因幡屋通信68号が完成いたしました。1年ぶりに紙媒体として発行し、朱の会さまvol.4、玉響の会さま第10回公演の折り込みはじめ、フリービートさま(下北沢/本多劇場横)、観劇三昧下北沢店さま、神奈川県立青少年センター演劇資料室さま、メディア本屋「はっち」さまの4カ所へ設置していただくことになりました。ご理解ご協力に心より感謝いたします。
当ブログでもお読みいただけますので、ぜひお運びくださいませ。
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まずはメイン記事、劇団唐組公演『少女都市からの呼び声』をどうぞ。
「無い世界」をさまよう
劇団唐組・第66回公演 唐十郎作 久保井研+唐十郎演出
『少女都市からの呼び声』
1月20日~24日 下北沢・駅前劇場
病院の手術台に横たわる男=田口(福本雄樹)の腹部に医師がメスを入れ、看護婦たちが取り囲んでいる。それを見守る付添人の有沢(山田隼平)と彼の婚約者ビンコ(福原由加里)に、ベテラン風の看護婦(藤井由紀)が田口との関係を問いただす。天涯孤独の田口の親友とみなされた有沢は、患者の腹部にある髪の毛を取り除くか否かの決断を迫られる。答に窮したそのとき、田口は不意に起き上がり、「雪子に聞いてくる」と言い残して、からだは手術台に残したまま、幽体離脱のごとく姿を消す。
雪子(大鶴美仁音)は田口の妹だ。ガラス工場で働き、工場の主任であるフランケ醜態博士(全原徳和)と婚約中だという。作業中に右手の指を無くしたばかりか、婚約者に子宮をガラスに加工されてしまった雪子を、田口は連れ戻そうとする。
本作は、1985年、状況劇場の「若衆公演」として初演されて以来、新宿梁山泊、唐ゼミ☆、日本の演劇人を育てるプロジェクト(流山児祥プロデュース)から学生演劇まで、多くの上演歴を持つ。
このたびの唐組公演は下町唐座時代の88年以来となり、いつもの紅テントではなく、真冬の下北沢・駅前劇場の上演という異例のお披露目となった。
・・・因幡屋ぶろぐより・・・
「田口に福本雄樹、その妹の雪子を大鶴美仁音、雪子のフィアンセでありガラス工場の主任フランケ醜態博士に全原徳和と、すでに紅テントで大いに活躍し、めきめきと力をつけた若手俳優がさらなる重責を担って存分に魅力を発揮している。看護婦の藤井由紀は相手に容赦ないところが別役実作品にしばしば登場する「きつすぎる看護婦」風かと思えば、当然のように煙草を吸う奇妙なおもしろさ。オテナの塔へ行軍する氷の兵隊の連隊長の稲荷卓央は、軍服が抜群に似合う風貌ながらどこかずれたところがあり、同じくオテナの塔へ向かう老人の久保井研は、開演前に座長代行として客席に挨拶していた人と同じとはとても思えず、いずれも出番こそ少ないが「ベテランが脇を固める」などという 表現が凡庸に思えるほど強烈だ。それぞれ役作りには挑戦や葛藤があったと想像するが、俳優の誰ひとり悪目立ちしていない。自分の肉体と声を作品に誠実に捧げている。」
唐組の紅テント公演は、開場前から始まっているといってよい。 服装はまだ稽古着ながら、顔にはすでに濃厚な舞台化粧を施して異形の雰囲気を纏った劇団員のきびきびした誘導で列を作る。夕暮れから次第に広がる夜の闇のなかで、テントに足を踏み入れるまでの時間も既に十分演劇的である。
本番が始まると、テントはなかなか厄介な空間だ。たとえば新宿の花園神社では、救急車やパトカーなど、日常の喧騒が容赦なく飛び込み、昨年秋、感染対策として登場した唐組初代テントでの半野外劇『さすらいのジェニー』では、雨に濡れ風に凍えながら等々、身体の辛さや外界の異音も含めて、テント芝居を「体感」することになる。 そして恒例のラストシーンは、テント奥の幕が外に向かって開く、いわゆる「屋台崩し」だ。静まり返った神社の森や、繁華街の雑踏、ひとけのないオフィス街などの風景に、劇世界が飛び出してゆく。一種の破壊であるが、鮮烈な劇世界のエネルギーが外界に向かって発せられるさまは、幻想的でありながら日常を突き破る力強さがあり、たまらなく爽快である。
終演後、興奮冷めやらぬ観客は痛む足腰を労わりながら、口々に感想を言い合い、その熱気はテントでの酒宴になだれ込む。強い酒をひといきに呷ったように心もからだも熱く、大勢で賑やかに盛り上がるまでが、丸ごと紅テント観劇体験であった。
今回は下北沢のビル内にある小さな劇場となった。
混雑を避け、前の人と距離を置きながら静かに入場する。間隔が置かれた座席に着くと、知り合いへの挨拶もそこそこに口をつぐむ。座長代行の久保井研の挨拶もしめやかで、いつもの唐組とあまりに様相が異なることに困惑した。 しかし、椅子席で身体が楽であったこと、外の騒音も入らず集中でき、ブログ記載のように、良き手ごたえを得たこともあり、いつにも増して、この気持ちを話したい、観客同士が劇世界を共有したことを確認したいという願いが突き上げるように湧いたが、入場と同じく密を避けて退場し、会話しないまま帰路に着かざるを得なかった。
淋しくないと言えば嘘になるが、語り合うことができず、舞台から発せられたものを自分ひとりで抱えたために、この激しくも切ない物語が、より強く心に刻まれたのである。舞台の印象が、心の内へ内へと深まってゆき、観劇から数か月経った今でも消えることがない。これは実に新鮮な体験であった。
演劇は、今目の前で起こっていることと、それを見ている客席とが形成する「今、ここ」だけの現象の共有である。しかし唐組の『少女都市からの呼び声』の終演後、自分の心身が現在でも過去でも未来でもない、別次元をさまよっていることに気づく。それは、「いつ」でもない時間であり、「どこ」でもない場所であるらしい。
・・・因幡屋ぶろぐ続き・・・
「雪子は兄の田口に探されることによって、彼の夢の中だけに存在できた少女である。夢から覚めると、記憶は断片しか残っていない。雪子は探して探しても出会えない存在だ。だが田口の記憶からも消えた雪子を、客席は覚えている。」
雪子を知ってしまったことの重み、悲しさ、ひそやかな喜びは、たとえばこんな妄想を生む。
自分は子どものない身だが、『少女都市からの呼び声』が招く世界、つまりガラス工場のある町で、生まれることのなかった子どもに会えるのではないか。いや、既にどこかで会っていて、手術台に戻った田口のようにそのことに気づかず、忘れてしまっているのかもしれない。
田口はガラス工場のある町を「ここは、無い世界さ」と雪子に語り、「さあ、生きる筈だった世界が待っているよ」と脱出を促す。わたしにとって、日常が「生きている世界」であるが、ともすれば心は「無い世界」へ向かい、出会っているかもしれないわが子を、「生きる筈だった世界」へ連れ出したくなる。だが待てよ。もしかすると、逆にわたしのほうが「居ない女」かもしれないぞと、妄想はさらに捻れてゆくのだ。
・・・因幡屋ぶろぐ、もう少し・・・
「田口の台詞に『ここは、無い世界さ』という言葉がある。雪子は「居ない少女」だったのか。あそこで出会ったはずなのに、今ここに居ない人。わたしたちの日々は「出会い」と同じくらい、それ以上の「出会わない」ことによって綴られていくのだ。田口と雪子は夢のなかだけで出会った。探しても探しても出会えない相手なのかもしれない。」
日々の暮しとは別のところにもう一つの世界があり、その扉を開く鍵が『少女都市からの呼び声』にはある。
妖しく禍々しく、賑やかな紅テント公演が戻ってくることを切に願いながら、冬の夜、小さな劇場で出会った『少女都市からの呼び声』によって、わたしはいまだに「無い世界」をさまよう幸せに浸っている。 時空間を共有する観劇体験の醍醐味は、自分が確かに、「今ここ」に生きているという燃え立つような実感だ。しかし、それとは逆に「自分は居ないのかもしれない」と、心の奥底が冷たく光るようなこの感覚もまた、観劇の手ごたえであると知ったのであった。