ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

旧街道に立つ昭和池入口の標柱と道標

2017年12月16日 06時31分21秒 | Weblog
 

 加東市を西の高岡から社を通り、北東の鴨川へと横断して丹波へと抜けていく国道372号線。上三草、山口辺りは源平の古戦場で知られる三草山があり、その山麓には県下最大級の土堰堤を誇る昭和池があります。
 この谷には三草川が流れ、現国道と並行するように旧街道の京街道が通っています。そして、街道沿いには馬瀬、山口、上三草、三草と集落があります。その旧街道の上三草と山口の境あたりに三草山へ通じる分かれ道があり、その三叉路の脇に2本の石柱が立っていました。一本は昭和池入口の(写真右)、もう一本は道標でした(写真左)。
 道標には「右 ほつけ山」「左 お深山くめ」と刻まれています。
 この街道は西国巡礼の巡礼道で、西国二十五番の御嶽山清水寺(加東市)から社を通り、二十六番の法華山一乗寺(加西市)へと通じています。お深山は加東市松沢にある東福寺で、久米を抜けて松沢へと通じています。ともに霊場巡りの人々への大切な道しるべとなっていたのでしょう。東福寺はこのブログでも最近弁財天祭り、護摩焚くを紹介しました。
 
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雪景色を眺める2人、朝の元気-ステラパークで

2017年12月15日 04時45分48秒 | Weblog


 14日(木)の朝、播磨内陸の加東市社もうっすらと雪化粧しました。朝のウォーキングで社中央公園のステラパークを歩いていると、誰もいない芝生公園で先日も紹介した2人が語り合う姿がありました。そして、もう一人、凍てつくような寒さの中、空に向かって両手を挙げて「がんばるぞー」と叫んでいる姿もありました。ともに星座をテーマにした石の彫刻ですが、二人はふたご座、元気の叫びは牡牛座でした。
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道の向こうに山が見える

2017年12月14日 04時51分07秒 | Weblog
 

 加東市社は佐保神社の門前町として、また、丹波から播磨に通じる京街道、西国霊場の巡礼道の宿場として町が形成されてきました。市街を歩いていると、道の向こうに目印となる山が見え隠れします。
 田町通りから百旗へと歩くと、真っ直ぐに延びた道の向こうに、源平の古戦場で知られる三草山と西国二十五番霊場清水寺のある御嶽山が見えます(日の出前の早朝)。今、立っている辺りの百旗(ひゃくはた)、百旗立(ひゃくはったい)という地名は逃げる平氏を追ってきた源氏が百本の旗を立てたという伝承に由来すると聞いています。
 市街を南北に貫いて通る商店街から北を見ると、滝野の山が見えます(朝日に映える鳴)。鳴尾山です。光明寺合戦では、足利尊氏の参謀、高師直が陣を張ったと伝えられています。数百年の時を経て、町も道も姿を変えてますが、山の姿は変わりません。
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冬の早朝の2人ー社中央公園ステラパーク

2017年12月13日 05時52分09秒 | Weblog
 12日(火)の早朝は冷たい空気に包まれていました。日が昇る前の社中央公園のステラパークはもう明るくなって、西の方角には遠く播磨平野の地平線が望めました。
 その公園で語り合うように寄り添う2人の背中がありました。円い芝生の広場を前に何を語っているのでしょうか。
 ステラパークには、世界各国の彫刻家が12星座をイメージして制作した彫刻があります。この彫刻はその一つ。アメリカのクレア・マクファドル氏の作品で、ユーゴスラビア産の石が使われています。
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夜明け前の銀座通り-社商店街

2017年12月12日 05時42分53秒 | Weblog
 11日(月)の早朝、夜明け前に加東市社の中央公園、金屋谷池の堤から見下ろすと、社市街の灯りと濡れた道路が光の筋となって延びていました。
 この通りは銀座通りと呼ばれています。かつては、映画館やパチンコ屋、寿司屋に酒屋、喫茶店、写真館、傘屋さんなどの専門店が軒を連ね、その東の端には、社警察署、裁判所、検察庁がある賑やかな商店街でした。
 警察署は郊外に、裁判所も女学校跡に移転しましたが、あとに銀行ができました。今も花屋、肉屋、食堂、たばこ屋、ラーメン屋、衣料品店、理容室など古くから続く店と新しく開いた店が並んでいます。小学生の低学年の頃、貸本屋さんもあったことを憶えています。
 佐保神社の秋祭りには、この通りを神輿を先頭に4台の屋台が並んで巡行します。そんな賑やかな銀座通りも夜明け前はただただ静かに光っていました。
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昭和のはじめの義士祭-義士に扮した青年団

2017年12月11日 04時43分13秒 | Weblog
 今日、紹介する写真は昭和の初期に社町青年団(現加東市)の団員だった父らが赤穂義士に扮して義士祭を行ったときの記念写真です。
 場所は観音寺(加東市家原)の境内にある義士の墓碑の前だと思われます。当時は旧暦の12月14日にあたる、新暦の1月に行われていました。父の日記によれば、青年団員が中心となって義士会が相撲大会や義士行列、映画大会などを催していました。
 以前にもこの歴史ブログで紹介しましたが、義士祭といえば、本拠の赤穂の義士祭が知られていますが、明治36年(1903)に始まったと聞いています。わが加東市家原の観音寺には、赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺と同じように四十七義士の墓碑があります。これは、討ち入りから150年の後に義士の忠義を讃えて当地の人々が寄附を募ってつくったものですが、浅野家の領地があった加東郡には義士の一人である吉田忠左衛門が郡代として赴任していました。また、浅野家の分家である家原浅野家は赤穂浅野家断絶後も明治維新まで続き、赤穂義士を偲ぶ気風がありました。
 社町(旧)の義士祭は昭和2年(1927)年に始まったと聞いています。今年も赤穂義士奉賛会が中心となって、加東市赤穂義士祭が行われます。写真の右端に立っているのが父、藤本豊治です。大高源吾に扮しています。それにしても義士の扮装は本格的です。
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昭和30年代-嬉野台地上空からの社の風景

2017年12月10日 07時00分15秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和30年代に撮られた社の空中写真を紹介します。この写真もずいぶん以前に一度紹介していますが、あらためて60年近い年月の間のふるさとの変化と変わらざる山々の景色に感慨深いものがあります。
 写真は嬉野台地の西端に近い、兵庫教育大学の附属中学校辺りの上空から北西方向を撮ったもので、社の市街、その向こうに広がる田園、さらに滝野から加西方面の山並みが写っています。
 手前には、池が写っています。今は国道372号がこの辺りを通り、住宅地が広がっています。中央右手の辺りが社中央公園、ステラパークになっています。社市街には旧役場、社小学校木造校舎、家原にある社病院が白く光っています。
 写真左手の市街の向こうに広がる田園地帯の中に一本の道が白く光って延び、集落があります。鳥居地区です。この道も今は旧道となっていますが、姫路へつながる主要道でした。
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昭和30年代の社市街空中写真

2017年12月09日 06時11分55秒 | Weblog
 このブログでずいぶん以前に紹介したことがありますが、昭和30年代(1950年代)の社市街の空中写真です。昨日紹介した古い写真より20年ほど新しいものです。  手前に干拓され住宅地になった道池のあとがくっきりと見えます。当時は家畜市場がありました。今は社郵便局になっています。社町役場、裁判所や社警察署、県地方事務所、専売公社などの官公庁の建物も市街に集中していました。現在では市街の外に移転してます。裁判所は写真左手の空き地(県立社高等女学校跡地)に移転しています。写真右手には田圃が広がっています。現在は、ショッピングセンターや警察署、県社総合庁舎などが建ち並んでいます。写真のほぼ中央に当時の社町役場の建物が写っています。その隣、手前にわが家が写っていますが、建て替える前のわが家です。
 変わらないのは佐保神社や持寶院などの寺社と森です。大師殿の大きな屋根が写真右手に写っています。写真を見ながら、小さい頃の記憶と照らし合わせながら、道や建物、そして当時の懐かしい場面を思い出しました。30年、50年後の市街の景色はどうなっているでしょうか。
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金屋谷池堤から望む社の市街の今昔

2017年12月08日 04時51分33秒 | Weblog
          

          

 早朝、社中央公園の金屋谷池の堤に上ると、東に日の出を、西には社の市街とはるか西には青野原台地の地平線を望むことができます。
 7日の朝も冷たい空気に包まれて、公園の芝生も真っ白に凍てついていました。ふと、昭和10年代のほぼ同じ位置から市街を望んだ写真があったことを思い出し、シャッターを押しました。
 まだ環状線がなかった時代で、写真には、県立社高等女学校の校舎の一部や社区裁判所の屋根、社警察署の白い庁舎の一部、山氏神社の杜など瓦屋根の市街が写っています。社高女跡は裁判所、手前の一本道と田圃は環状道路や公園、交番となり、住宅街に変わっています。2枚の写真の間には、およそ80年の歳月があるんだなあと思いました。これから30年、50年先にはどんな景色が広がっているのでしょうか。
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塔と月、凍えるススキ-冬の朝の風景

2017年12月07日 05時22分28秒 | Weblog
   

 人が活動を始める前の早朝の景色は静かで荘厳さを感じることが多くあります。家を出て歩き始めてすぐに西の空にそびえ立っているのが関西電力社営業所の鉄塔。その鉄塔の向こうに月がぽっかりと光っています。
 社中央公園では、社交番の時計塔のとんがり屋根の上に月が光っていました。冷えた空気に包まれて、街も木々も、そして月も凛としています。
 環状線を歩いて下ると、大池。一羽の水鳥が私の足音に驚いて池の真ん中へと泳いでいきました。その航跡が広がっていきます。池の畔には凍てついたススキの穂が白く光っていました。冬の朝の景色でした。
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近づく義士祭ー12月14日観音寺で追善法要

2017年12月06日 05時35分54秒 | Weblog
 

 朝の社の街を歩いていると、「義士祭」の幟が目につきます。そして、義士祭のポスターも。12月になると、寒さとともに赤穂義士祭が近づいたことを実感します。
 先日も佐久間良子さんの朗読劇が加東市で行われましたが、佐久間さんを義士ゆかり観音寺境内にある四十七士の墓碑のある菩提所に案内しました。
 加東市域には赤穂藩の領地があり、義士の長老であった吉田忠左衛門は加東郡代でもありました。赤穂浅野家が断絶となった後も当地には分家の家原浅野家が明治維新まで続きました。その浅野家の香華所であった観音寺に義士の150回忌に墓碑が民衆の寄進によって建てられました。それが観音寺の四十七士の墓碑なのです。
 義士の忠義を偲び、顕彰しようという縁の地の人々の思いによって建てられたというところに特色があります。中央に浅野内匠頭、その脇に大石内蔵助、主税親子、そして主君を取り巻くようにぐるりと並んだ四十七士の墓碑。映画の一シーンを墓碑に思い浮かべてみると義士の姿が見えてくるようです。
 14日には加東市義士奉賛会による義士追善法要、地元家原地区の皆さんによる甘酒の接待、社連合区の皆さんによるくじ引き、加東市中学校対抗駅伝大会、スポーツ少年団の剣道大会など多彩な催しが行われます。
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空と大地の間に-社(やしろ)の街遠望

2017年12月05日 05時22分54秒 | Weblog
 明るい光に満ちた広い空と豊かな実りの収穫をおえた広い大地。その向こうのゆるやかな丘に加東市社の街が望めます。ここは加古川に架かる加東大橋を渡って東に向かって平坦な田圃が続く中を真っ直ぐに延びる国道372号から見た景色です。
 加古川の河岸段丘が西から東へと段々に高さを増します。標高30メートルぐらいから、社高校あたりでは標高100メートル近くまで上がり、嬉野台地の高いところでは120~140メートルになります。
 市街の向こうに屏風のように横たわっている山並みが源平の古戦場としてしられる三草合戦の三草山です。さらにその左手奥には西国25番霊場の播州清水寺が見通せます。社の市街は昔、松の木が生い茂っていたと伝えられていますが、佐保神社の門前町として、また、西国霊場巡礼の宿場町として、京、丹波から播磨、西国へと抜ける重要な交通路でありました。
 この広い空と平坦な台地の景色は千年の昔に戻っても変わらないでしょう。今は豊かな穀倉となり、国道が交差し(175と372)、東西南北の交通の要となっています。ちなみに田圃の向こうに見える白い建物は兵庫県社総合庁舎や兵庫県加東警察署です。はるか向こうの高いところに県立社高校のメタセコイヤと時計台も見えます。
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大深山東福寺で弁財天祭り

2017年12月04日 06時14分57秒 | Weblog
 3日(日)、加東市松沢の大深山東福寺で弁財天祭りが行われました。小春日和で風もなく、深い谷の細い道を行くと、黄色くなった山の木々が明るく光っていました。11時前に参拝すると、地元松沢地区の皆さんが祭りの準備をしておられる最中でした。また、本堂の前では山伏の皆さんが午後の護摩焚きの準備、打合せをしておられました。
 東福寺は大深山(おふかさん)と呼ばれ昔から有名なお寺で、松沢地区の西の大深谷にあります。境内には山門、本堂のほか、福寿堂などがあります。福寿堂内には西国三十三番の霊場巡りができるようになっていましたが、元は山門から一列に並んでいたということでした。本堂の山側は岩壁が高く切り立っていて、細い滝が落ちており、その下に不動明王のお姿を刻んだ像が立っています。かつては多くの塔頭寺院がある大きな寺であったようで、今の寺はその一つであったということです。開基は法道仙人とも行基菩薩とも伝わっています。本堂は古くは室町時代に建立されたことが判っていますが、現在のものは嘉永年間(19世紀半ば)に再建されたものだそうです。
 御本尊の十一面観音は行基菩薩一刀三礼の作と伝えられ、60年に一度御開帳されます。本堂正面脇には解説板が立てられています。
 本堂の脇に拵えられた席で、ぜんざいと関東煮をいただきました。区長さんといろいろお話をすることもできました。谷が深いために日が当たり始めるのが昼頃になってしまうとのことでした。
 山伏さんによれば、この地方で護摩焚きと火渡りまでやっている寺院は少なく、加東市ではこの東福寺と神咒寺(東古瀬)、そして東光寺(上久米)の3ヶ所だそうで、一番古くから火渡りをやているのが東福寺だそうです。
 谷筋を通る一本の道は山へ上がれば嬉野へ、谷を下れば、東条川へと通じています。嬉野や山国には「大深山」刻まれた道標を見かけます。きっと多くの人がこの東福寺に参拝をしていたのでしょう。
 今年は護摩焚きの時刻に別の大会があり、残念ながら火渡りをすることができませんでした。来年を楽しみに嬉野への道を上がりました。
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朝日に燃えるー遠く多可の山も

2017年12月03日 06時24分15秒 | Weblog
           

           

 2日(土)の朝、ちょうど朝日が昇り、その濃い光が射し始めた頃、社中央公園の金屋谷池の堤に立ちました。公園の木が朝の光を受けて赤く燃えるように鮮やかに浮かび上がっていました。そして、澄んだ空気の遠く北の方角に五峰山、さらに多可の山並みを望むことができました。あの一番高い峰が北播磨の天辺、千ヶ峰だろうかなどと思いながらしばらく眺めました。
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夕景に泳ぐ師走のコイ

2017年12月02日 05時01分53秒 | Weblog
 師走の1日の夕暮れ、百旗墓地から、加東市社の市街地を見下ろすと、西に傾いた太陽が雲に隠れ、空が黄金色に染まり始めていました。
 その雲の下、社人形会館の屋上に鯉のぼりが泳いでいました。五月の空におおぐ鯉は気持ちよさそうに、夏も、秋も、そして師走の空にも冷たい冬の風に負けまいとおよぐ鯉でした。加東市は東条が播州鯉のぼりで知られています。
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