因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

朱の会小公演Vol.2「太宰治特集」

2022-12-25 | 舞台
*公式サイトはこちら1,2,2',3,4,5,6)阿佐谷ワークショップ 24、25日2回公演
 先月アンコール公演∔有吉朝子作品を披露したばかりの朱の会による太宰治3作品の朗読公演。今回は佐藤史織による津軽三味線演奏も加わった。
☆『眉山』・・・「これは、れいの飲食店閉鎖の命令が、未だ発せられない前のお話である」というはじまりに、「もしやコロナ禍の?」とドキリとするが、本作は1948年(昭和23年)3月「小説新潮」に発表された短編小説である。時代は敗戦から数年後、帝都座の裏にある若松屋という飲み屋の常連である作家の「僕」が思い出を語る形式だ。高井康行がひとりで朗読する。

 若松屋にはトシちゃんという若い女中がいる。文学が好きだからと作家たちの宴席に首を突っ込み、知ったかぶりの無智な発言から「眉山」と綽名が付いた。客たちは彼女に辟易している。器量はお世辞にも良いとは言えず、しかし眉だけは美しいことから「眉山」の名はぴったりだが、「その無智と図々しさと騒がしさには、我慢できないものがあった」というほどの強烈な性質を持つ少女だ。

 その眉山が、ある日若松屋から姿を消した。そのわけを知った「僕」は…。

 眉山ならではの失敗談や武勇伝に「僕」はじめ周囲の人々が大変な迷惑を被る様子がテンポよく語られていたところに、いきなりストンと闇に落されるような胸痛む終幕である。

 本作を初めて読んだときから、「眉山」の顔立ちや立ち居振る舞いの様子から、すぐに若手女優筆頭の伊藤沙莉の顔が思い浮かんだが、不思議なことに声は聞こえず、あくまで高井の朗読の声に導かれたことが嬉しい手応えであった。これまでの高井の朗読スタイル(昨年の小公演についてえびす組劇場見聞録65号)が今回はずっと台本に目を落して語る形となった。作品と語る俳優本人との距離がもう少し自然に示され、人物ごとの表現の変化(決して声色を使うということではなく)、特に「眉山」の口調に微妙な色合いが加わったら、本作は芥川龍之介『蜜柑』(初演再演)に次ぐ高井の当たり役、財産の一つになるだろう。

☆『葉桜と魔笛』・・・1939年(昭和14年)6月「若草」発表。老いた女性が早世した妹のことを物語るもの。神由紀子のしっとりとした声、抜群の安定感の語りで導かれるそれは、一種のミステリーでもある。病身の妹に手紙を送ったM・Tという人物は誰なのか、そもそもほんとうに存在するのか。唯一無二の妹を守りたいという姉の思いはM・Tへの敵意を越えて、もしかしたら自分より先に男性との濃厚な交わりを知る妹への嫉妬心、若さをもてあますやり場のない苛立ちを含むものかもしれない。しかし妹は姉よりも達観しており、ならばこの手紙を書いたのは誰なのか?妹を演じる高野百合子は容姿も声も可憐で儚げ。この役にぴったりだが、言っていることはなかなか恐ろしく、「ああ、死ぬなんて、いやだ」という台詞は魂の奥底から聞こえてくるようであった。

 本作を聴く観客の期待は「軍艦マアチの口笛」が聞こえてくる終盤で一気に高まる。が、その描写は安直に流れず、結果、観客は「どんな口笛か」と妄想が掻き立てられることになった。こういうやり方があったのか。舞台の姉妹、客席がともに無音に聞き入る時間の至福である。

☆『故郷』・・・1943年(昭和18年)1月、「新潮」発表の作。同じ年の6月「八雲」に発表された『帰去来』と連作を成す。佐藤昇、高井、高野、神による朗読の一幕である。母が危篤となり、妻子を連れて十年ぶりに故郷へ戻った太宰治すなわち津島修治の心の移ろいと家族の様子、なかでも勘当された修治と家族の間に入って何くれと世話を焼く「北さん」(「中畑さん」も出てくる)との関わりが細やかに綴られている。

 佐藤が北さん、高井は修治、高野が妻と嫂のひとり、神は中畑さんや叔母などを演じつつ、地の文も読む(高井はほぼ修治役に専念との記憶)。そのバランス加減が絶妙で、さまざまな人物が登場するが混乱はしない。終盤、北さんが修治に見送られて停車場へと歩く場面にしんみりとさせられる。佐藤昇の情感のこもった語りは艶を増す。北さんの台詞はもちろんだが、地の文をこのように「たっぷり」気味に語ってあざとさやしつこさがないのが佐藤の貴重な芸質であろう。が、最後の一文「ふと気がつくと、いつの間にか私の背後に、一ばん上の姉が、ひっそり坐っていた」で、途端にわからなくなる。これはどう捉えればよいのか?

 例えにするのが的確かはさておき、有吉佐和子の戯曲『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の原作である『亀遊の死』は、お園という芸者の一人語り形式の短編であるが、この作品の最後の一文「藤吉どんですか、これはあれっきり。噂もきいたことがありません」である。はじめて読んだときはあまりにそっけなく、困惑した。しかし戯曲と往き来しながら何度も読み返してみるうちに、思いもよらない奥行や謎が感じられるようになったのである。

 『故郷』にも同様の学習が必要なのかもしれない。単純ではない作品に挑戦した朱の会の意気や良し。いつも思うことだが、神由紀子が台本を読みつつ、客席に目を向ける演技のバランスは素晴らしい。試行錯誤を繰り返して到達する自然な読みぶり、演技である。
 
 眉山(トシちゃん)が「基本的人権」を「人絹」と勘違いする場面では、「人絹、レーヨンと間違っているらしいのだ」と、「レーヨン」を補足して語られていた。たとえば舞台奥の幕に「人権」、「人絹」と映写したらどんなイメージの舞台に、客席がどのように受け止めるかと考えている。『故郷』の「蕩児の帰宅」も、新約聖書の「放蕩息子の喩」を知らなければわかりづらい。ほかにも耳で聞いてすぐに理解できない言葉がいくつかあったのだが、かといって当日リーフレットに用語解説を掲載すると野暮になりかねず、むずかしいところだ。

 第一部が『眉山』と『葉桜と魔笛』、休憩を挟んで佐藤史織による津軽三味線の演奏があり、第二部『故郷』という構成である。津軽三味線の歴史や楽しみ方もわかりやすく解説しながらの演奏という趣向で、客席の空気も温まり、スムーズに第二部へ導くみごとなもの。独立したステージであったわけであるが、次の機会があるのならば、太宰治作品の朗読とのコラボ演奏を願うのは欲張りすぎだろうか。

 考えるところはさまざまにあるが、阿佐谷の小さな空間で味わう文学作品の濃密な朗読の手応えに、よき観劇納めとなった。セイムタイム、ネクストイヤー。ぜひ来年の今日もまた!

 
 



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