お寺さんぽ Ver.03

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混乱を極める因幡国 (山名祐豊・豊国)6

2009年08月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。

清和源氏からの名門家山名氏。
「山名宗全(持豊)」の活躍で一時期の勢いを取り戻しましたが、「応仁の乱」に長期関わったことから急速に衰退。
宗全の孫「山名政豊」、その子「山名致豊」と混乱は止まらず、ついに国人衆は「山名誠豊」を擁立するに至るのでした。
時は戦国時代。
誠豊の後継者として宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」はなかなかの切れ者で、尼子氏(※写真:尼子晴久)に通じた因幡山名氏「山名誠通(やまな・のぶみち)」を奇襲によって見事討伐したのです。

因幡を確保した祐豊。
こちらには代官として、弟「山名豊定」を派遣したのです。
(※時期には諸説あり)
兄の命によって因幡入りした豊定は鳥取城、岩井城に本拠を構えて勢力維持に努めます。
しかし、誠通(久通)の遺児「山名豊成(やまな・とよしげ)」を擁立した尼子氏の侵攻、さらに自立傾向が強まってなかなか従わなくなった国人衆など、支配は大いに困難を極めたのです

永禄三年(1560)
そんな父・豊定の死去によって後を継いだのは、嫡男「山名豊数」でした。
ここで登場してくるのが、若狭武田氏の庶流と言われている「武田高信」です。
もともとは因幡守護であった「山名誠通(久通)」に従い、鳥取城にあった高信は独立の傾向を高めて城を大改修。
山名氏に対抗するだけの勢力をじっくりと蓄えていくのです。

永禄六年(1563)
この当時になると、以前から脅威であった尼子氏は毛利氏に押されつつありました。
そうした情勢から、新興勢力であった安芸・毛利氏と結んだ高信は、その後ろ楯を得てついに挙兵。
誠通(久通)の遺児豊成を毒殺し、さらにその弟豊次も討ち取って因幡山名氏を滅亡させたほか、年内のうちに布施天神山城を陥落させ、豊数・豊国兄弟をあっさりと追い落としたのでした
この報を受けた宗家「山名祐豊」は、一転して毛利氏と対立する尼子氏と結んでいます。

しかし…永禄九年(1566)になると、尼子氏は形勢を逆転できずに滅亡。
隣国・因幡へと逃れた尼子氏の残党は、その後但馬山名氏の支援を受けて活動することとなりました。

こうして因幡国内は、安芸毛利氏の後ろ盾がある「武田高信」、但馬山名氏より支援を受ける尼子氏残党という構図になっていくのです。

勢力をもった高信ですが、国人らの掌握には豊定らと同様に苦慮し、また但馬国芦屋城「塩冶高清」、そして有名な「山中鹿之助幸盛」率いる尼子氏残党らとの合戦にも敗れ、大いに衰退。
兄豊数と共に城を追われていた「山名豊定」の次男「山名豊国」は宗家の祐豊、そして高信を敗退させた尼子氏残党と結び、ようやく鳥取城を回復するのです。

⇒ つづく
 次回は「祐豊、ぎりぎりの選択」(7/8)

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※昔は教科書にも登場した「鹿之助さま」
 確かに個人的には滅法強いようでしたが、集団戦はそれほどでもないようです。


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