真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「欲求不満な女たち -すけべ三昧-」(2004/制作:セメントマッチ/提供:オーピー映画/監督:池島ゆたか/脚本:五代暁子/撮影:長谷川卓也・小宮由紀夫・広瀬寛巳/編集:酒井正次/音楽:大場一魅/助監督:佐籐吏・田中康文/出演:紅蘭・華沢レモン・佐々木麻由子・池島ゆたか・本多菊次朗・樹かず・片岡命・石動三六・かわさきらんこ・モテギタカユキ・つーくん・山ノ手ぐり子・野村貴浩・神戸顕一)。出演者中、女優三本柱以外にポスターに名前のあるのは、順に本多菊次朗・池島ゆたか・樹かず・片岡命、そして神戸顕一。
 ダイエット目的とは思へないが、中年男(神戸)がジョギングに汗を流す。自販機の前で小休止すると、ロング缶のコカ・コーラを流し込む。汗を拭いた中年男が「よし!」と気合を入れ、再び走り始めたところでタイトル・イン。コーラは兎も角炭酸も抜かずにとは、どれだけハードマゾなのか、それから更に走るんだぞ。
 戸田真理子(36歳 専業主婦)、以降主役三名、各篇の冒頭にクレジットが入る。学者の夫(石動)の悪い所を真似た、高校生の娘・レナ(かわさき)も雑誌を読みながら食事を摂る。一応家族は揃つたものの父娘は書物に目を落とす食卓に、無論会話はない。真理子(佐々木)はレナが学校に行くのに化粧をしてゐることを見咎めるが、戸田は「レナのことはお前に任せてある」の一点張りで、満足に取り合つても呉れない。夫婦の生活は既になく、最近レナが女になつたことを意識した真理子は、己が身の寂寞と照らし合はせても激しい焦燥に駆られる。娘のギャル雑誌の中に出会ひ系の広告を見付けた真理子は、バツイチを偽り遠藤(樹)と会ふ。
 倉沢亜由(18歳 女子高生)、正直興味もないものの、エスカレーター式の中高一貫校で福祉科に進学を決めた亜由(華沢)は、学校には行つたり行かなかつたりしてゐる。けふもフレキシブルな創立記念日を採用し、援交相手の山本(池島)と会ふ。ところで個人的には、創立記念日だから休みだとか記憶にないのだが。歳の離れた幼馴染で大学院生の宏介(モテギ)が、援助交際の非を唱へつつ頻りにモーションをかけて来るが、亜由の眼中にはない。
 ジョゼ(本名 小林紀代/29歳 SM嬢)、金魚のクレオとパトラ、インコのカルメンと暮らすジョゼ(紅蘭)は、基本的に出張専門の女王様。さういふ生活との両立は難く、息子のツヨシ(つーくん)は施設に預けてあり、月に一週間しか、一緒に居ることは出来ない。ツヨシの父親のことは、一切語られず。電話越しの声も聞かせない店のオーナーからは新しい店を任せることを持ちかけられるも、さうなると更に一層ツヨシと会へなくなるのではないかと、ジョゼは逡巡する。本多菊次朗は、ジョゼ女王様の常連客・草野。ジョゼと草野との濡れ場では、ワン・カットカメラの影が映り込んでしまつてはゐないか。ところで、実際に本職の女王様でもある紅蘭が、三女優の中では何気に一番ストレートな美人顔でもあるのだが、さうなると強力に疑問が残るのは、翌年同じく池島ゆたかのSM二部作に際しての、どんとこいな体型は一体何なのか。
 片岡命は、ジョゼで風俗筆卸する菊池。山ノ手ぐり子(=五代暁子/つーくん実母)は、亜由の母親。要は山ノ手ぐり子のポジションは、関根和美でいふとほぼ亜希いずみに当たる。野村貴浩は、真理子に手痛い竹箆返しを喰らはせる田中。
 趣向としては、たとへば翌年の「援交性態ルポ 乱れた性欲」(監督:竹洞哲也/脚本:小松公典)と同様、一人一人の女達の全く別個の暮らしぶりと心模様とを、それぞれに描いた映画である。我ながら実も蓋もないが、特に意味も持たない比較としては、年齢も境遇も、抱へた問題―亜由には未だ、抱へるといふ程のものはないのだが―をもバラエティ豊かに違へてみせた形式に加へ、年季と地力とに裏打ちされたひとつひとつの、それぞれ単体としては必ずしも決して劇的といふ訳でもない上でなほ、場面場面に抜群の強度を誇る今作の方に、圧倒的に分がある。立てたコンセプトに対しての、老練かつ入念、そして強靭なアプローチの出足が、断然勝つてゐよう。「援交性態ルポ」に於いてはルポライターである主人公・長田亜由美(倖田李梨)が担ふ、それぞれの女達を繋がらなくとも偶さか重ね合はせる役割を果たすのが、意外なことにも冒頭のジョギング男。触れてしまふがラスト・シーンが、非常に気が利いてゐる。川沿ひの遊歩道と、橋とが交錯する十字路。開巻とバンクのジョギング・カットを経て、画面左側から遊歩道にインしたジョギング男が、上方の橋へ左折する。朝のゴミ出しに出た真理子は、橋の反対側から、遊歩道へ右折する。その日は学校に行く亜由は、付き纏ふ宏介を伴ひながら橋を下りて来て、ジョギング男と擦れ違ふ形で真理子と同じ方向に左折する。そして菊池相手の一仕事終へ朝帰りのジョゼが、画面右手から左へと遊歩道を直進する。のをロングで捉へたショットが、三人の女が唯一同一フレーム内に納まるカットで、なほかつそれぞれの生活が、ひとつの朝の中に重なる鮮烈な瞬間である。変に策を弄して真理子と亜由とジョゼの各パートを劇映画風にリンクさせてみせるよりは、かうした劇中世界内に於いてはあくまで単なる偶然に止(とど)まるままに、それでゐて同時に、観客に対しては明確な意思をさりげなく予示した遣り方は、素晴らしくスマートで、綺麗な映画的余韻を持たせてドラマを締め括る。ただ、その朝のジョギングが開巻のバンクであることに関しては、時制の混乱を微かに覚えぬでもないので、無理を承知でいふならば、出来れば撮り直して、あるいは撮り足して欲しかつた感は幾分残る。

 ところで、ひとつ大いに解せないのは。今作、劇伴の類は一小節も使用されてゐなかつたと思ふのだが、それでゐて、何時ものやうに音楽として大場一魅の名前がクレジットされてゐる辺りがよく判らない。「肌の隙間」(2004/監督:瀬々敬久)に於ける、安川午朗と同じ寸法なのか。


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