弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

昭和初期の遊郭とそこで働く人々

2014-05-01 20:02:10 | 歴史・社会
熱風の日本史 第32回「どん底」の人々の救済 (大正)2014/4/6付 日本経済新聞 朝刊

『近世までの遊郭の娼婦は「性奴隷」に等しいもので、海外から「人身売買」との批判を恐れた明治政府は、1872(明治5)年に娼妓解放令を発した。遊郭は「貸座敷」となり、そこで娼婦が「自由意思」で営業する建前となる。
しかし、貧しい農家などから売られてきた女性たちは、前借金でがんじがらめにされており、廃業を申し出ようとすれば遊郭側から激しい暴行を受けた。警察は遊郭と癒着しており、見て見ぬふりだった。
・・・・・
娼婦の「開放」は58(昭和33)年4月1日の売春防止法完全施行を待たなければならなかった。数々の歴史資料、証言から、過酷な境遇にいた娼婦たちが望んで遊郭で働いていたという事例はほとんどない。』

ここでは、明治初期に成立した「娼婦解放令」、それにもかかわらず大正時代に遊郭の実態はどんなものだったのか、そして戦後の売春防止法施行で時代が変わったことが記されています。
しかし、昭和初期から終戦までの遊郭の実態については、上記日経記事には何ら記載がありません。法制度は変わっていないのですから、大正時代と同様に、売られてきた女性たちは前借金に縛り付けられ、自由意思を剥奪されて娼婦の仕事を強要されていたのだろうと推測されます。そうであれば、昭和初期から終戦までについても、遊郭の女性たちは「性奴隷」と呼ばれるほかはない生活を強要されていたことになります。

また、明治5年に「娼婦解放令」が成立している以上、たとえ前借金があったとしても、本人の自由意思を無視して遊郭で働かせることは、違法であった可能性が高いです。「売春防止法の施行以前、公娼制度は合法であった」という議論がありますが、これはあくまで本人の自由意思が尊重される限りの話です。上記日経記事でも、「数々の歴史資料、証言から、過酷な境遇にいた娼婦たちが望んで遊郭で働いていたという事例はほとんどない。」ということですから、本人たちの自由意思は全く顧みられていませんでした。

さてそれでは、昭和初期から終戦までの時期、日本の遊郭と娼妓とはどのような実態だったのでしょうか。その点について記述したサイト、書籍を探してもほとんど見つかりません。唯一見つかったのが、山下文男著「昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)でした。アマゾンでは中古品しか扱っておらず、新刊書としては無明舎出版から直接取り寄せるルートがあるのみでした。そこで私は出版社から直接購入し、現在読んでいるところです。

昭和初期における日本での遊郭と娼妓との実態は、同時期における戦地での慰安所と慰安婦の実態につながっていくことになります。

昭和初期における日本での娼妓の実態についてなぜこれほどに沈黙が守られているのか。私はとても不思議に思いました。ひょっとすると、娼妓として苦しい思いをされた方々がご存命であるため、慮って沈黙が守られているのかもしれない、と想像するに至りました。
これと対比すると、慰安婦として苦しい思いをされた韓国の方々については、むしろご存命中のうちにきちんと補償をすべきであるという声が大きく唱えられています。
日本と韓国のこの大きな差については、驚かざるを得ません。
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1 コメント

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芸者、遊女 (rumichan)
2014-05-02 04:58:45
溝口健二は、それなりに芸者遊びをした方のようですから、彼の映画を紹介しておきます.
(YouTubeで観れます)

祗園の姉妹(1936)
 必ずしも、当時の芸者が身体を売っていたわけではない.
 けれども、体を売らないと、貧乏で食べて行けない.

西鶴一代女(1952)
 特種慰安施設協会の慰安婦を、井原西鶴の好色一代女に描き込む.

祗園囃子(1953)
 芸者と基本的人権

噂の女(1954)
 芸者置屋に育った娘は、それがために結婚が破談になるところから始まります.

赤線地帯(1956)
「売春婦は国の恥だ」と言って、野党は売春禁止法を訴えたのだが?

書き添えておけば、全て芸術作品です.

5千円札の女の子、樋口一葉の『にごりえ』は、遊女(悪女)を描き上げています.
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