因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

唐組第60回公演『動物園が消える日』

2017-10-29 | 舞台

唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら 明治大学10号館裏猿楽通り特設紅テント、雑司ヶ谷・鬼子母神、静岡・駿府城公園富士見広場、金沢市民芸術村・憩いの広場特設紅テント 11月18日まで1,2,3,4,5
「演劇キック」より久保井研インタヴュー
http://kangekiyoho.blog.jp/archives/52037125.html

カンフェティより、久保井、藤井由紀インタヴュー
http://www.confetti-web.com/sp/feature/article.php?aid=346

 初日から雨がちで、台風も2度来襲。この季節にここまで雨に降られる公演も珍しいが、何があっても開幕するのが唐組の紅テント公演。今回は前半に行われた唐組による朗読ワークショップについても合わせて記載する。

 本作の初演は1993年秋。石川県金沢市で実際にあった金沢サニーランドがモチーフとなっている。映画館や小遊園地、温泉施設なども併設され、ちょっとした総合レジャーランドであったが、経営不振で閉園となった。そのいきさつが報道されたテレビ番組で、興行主のコメント(かなり自暴自棄な内容だったらしい)に触発された唐十郎が金沢を訪問し、当人とも面談したとのこと。
 閉園された動物園、よそに引き取られていった動物たち、従業員として
働いていた人々が、懐かしい職場、同僚たち、可愛がっていた動物たちを忘れられず、上野動物園の近くにある小さなビジネスホテルのロビーに吸い寄せられる。モギリの四人娘、飼育係たち、お菓子会社のビジネスマン、ゴリラの檻に入った動物学者とその姉(と称する女)、ホテルの支配人たちが、ホテルの狭いロビーで繰り広げる2時間の物語である。

 荒唐無稽な設定ではあるが、唐十郎戯曲は台詞の一つひとつが緻密に記されていることが実感できたのは、前述のワークショップであった。座長代行で演出をつとめ、俳優としても出演する久保井研は、ワークショップ参加者一人ひとりに役を配し、ト書きから読みはじめ、場面が終わるといったん止めて、「ここまで読んで、わかったことは何だろう?」と参加者に問いかける。設定された場所はどこか、煙草を吸っている女性は何者か、次にやってくる人々とは過去にどのようないきさつがあったのか

 むろん最初からすべてがわかるわけでもなく(わかったら劇としておもしろくありませんね)、ほのめかされたり、察せられたり、程度はさまざまである。読む人は、はじめてその場にやってきた観客と同じ気持ちで怖々と台詞を発し、また後戻りして最初から読み返す。少し情報を得てから読む台詞は、声の強さや深さが一回目とは明らかに変わる。

 演じる俳優は台本を読み込んで台詞を覚え、稽古を経て本番の舞台に立つのだから、ホテルのドアに押し入った巨大バケツが何なのか、中に誰がいるのか、カーペットのなかに何が(誰が)潜んでいるのかも知っている。けれど客席のわたしたちと同じ、「何も知らない」態で驚き、怒ったり泣いたりするのだ…と考えると、いったい戯曲というのは、演劇、観客の関係性とは何なのだろうと、今さらながら基本的なことが頭を回りはじめるのである。 

 観劇後にもう一度台本を読み返し、できれば朗読して、もう一度二度と舞台を見れば、作品のおもしろさ、唐十郎の台詞の魅力がいよいよ手ごたえをもって感じられるようになるだろう。しかし現実問題として、何度も観劇することはむずかしく、となると一回の観劇で多くを知ろうとしても、台本を読み込んでいない後半になるとだんだん頭での理解がむずかしくなる。しかし後半は中堅、ベテランの俳優と若手俳優の絡みがおもしろくなり、前半とは心身のちがう部分が楽しみはじめることがわかるのである。

 唐十郎作品は、意外と言っては失礼だがト書き部分にもおもしろさ、というか戯曲を読む人、それもはじめてこの作品に触れる人のことを「考慮」した書き方がされている。たとえば今回の作品で言えば、ビジネスホテルの玄関に謎の大バケツが置かれ、それに関する元飼育員たちのやりとりのあと、不意に大バケツの横っ腹がドアのように開く。すると一人の白い背広の男がそこにしゃがんでいるのが見える。

 彼の役名は「その男」である。動物学者の田口との短いやりとりののち、ト書きには「その男、立ち上がる。これを灰牙という」と書かれ、そこから先、彼の役名は「灰牙」と記されるのである。同様のことが昨年の『夜壺』でもあり、登場からしばらくは「見舞い客」だった女性が、会話相手の有霧から「織江さん」と呼ばれると、ト書きに「という名であった」と記され、以後「織江」として会話が進んでいくのである。

 唐十郎の戯曲は、台詞とト書きで構成された一種の小説という見方もでき、むろん戯曲を読まなければこういったことはわからないのだが、知ってから舞台を見ると、多少の予備知識があるにもかかわらず、ニュートラルな気持ちになれるから不思議である。ワークショップでは、作品の前半の40ページあたりまでが読まれた。そのあと実際の舞台を見ると、やはり台本に書かれた台詞を目で読み、朗読される台詞を聞いたことは想像以上の「学習効果」があり、はじまったばかりの物語にぐいぐいと引き込まれる。しかしところどころ台詞のかけあいのタイミングや、俳優の呼吸とこちらの観劇の呼吸が合わずに、きっちりと「聞き取れた」実感のない台詞があって、これはむろん聞き手である自分の問題でもあり、むずかしいところである。

 そして戯曲を読んで舞台を見、さらに戯曲を読み返してもう一度舞台を見たらどうなるのだろうか。単に理解の度合いが深まるだけでない、見る者に何かもっとちがう力が及ぶように思われるのである。久保井研はワークショップ後半で、「自分は唐さんの言葉がおもしろくて芝居を続けている」と話した。自分は読み手に親切なト書きや、「ほえづらかくな、サムにおごるカツ丼に」、「てめえら、ビジネスで苦しめ」、「飼育係の三々五々」などなどの台詞をおもしろがっているが、この先自分の頭や心がどう変わっていくのか、楽しみでもあり、少し怖くもあるのである。

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