
*西川信廣 公式サイトはこちら 中目黒キンケロシアター 14日終了
(1,2,3,4,5,6,7,8→注:プラチナネクストの第6期生によるシックスセンスの公演含む)2009年9月、文学座が開設した40歳以上対象の俳優養成コース「プラチナクラス」の卒業生による演劇集団プラチナネクスト(以下ネクスト)が、創立15周年の記念公演を行った。アドバイザーでもある演出家・西川信廣によれば、記念公演は文学座創立3幹事の岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の作品をとネクストから提案を受け、今回の2作品に絞りこんだとのこと(当日パンフレット掲載)。意欲漲る舞台を観劇した。
☆ 樋口一葉原作『にごりえ』ドラマリーディング
久保田万太郎作『おりき』
・・・苦界に身を沈める女性たちとその周辺の人々を描いた物語は、今井正監督の『にごりえ』、オペラシアターこんにゃく座の同作(2000年上演/えびす組劇場見聞録ミレニアム増刊号WEB版)が今でも心に残る。
舞台中央奥に「菊の井」の大きな暖簾がかかり、出演者は両サイドに並んだ椅子にかけて台本を開き、台詞のある人物が中央に進み出るという形式だ。はじめのうちは、全員女性による配役であることに戸惑ったが、物語が進行するにつれて、女性が男性役を演じることでほどよく抑制された良質な作品に仕上がっていることに気づいた。男性役の俳優は着物の着付、少し腰を落した姿勢で台詞を読む。声を太く、あるいは低くしたりなどの「作り声」ではなく、あくまでその役の性根、芯を捉えようとしている声である。それで男性であることは充分に伝わる。こういう読み方、造形があるのか…。
『大つごもり』や『十三夜』での樋口一葉の原作を戯曲化する久保田万太郎の手並みをもっと味わいたく、原作と戯曲をまた読み返してみたい。劇の終幕、菊の井主人のおうた、酌婦のおたか、馴染みの虎吉が、源七に殺されたおりきを痛ましく思いながらも、おうたが「おりきのその心もちはだれにも分からない」と静かに言い切るところに、久保田万太郎の劇作家としての「心もち」が込められているように思う。
岸田國士作『速水女塾』
・・・きしだ組、くにお組に分かれて、一部ダブルキャスト きしだ組を観劇した。
・・・きしだ組、くにお組に分かれて、一部ダブルキャスト きしだ組を観劇した。
本作は昭和24年(1949年)、三越劇場で文学座公演として上演されたとのこと(前述の西川信廣の挨拶文)。めったに観る機会がない演目と思われ、もちろん自分もこれが初見である。ある私立の女塾の継承をめぐって、登場する男女がさまざまに駆け引きし、ぶつかり合い、蜜月から次第に溝が深まって決裂したり、意外にも結ばれたり等々が展開する。
今回は文学座の俳優・星智也が重要な役で客演した。発声も立ち姿も動きすべてが洗練された見事なプロの演技で、明らかにほかの俳優と違う。しかし浮いた感じや悪目立ちが全くない。ネクストのメンバーを自然に牽引し、舞台にメリハリと流れを作っている。たとえば女塾の新しい塾長となった八坂登志子と、恋愛とビジネスのあやういバランスが壊れるまでの激しいやりとりでは、登志子を演じる如月ゆうこの力をぐいぐいと引き出し、スリリングな場面を見せた。また登志子の弟・速水思文は両親や姉に批判的で、女塾に関わることに消極的だったが、若い女性教師に惚れてしまう。女塾に加わってみると案外教師に向いており、生徒たちともいつのまにか馴染んでいるなど、変容するさまが面白い人物だ。その思文が相馬と対決する場面、あくまで自信たっぷりに振舞う相馬に、思文役のあきもとまさとしは、ぎこちない動作やたどたどしい台詞で必死で立ち向かう。その不器用なさまがひたむきで、相馬を凌ぐかもしれないと思わせるのである。
5人の女生徒についても、髪のリボンやセーラー服すがたに違和感があるものの、後半になって女塾が火事で燃えてしまったことを大げさに歎くと見せて、一転けろりと笑い飛ばすところに、女性の残酷さが炙り出された。役の年齢に近い俳優とは違う演劇的効果が生まれたのではないだろうか。
2回の休憩を挟んで3時間を超える長尺であったが、自分でも気づかないうちに、戯曲の読み方や捉え方、舞台の見方が凝り固まっていたこと、もっとニュートラルに作品を受け止めることを学んだ一夜となった。

女生徒を演りました。
西川先生からも「5人のうちひとりでも本物がいたら成り立たない。でもみんなシニアで演ればそれはそれで大丈夫😸」みたいなことを言われて、開きなおって挑みました。
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blogをお読みくださいましたこと、ならびにコメントをありがとうございました。演出の意図と皆さまの演技に改めて納得した次第です。
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