いろうそくと人魚」・・・小川未明の悲しくも残酷な童話を、渋沢やこ、甲斐裕之(木村優希のダブルキャスト)、吉田幸矢、中野順二が読む。台本を見ずに客席へ直接語りかけるところを織り交ぜ、舞台にメリハリと、作品と読み手、客席との良き距離感を作った。本作は人形劇団ひとみ座公演を観劇したことがあるが、読むたび聴くたびに色合いの変わる物語ではないだろうか。

[第二部]
「朝焼け」・・・藤沢周平の短編1本で1ステージという大胆な試みだ。今でいうギャンブル依存症だろう、賭け事を止められない新吉(高井康行)と、昔なじみのお品(渡部美和)の物語である。冒頭の乱れ打ちのような打楽器の音が、賭場の怪しい雰囲気や、どうしようもなくそこに引き寄せられる新吉の心の様子を表し、佐藤昇の第一声「二両の金はあっけなく消えた」が観客を一気に物語のなかに引き込む。地の文の朗読はほんとうに難しく、淡々と読むところ、やや芝居気を入れて声を張るところなど、作品や場面によってさまざまだが、佐藤は「たっぷり」と読む。ふとNHKテレビドラマ「花へんろ」の渥美清の語りを思い出した。淡々とした語りではなく、芝居気のある口調であった。しかし決して大仰ではなく、ときにしみじみと噛みしめるようなところもあり、語り手の存在がドラマの登場人物と同じように確かに存在していることが感じられたのである。それに似た味わいが佐藤の地の文の語りにはある。地の文の語りは佐藤に加え、神由紀子、辻田啓一が担い、このお三方は賭場の元締めや茶屋の女将、新吉に脅される商人などの役も読む。

 緊張感漲る圧巻のステージで、過去公演の「じねんじょ」(三浦哲郎)、「鼓くらべ」(山本周五郎)に連なる、朱の会のひとつの到達点と思われる。

 気になったのは、新吉役の高井康行が終始新吉を「演じる」表情、佇まいであったことだ。本式の上演なら普通のことであるが、朗読のステージの場合、どっぷりと役に入り込むというより、作品と読み手のあいだの距離感もまた味わいのひとつではないだろうか。もっとニュートラルな状態で台本に向かい、台詞を発するときと地の文を聴くときとのバランスがあればと思う。

 題名の「朝焼け」は、物語のラストシーンの情景である。新吉は逃げおおせたなら、今度こそ賭け事からきっぱりと足を洗い、お品と再会してほしいと願わずにはいられないが、人の心は弱いものである。無理かもしれない。安易に夢を与えない冷徹なところも藤沢周平作品の魅力であり、最後の「新吉は朝焼けの道を東に歩きつづけた」の一節も佐藤昇が堂々と締めくくり、佳き余韻を残した。

 かねてから「朱の会でぜひ久保田万太郎の『釣堀にて』を」と願っている自分だが、もうひとつあった。ルーマー・ゴッデン作『ねずみ女房』である。家の中しか知らない女房ねずみが、家主が籠に飼っている鳩と出会ったことから外の世界へと目覚めてゆく物語だ。シンプルな朗読もよいが、渋沢やこによる「布の紙芝居」の要素を取り入れたステージを妄想しているのだが、いかがだろうか。
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