因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋通信71号完成 その1

2022-05-21 | お知らせ
 おかげさまで因幡屋通信71号が完成いたしました。これまでの設置先を再び一つひとつお問合せしつつお送りしておりますが、文学座さまには事務所のチラシラックに、そして亀戸の「時々海風が吹くスタジオ」さまに新規で設置が叶いました。ご協力に心より感謝申し上げます。まずメイン劇場からお届けいたします。明日まで公演中の「朱の会」の舞台につきまして綴ってみました。ごゆるりとお読みくださいませ。

 
朱の会のこれまでとこれから
 ―第5回公演に寄せて―

 俳優の神由紀子が主宰する朱の会(しゅのかい)は、2017年の旗揚げ以来、年一回のペースで小説や戯曲、詩歌の朗読を中心とする公演に加え、昨年末は4人の俳優がそれぞれ1作品を語る「小公演」が行われました。今号は、これまで印象に残った作品を振り返りつつ、第5回公演に寄せる夢と期待と妄想をお届けいたします。

 ◇朱の会のこれまで◇

 文学を読むことが、朱の会の第一の個性である。作品の選択が公演成功の鍵を握ると言ってもよく、目読と朗読、そして鑑賞の三つの条件をクリアする作品を選ぶ目が必要とされる。いわゆる「名作」であっても、朗読作品として成立しづらい場合もあり、名優・阿部壽美子のもとで朗読の研鑽を積み、多くの作品に触れてきた神由紀子の手腕が大いに発揮されるところだ。

 第二の個性は、作品と俳優の相性である。朗読の技術もさることながら、俳優の個性や持ち味をどれだけ活かせるかが重要で、たとえば朱の会の常連俳優である高井康行は、これまで芥川龍之介の短編小説『蜜柑』を二度にわたって朗読している。2019年の第2回公演では台本を手にしたシンプルな朗読として、2021年の第4回公演では完全に台本を離し、旅行鞄を持った主人公を演じる形式で上演された。硬質で隙のない文体と精緻な描写の朗読は容易ではないが、芥川本人を思わせる長身痩躯、知的で整った高井の風貌も相まって、再演に耐えうる演目であり、高井自身にとっても「持ち役」「当たり役」の域に達すると期待される。文学作品が朗読の舞台として立体化し、観客の心に刻まれた証左であろう。

 第三の個性は、作品をさまざまな切り口で作り上げていく、構成・演出の手つきである。
 これまで二度上演された三浦哲郎『じねんじょ』を例に挙げる。 死んだと聞かされていた父親と、不惑を過ぎて初めて対面する娘の困惑、別れた男への恨みは見せず、懐かしさと情愛を滲ませる母親、悪びれもせず飄々とあらわれる父親が織りなす温かな一編である。 本作は、地の文の分量が非常に多く、人物の心情のうつろいが丹念に記されて、あたかも登場人物のひとりのごとく、水路のように台詞を導き、やりとりを繋ぐ。
 小説の朗読の難しさのひとつが地の文の語りである。台詞以上に、読む技術や作品の理解、さらに舞台ぜんたいを見通した上で、語り手としての自分の立ち位置を的確に把握することが重要だ。
 初演では田浦環が美しく豊かな声で見事に務め、再演では佐藤昇と玉木文子ふたりが語り継ぐ形によって、舞台にメリハリが生まれた。町のフルーツパーラーでの初対面の場、父親の「お前(おめ)は何にする?」のひと言に、娘は思わず「父ちゃんは?」と、一度も発したことのない呼び名で応じ、「忽ち涙ぐん」でしまう。老いた父と中年の娘が向き合ってクリームソーダ水を飲むといういささか奇妙な光景や、父が娘へ採れたての「じねんじょ」を託す終幕がまことに滋味深い一幕となった。2020年の第3回公演『鼓くらべ』(山本周五郎)は、『じねんじょ』の成果がさらなる充実をみせた舞台で、今後再演の機会が訪れることを願っている。

 ◇朱の会のこれから◇

 過去の通信でも記したことであるが、いつか朱の会で久保田万太郎の名作戯曲『釣堀にて』を聴き、観ることがわたしの願いである。
 第一幕に登場するのは「直七といふ六十二三の老人」と、「信夫といふ二十一二の青年」である。 直七は気取りのないサラサラとしたご隠居だ。みつわ会公演の中野誠也の印象が濃厚だが、ここは朱の会ならではの配役で、中野順二と佐藤昇のダブルキャストを。中野には、過去にはそうとうの修羅場があったと想像されるが、晴れやかな老境の諦念にたどり着いた雰囲気があり、実の父親との再会を前に悩む信夫の心を自然に解していきそうだ。『じねんじょ』の父親を演じた効果と言えよう。
 佐藤には知的な芸質を活かし、ぜひインテリ風の直七を。若い信夫に対して、終始上品で丁寧な口ぶりの直七が、家からの電話に思わずつぶやく「うるさい奴だ」の台詞を聞いてみたい。
 直七と並んで釣糸を垂れる信夫には甲斐裕之を。台詞が多く、うっかりすると見逃しそうな繊細で微妙な表情や動きも必要とされる役だが、挑戦しがいがあるはず。
 場面代わって、客の居ない大きな西洋料理店。信夫の母親の芸者・おけいには、玉木文子が即座に思い浮かんだ。美しいだけでなく、おそらく芸も達者と思われるが、息子のこととなると、途端に右往左往の怒ったり泣いたりと忙しい。 玉木は小公演の一人芝居『Repentir』(小林四十作)において、芸達者ぶりよりも、不器用で懸命な手つきが垣間見えるところが好ましい印象であった。息子に辟易される母親。客席に「あるある」の共感を呼ぶのでは? おけいの朋輩の春次は、主宰の神由紀子に。「そんなちよろッかな」の啖呵をきりりと決めていただこう。
 そして実の父子対面の場を整えられなかったと失意の態で現れ、女たちになじられる和中さんは、ぜひ高井康行にお願いしたい。
 忘れてはならないのが、釣堀の「小をんな」と、西洋料理店のボーイである。どちらも性格や背景をもたず、客に用件を伝え、酒や料理を運ぶのみ。その場の空気のごとき存在だ。わたしは小をんなに高野百合子、ボーイに岩間太郎を推す。高野は前述の『蜜柑』再演において、主人公と同じ車両に乗り込んでくる「小娘」を背中だけで演じ切ったこと、岩間は、同じく再演の『桔梗の別れ』(岸田國士)で荷物や飲み物を運ぶウェイターをつつましく演じたことによる。
 戯曲に書かれていることだけを淡々と演じるのは、熱演よりもむずかしい。それができる貴重な芸質のお二方と思う。
 ト書きはやはり『じねんじょ』初演の田浦環に。久保田万太郎戯曲のト書きは、ときに詩的な調べや小説のように奥深い描写など、本式の上演で観客の目や耳に触れないことがもったいないほど格調高いものがある。特有の「間」や「…」などは俳優泣かせだが、それだけにどのように読まれるのか、楽しみである。 
 問題は音響と音楽だ。以前ある劇団の久保田万太郎戯曲上演において情緒たっぷりな音楽が流れ、言葉にし難い違和感を覚えたことがある。『釣堀にて』で音響の指定があるのは、終幕の「一文獅子の太鼓の音」だけであり、いわゆる「劇伴」はイメージしづらい。
 だが、これまでの朱の会公演すべての「音」を担ってきた余田崇徳の音楽は控えめでさりげなく、タイミング、音量、メロディともに、読み手にとっては息継ぎとなり、舞台の空気を引き締め、観客を自然に引き込む。作品の内容を理解し、語り手の声や台詞の発し方、公演ぜんたいのバランスを把握し、演出家との意思疎通を充分に重ねて奏でられる余田の音楽は、伴奏ならぬ「伴走」である。
『釣堀にて』は劇中に二度の場面転換がある。余田であれば、その一瞬のほんの一音、実の親子かもしれない直七と信夫の得も言われぬ温もりを伝える音を作り出せるのではないだろうか。

 朗読は俳優の語りを「聴く」だけでなく、「観る」ものでもある。 語る表情、すがた、たたずまい。 作品と対峙し、劇世界を構築する俳優の声を聞き、すがたを観て、観客は想像を膨らませる。
 舞台と客席がともに作り上げる豊かな時空間の味わいが朗読公演の醍醐味であり、朱の会が目指すのは、朗読を演劇作品として成立させるところにある。
 文学作品を選ぶ確かな目、作品と俳優との抜群の相性、そして俳優の衣裳と手に持つ台本の表紙の色味(毎公演、鳩居堂の和紙を用いるとのこと)までこだわる姿勢が、今回どんな実を結ぶのか。
 朱の会への夢と期待、妄想はますます広まり、深まるばかりだ。
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