*唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら 猿楽通り特設紅テント(10月20日まで)、雑司ヶ谷・鬼子母神(11月4日まで)(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17)
今年も唐組の秋は神田猿楽町で始まった。本作は2017年に続いて2度目の観劇になる。特別講義や追悼イベントも楽しみだ(明治大学唐十郎アーカイヴ)。
今年も唐組の秋は神田猿楽町で始まった。本作は2017年に続いて2度目の観劇になる。特別講義や追悼イベントも楽しみだ(明治大学唐十郎アーカイヴ)。
前回の2017年の公演期間中は、冷たい雨の日が続いたことを思い出す。このたびも初日は朝から雨がちで、なぜか雨を呼び込む演目らしい。前回と同じ配役陣はいっそう堅固に舞台の核を作り、そこに新しく配された中堅、若手、客演陣がエネルギーをぶつけて、新鮮で刺激的な座組となった。
少々雑な括り方ではあるが、日本人には無くなっていくものへのノスタルジーや愛着が強い気質があるのではないだろうか。かまぼこ屋根の東急東横線渋谷駅ホーム、名古屋の老舗百貨店・丸栄、葛飾区立石の吞んべ横町等々を取り上げたドキュメンタリーや最後の模様を伝えるニュースを見ると、「さようなら〇〇」、「長い間ありがとう〇〇」という感謝と哀惜のメッセージが溢れ、一度も訪れたことがないところであっても強い共感を抱いてしまう。
『動物園が消える日』に登場するのは、閉園された金沢の動物園・サニーランドの動物の飼育係、入場券のもぎり娘たちである。動物たち、職場と仲間たちへの愛着のあまり、別の土地で新しい仕事に就いても閉園の現実を受け止められず、ここ上野の寂れたビジネスホテルのロビーに吹き寄せられてくる。飼育係の副係長・灰牙は、「さすらいの飼育係」として独立を宣言し、2トン半もあるカバの「ドリちゃん」を連れ出して、このホテルの204号室に潜んでいるという。ロビーの天井中央部には、204号室のバスから漏れだした水が溜まりつづけている・・・。
「動物園が消えないでいるのは、それはあなたの頭の中にあるその灯が消えないからです。その灯は、もうみんなの目には消えているのに、あなたが火種であるばかりに次々と点火されます」。公演チラシに記されているこの言葉は、物語終盤、4人のもぎり娘の最後のひとり、オリゴの台詞である。灰牙然り、飼育係たち、もぎり娘たち然り。さらにゴリラの檻に入った動物学者田口とその姉と称するスイ子、そこに絡む製菓企業の男性たち然り。動物園をめぐる彼らのノスタルジーは決して一枚岩ではなく、互いにぶつかり合いながら捻れてゆく。
俳優陣はかなりの速さで台詞を発するのだが、長い台詞もひといきに、しかも全てがきちんと客席に届く。戯曲を重んじ、台詞ひと言ひと言を大切にする久保井研の演出と、入念な稽古の様子が窺われる。それほど長い台詞でなくても息継ぎしてしまう俳優は珍しくない。テレビ放映された某歌舞伎公演を視聴した際、複数の俳優が不自然な息継ぎで台詞を発する場面が散見しており、見ているこちらまで呼吸がぎくしゃくするような感覚を味わった。的確な息継ぎで台詞が発せられる唐組公演の舞台では観客も呼吸が整って、ぐいぐいと劇世界に巻き込まれていく。
『少女都市からの呼び声』(2021年1月 唐組・第66回公演 blog、通信)に、「ここは、無い世界なんだ」という台詞がある。『動物園が消える日』において、人々が拠りどころとする動物園はもはや存在しない。「無い世界」である。それを受け入れて懐かしがることができず、ありがとうサニーランド、さよなら動物園と言えないまま、人々の頭の中には動物園の灯が消えず、次々に点火しては燃え上がり、燻ぶりつづける。
本作の題名が「動物園が消えた日」ではなく、「動物園が消える日」であることを改めて考える。現実の動物園は疾うの昔に消えてしまった。過去の話である。動物園がほんとうに消えるのは、いつか人々の頭と心に灯っている灯が消えてしまう日だろうか。終幕、恒例の屋台崩しにより、舞台奥の壁が左右に分かれ、外の景色が現れる。香水「夜間飛行」の小瓶を持ったオリゴは、虚構の世界から現実の外界へ歩み去りながら、劇中の人々が消せない灯を外界へ灯しに行ったのではないだろうか。
現実のわたしたちの日々には、忘れてしまったようでも諦めきれず、納得しづらい、割り切れない思いの数々が澱のように沈んでいる。ロビーの天井が破れて大量の水が流れ落ちるように、思いが決壊して溢れ出すことがあるかもしれない。自分の心にある「無い世界」の存在を知らされ、密かに火が灯ったことに気づかされる。唐十郎の劇世界は罪作りでもあり、救いでもあるのだ。
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