窓から
木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。 - 一二.一九 -
この詩は父、藤本豊治の青年時代の創作ノートの中にある詩です。昭和12年(1937)の冬。80年前に書き込まれたものです。当時、父は20代半ば、社の市場に住み込みで働いていました。その詩の中に当時の社の街の風景が描かれています。市場のある田町通りから見える「町の劇場」は銀座通りにあった佐保座でしょう。その佐保座に立つ避雷針の西に「黒く立つてゐる松の木」とは、山氏神社境内の「義経お手植えの松」のことだと思います。黒い瓦屋根の密集する当時の社の市街に劇場の避雷針と老松が空に向かって立っていた、そんな風景が浮かんできました。
写真はその「義経お手植えの松」です。昭和10年代のものだと思われます。今はありません。若い松が育っていたのですが、この秋の台風の強い風で傷んだようで、根元から伐られていました。何代目になるかわかりませんが、切り株から新しい芽が出ることを祈ります。そして、父が青年労働者として仕事と創作に打ち込んでいた市場の跡は、この冬に駐車場になりました。80年の歳月が経ったのです。
木枯が吹いて通る頃になつた。
小さい間中窓からいくつかの棟を通して
儼然と避雷針を青い空に突きあげてゐるのは町の劇場だつた。淋しい太陽が名殘の光りを避雷針に告げると
うすやみにうかんだ避雷針の西に黒く立つてゐる松の木が聲出して沈む夕陽を慰める。
ほんのり燒けた空を灰色の固まつた浮雲が東の方へ避雷針と松をすかして走つて行く。 - 一二.一九 -
この詩は父、藤本豊治の青年時代の創作ノートの中にある詩です。昭和12年(1937)の冬。80年前に書き込まれたものです。当時、父は20代半ば、社の市場に住み込みで働いていました。その詩の中に当時の社の街の風景が描かれています。市場のある田町通りから見える「町の劇場」は銀座通りにあった佐保座でしょう。その佐保座に立つ避雷針の西に「黒く立つてゐる松の木」とは、山氏神社境内の「義経お手植えの松」のことだと思います。黒い瓦屋根の密集する当時の社の市街に劇場の避雷針と老松が空に向かって立っていた、そんな風景が浮かんできました。
写真はその「義経お手植えの松」です。昭和10年代のものだと思われます。今はありません。若い松が育っていたのですが、この秋の台風の強い風で傷んだようで、根元から伐られていました。何代目になるかわかりませんが、切り株から新しい芽が出ることを祈ります。そして、父が青年労働者として仕事と創作に打ち込んでいた市場の跡は、この冬に駐車場になりました。80年の歳月が経ったのです。
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