
*別役実作 山下悟演出 公式サイトはこちら(サイト内に「『メリーさんの羊』を上演する会」のプロフィール、上演記録記載あり) 下北沢/小劇場楽園 6日まで
本作観劇のblog記事→2012年11月「中村伸郎とメリーさんの羊」
2000年2月観劇の渋谷ジャンジャン閉館公演『メリーさんの羊』は、因幡屋通信5号に「幻ではなかった」の記事あり。
本作は昭和の名優・中村伸郎が別役実に「リア王と道化をモチーフに」と新作を依頼し、1984年、今は無き渋谷のジャンジャンで初演された。男1を中村伸郎、男2を三谷昇、女1を井出みな子の座組で1989年まで再演を重ねた。そのうち数回を観劇したことは、観客として生涯の宝である。
今回の舞台について、非常に複雑な感覚に陥った。前回観劇の2012年11月「中村伸郎とメリーさんの羊」で抱いた違和感が、別のかたちでさらに膨らんだというべきか。男1(山口眞司/演劇集団円)と男2(清田智彦/演劇集団円)の会話に、心身が馴染んでゆかない。煙草やお茶をめぐるとぼけた味わいのやりとり、次第に相手の領域に食い込み、それを必死で躱そうとするスリリングな応酬に変容していくのだが、台詞の間合い、声の勢いや強さ、表情の動き、動作が大きすぎ、何気ないやりとりにリズムやおかしみが生まれず、圧を感じてしまうのだ。終幕に登場する女1(白石珠江/劇団民藝)は、別役作品にしばしば登場する「きつすぎる女性」にならず、淡々と柔らかく、それまでの劇世界を壊す造形もあるなかで、静かに幕引きの役割を果たし、納得のできるものであった。
歌舞伎の場合、後輩は先輩に教えを乞う。祖父や父はじめ、その役を家の芸として演じている先達に役の心得を聞き、徹底的にかたちを真似るところから学び、役を心身に叩き込んでいく。自分の個性や持ち味を出すのはそのあとだ。
現代劇に演技の決まりはない。先輩のやった通りにすると、逆に「コピーだ、真似だ」というマイナス評価になる。しかし作品によっては変えてはならないものがある。変えない方がいいもの、変える必要がないものがあるのではないだろうか。それを掴むには戯曲を読み込み、手触りや感覚を得る以外に方法はないと思われる。試行錯誤を重ね、壊しては作り直しを重ねるなかで、戯曲の新しい鉱脈にたどり着き、掘り起こすことができるかもしれない。
自分は『メリーさんの羊』に何を求め、どんなものを探して劇場に来たのか。中村伸郎や三谷昇、井出みな子が出演した舞台は心から大切に思うが、それと似たものを観たいのではないこと、では斬新な演出や演技による全く異なるものを求めているのでもない。自分がいまだ気づかない『メリーさんの羊』の魅力、謎を知りたいのだ。いや、知りたい、理解したいというより、もしかしたら、わからなくなりたいという奇妙な願望があるのではないか。
リア王と道化をモチーフにというリクエストで書かれた戯曲。まず男1がリア王で、男2が道化であると考えられるが、模型機関車がもの言わぬ道化かもしれない。もっと大きく捉えると、人間の運命を支配する絶対的な存在があり、その下で男1、2はじめテーブルに置かれた人形たちのささやかな人生が息づいているようにも思える。
舞台に覚えた違和感を反芻するうち、『メリーさんの羊』という深い森に分け入っていること、迷いながらもその感覚を味わい、楽しんでいることに気づいた。『メリーさんの羊』探しの旅はまだまだ続く。
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