
*公式サイトはこちら 歌舞伎座 27日まで
通し狂言として「忠臣蔵」が歌舞伎座にかかるのは、2013年以来のこと。Aプロ、Bプロの座組は実に豪華な顔ぶれだ。主役の大星由良之助を片岡仁左衛門、尾上松緑、片岡愛之助の3人がつとめることをはじめ、主要な役のうち多数がダブルキャストで、ベテランはより重厚で滋味深く、若手は意欲を漲らせて清々しい。
昼夜ともにBプロを観劇した。本作観劇のblog記事→2006年1月新春浅草歌舞伎、2015年1月新春浅草歌舞伎 実際はもっと観ているはず・・・。
【昼の部】大序・三段目、四段目 道行
古式ゆかしく、ゆったりしたテンポと間合いで壮大な物語の幕が開くさまに、背筋も伸びる。高師直の罵詈雑言に耐えかねた塩谷判官が起こした殿中の刃傷事件、続く切腹から城明け渡しまで、怒濤のようでありつつ、じわじわと迫り来る展開はときに観劇の集中を妨げることもあるが、ここが堪えどころ。
【夜の部】五、六段目、七段目、十一段目
早野勘平はつくづく不運な人であると思う。塩谷判官の大事のときに恋仲のおかると逢引きしていたことを最初の躓きとして、おかるの実家に身を寄せて時節を伺っていたときに山道で千崎弥五郎に再会したこと、工面のあてが無いのに、仇討ちに加わるための金の用意があると言ってしまったこと、猪を射止めたと思いきや、それが人であったこと、いけないと思いながら死人の懐から金を盗ったこと。いや、彼自身だけではない。そもそも、もし舅の与市兵衛があそこでひと休みしなければ、盗ってくださいと言わんばかりに、金包みを高く掲げて御礼の独白(考えてみれば不自然だ・・・)をしなければ、斧定九郎に殺されなかったのでは?等々、さまざまな事柄のタイミングが、みごとなまでに勘平の思惑とずれてゆき、取り返しのつかない悲劇に展開する。まことにもどかしく、こちらの胃の腑まで痛みそうな物語である。なぜここまで勘平を追い詰めるのか。
大石内蔵助をはじめとする四十七士が本懐を遂げた一方で、そこに加われなかった人々のほうが遙かに多く、背景や事情は複雑であったことだろう。その痛ましさをここまで容赦なく描くのはなぜか。
ままならぬこの世を生きる者にとって、不運続きで要領よく生きられないまま、非業の死を遂げる勘平は心を寄せることのできる人物であり、それでも仇討ちの血判状に名を連ねられたことが救いになるのではないだろうか。「忠臣蔵」が大成功の偉人だけではないこと、その裏で血の涙を流す多くの人々が確かに存在したことによって、慰められるのだ。
観客の役割というものを考えた。観客は、ここに至るまでのいきさつ、勘平の気持ちもすべて知っている。しかし後悔と自己嫌悪に苛まれる勘平に「あなたは舅さんを殺してはいない」、舅を殺して金を奪ったと婿をさんざんに叩く姑のおかやに、「違うんです、ほんとうは」と教えることはできない。辛抱する。わかっていて何もできない無力な立場に耐えて、勘平が事切れるまでを見守り、受け止める。客席のこの気持ちは舞台にも伝わるのではないだろうか。
中村勘九郎の勘平が素晴らしい。勘九郎の舞台を観るとき、いつのまにか「勘三郎に似ている」と思わなくなっていたことに気づく。勘九郎はこれから新しいところへ着実に進んでいく。その確かな手応えが嬉しい一幕であった。
七段目「一力茶屋」の片岡仁左衛門の大星由良之助の風情は唯一無二。十一段目の最後に、尾上菊五郎の服部逸郎が見送る中で花道を去るすがたに万雷の拍手。もう一度観たいという願いがどうか叶いますように。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます