ここのところ日本獣医師会雑誌には、「解説・報告」として獣医療過誤裁判についてのシリーズ記事「判例に学ぶ」が載っている。
2008(61)12月号では、輓曳競走馬の喉頭形成術の獣医療事故が取り上げられている。
この獣医療事故や判決については、私は当事者でなく、しかし関係者には知っている方も多く、あえてブログには何も書きたくなかったのだが、「解説」まで書かれるにいたっては、喉頭形成手術を行う者として自分の考えを提示しておきたい。
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私は、あの判決は不当なものだと思っている。正確な事実の詳細は知らない。
しかし、判決文を読んだだけでも、「いったいどうしてこんな判決になるんだ?」が感想だ。
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その輓馬がその手術以降も稼いだであろう賞金額(784万)や出られなかったレースの賞金額(178万)まで損害賠償額に含まれている。
そのまま競走馬として使えて、そんなに賞金が稼げるなら、喉頭形成手術など依頼しなかったはずだ。
それとも手術すれば100%治ったはずだと考えているのか?
喉頭形成術の成功率が100%近いなどと言う馬外科医はいない。
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手術は2回目の喉頭形成手術だった。
1回目の手術を行った大学病院では、「2回できる手術ではない」と言って、2回目の手術を断ったそうだ。
そのことで関係者は2回目の手術の難しさを知らされたはずだし、2回目の手術を引き受けた獣医師も説明したはずだ。
そして、懸念されたとおり、癒着や結合織の増勢で手術は難しかったのだろう。
説明されていない予想外の結果とは言えないのではないか。
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喉頭形成術は、非吸収性の糸で披裂軟骨筋突起と輪状軟骨を結紮する手術だ。
私は喉頭形成の術創化膿の経験はないが、傷の化膿や漿液腫の形成は考えられうる併発症とされている。
そして、その場合も適切な処置を行えば、異物である非吸収糸を抜いてしまわなくても化膿は抑えこめることがほとんどだろう。
4月半ばに行った手術で、4月下旬か5月上旬に術創が腫脹したので、5月から7月ころに切開して排膿したとされている。明らかに、術部の感染、化膿の経過や処置としては遅い。
手術する馬を術創が完治するまで入院や通院させられれば、手術する外科医は安心だ。
しかし、それは飼い主側の手間や費用を考えるとできないことが多い。
それが、馬の手術が置かれている現状なのだ。
術後経過が思わしくないことが手術した者に連絡があったのかどうかは記載されていない。
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「解説」の中には手術の器具やガーゼの遺残事故を防ぐために、器具やガーゼを数えておくことや、x線撮影に写るガーゼの使用が提案されている。
しかし、この喉頭形成術の事故は針を残したのであって、術者は針が残ってしまったことを認識していたはずだ。
認識していながら抜けなかったか、組織に損傷を与えて抜くよりはそのままにした方が良いと判断したのだろう。
器具を術創に知らずに残してしまうこととは本質が違っている。
x線に写るガーゼの使用も馬の体腔の手術では解決法にならない。
馬の体腔を写すにはかなりのx線量が必要で、そのx線量だとガーゼに仕込んだわずかな金属糸は写らない。
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獣医療でも、過誤が問題になると、人医療の対応や判例が参考にされる。しかし、同じような手技でもかけられるコストがまったく違う。
同じような手技の手術で人医療と馬医療の値段を比べて見るといい。
馬医療は薬の量は体重換算で10倍前後必要なのに、同様の手技の値段は数分の一から十数分の一だ。
人医療からくらべると省力化し、手技を省き、人医療から考えればリスクのある医療行為をするしかない。
人医療なみのコストを畜主側が負担できるか?望むか?
望ましい結果が出なかった時だけ、人医療を参考に、獣医師に責任を負わせないでもらいたい。
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この判例の馬は、披裂軟骨炎を起こしたようだ。
術創が化膿しなくても、喉頭形成術後に披裂軟骨炎が起こることはある。
この症例で術創の化膿と披裂軟骨炎の因果関係があったと断定はできないのではないか。
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文献的な報告でも、失敗例や併発症の報告は、成功例の報告より少ない。
誰も、自分の失敗例や併発症症例について報告を書きたくないからだ。
だから成功率は実際より高く報告される傾向にある。
発表されて注目されるが、他所で実践されるようになると報告されたような結果が出ず、行われなくなった手技や方法はいくらでもある。
喉頭片麻痺で競走に勝てない馬を勝たせるようにする治療の第一選択肢だと多くの馬外科医が考えている。
しかし、喉頭形成術は、さまざまな併発症の可能性がある手術なのだ。
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この症例は呼吸障害が安楽死の判断のもとになったようだ。
その対処法として披裂軟骨切除は選択肢にならなかったのだろうか?
また、披裂軟骨炎による呼吸障害が問題なら、永続的気管切開で生きながらえさせることができる。
気管切開したまま種雄馬として飼養することもできたのではないか?
損害賠償額には種雄馬としての価値822万余円が含まれている。
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判決文には化膿を表現して「じゅくじゅく」と書いてあった。
「じゅくじゅく」などと表現するしかない者が、獣医療行為の是非を獣医学的に正しく判断できるのか?
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今回の「解説」記事には参考文献が示されている。その数21。
馬の喉頭形成術そのものについての文献は・・・2,3しか挙げられていない。
喉頭形成術を行おうとする馬外科医はその10倍以上の数の文献を読んで努力し勉強しているだろう。
喉頭形成術が文章で書かれているようにはいかないことも知っている。
裁判官や、「解説」を書いた方は、馬外科医なみに喉頭形成術について知識を得たのだろうか?
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以前に輓馬の喉頭形成術をやったこともあるし、この判決の後も数件の輓馬の喉頭片麻痺について相談された。
しかし、1頭も引き受けていない。
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メリクリ!