弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

朝日新聞『「未完」の辺野古』

2024-09-12 15:17:44 | 歴史・社会
9月5日~12日の朝日新聞朝刊に、『「未完」の辺野古』という連載記事(1~5)が掲載されました。このブログ記事の末尾にポイントを掲載しておきます。
普天間基地の辺野古移設問題については、このブログでも取り上げてきました。以下に概略を述べるように、2009~2014年あたりにかけてです。

今回、朝日新聞の記事と私のブログ記事を比較して読んでみました。私のブログ記事と対比して、朝日の記事に特に目新しい内容は含まれていないようです。それどころか、守屋武昌(当時)防衛次官が提起した「シュワブ陸上案」は扱いが小さく、小川和久氏が提起した「キャンプハンセン案」は登場すらしていません。残念でした。

沖縄の基地問題を論じる上では、「沖縄の声」を重視することが最重要です。ところが、「沖縄の声」には2種類があり、一つは「沖縄県民の声」、もう一つは「沖縄土建業者の声」です。
「沖縄県民の声」は、「移設先は県外」であって移設先が沖縄である限り反対です。その結果、「シュワブ陸上案」「キャンプハンセン案」は「沖縄県民の声」「沖縄土建業者の声」のいずれも反対で、合意が成立する可能性がありません。一方、「辺野古埋め立て案」については、「沖縄県民の声」は反対ですが「沖縄土建業者の声」は賛成であり、成立が可能となりました。
従って、辺野古埋め立て案については、軟弱地盤の改良でどんなにお金がかかろうと、これ以外に合意の可能性はなく、「唯一の案」となるのです。残念なことです。

辺野古にできる海兵隊基地は、普天間基地に比較すると機能が落ちます。有事の際には海兵隊の能力が十分に発揮できない可能性があります。
しかし、普天間基地は「世界一危険な米軍基地」なのですから、一刻も早くより安全な基地に移転する必要があります。
私は、海兵隊が普天間基地から辺野古基地へ移転した後も、普天間の基地機能は保有しておき、台湾有事で海兵隊の大部隊が沖縄に集結する場合には普天間を使う、というアイデアを有しています。

以下、当ブログ記事と今回の朝日新聞『「未完」の辺野古』記事のポイントとを掲載します。

--当ブログの記事-----------------------
普天間問題 2009-12-29

普天間問題の行方 2010-04-29
それまで「絶対に不可能」といわれてきた普天間返還の道筋を開いたのは橋本龍太郎政権です。米国大統領との直接交渉でとっかかりを得ると、普天間の代替地探しが始まります。嘉手納統合案からスタートし、米国から反対されるとつぎに辺野古地区に移ります。
2004年頃、守屋武昌(防衛次官)氏は「シュワブ陸上案」というのを提案するのですね。
しかし、地元では名護市の建設業者が中心になって「埋め立て案」を持ち出してきます。その背後には「埋め立てで地元の経済を潤したい」という気持ちがあったに違いないといいます。
この中で05年10月、当時の大野功防衛庁長官が頑張り抜いて「キャンプシュワブ宿営地案」で米国と合意に達しました。
その後の地元との交渉で「住宅地の近くでうるさく危険だ」という理由で浅瀬に押し戻すことが求められ、地元の協力を得る視点から額賀長官が決断し、現在の「V字型案」で06年4月に名護市長らと合意に達しました。
しかし沖縄はこれで交渉を終わらせません。小泉内閣から安倍内閣に代わり、稲嶺知事から仲井眞弘多知事に代わると、「もっと浅瀬に出してくれ」と言い始め、二枚舌とも言える交渉を主張して普天間問題の先延ばしを図るのでした。

小川和久著「普天間問題」 2010-07-25
96年6月までに、小川和久氏は普天間飛行場の移設構想をまとめ上げました。その案とは、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建設し、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジアのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという構想でした。
2005年6月、小川氏は当時の守屋武昌防衛次官と話し合います。
守屋氏はこのあと、積極的に陸上案を主張しますが、辺野古の普天間代替施設はズルズルと海側に引っ張られていき、現在のV字型滑走路案となっていきました。
『この背景には、埋め立てにからんで巨額のビジネスにありつくことができる業者の関与があった、というのが沖縄における定説です。有力な国会議員に対し、多額の政治献金が渡った結果だとされています。飛行場を海上に引きずり出し、少しでも埋め立て面積を増やそうとする動きは、最近まで続きました。』

普天間問題~05年頃に何があったのか 2010-08-08

中国の軍事力脅威と在日米軍の再編 2011-11-16

小川和久氏と普天間移設問題 2014-04-06
1996年頃、小川氏のキャンプ・ハンセン移転案は、自民党代議士と地元利権によって葬り去られました。
2010年における小川氏のキャンプ・ハンセン移転案も、辺野古埋め立てを求める地元土建業者の利権を背景に迫る官僚に、鳩山総理が負けてしまったのでしょう。

沖縄訪問(1) 2014-03-30
2014年に沖縄を訪問しました。私としては今回の沖縄訪問で、『「世界一危険な米軍基地」と、そこに隣接する普天間第二小学校』をこの目で見ておきたいと考え、レンタカーを繰って訪問しました。そのときの記録です。

普天間第二小の校庭に米軍機窓枠落下 2017-12-16
『普天間基地の近くには小学校もあり、宜野湾市の伊波前市長はいつも小学校が危ないと心配していました。日本政府も放置できず、この小学校を移転させようとしました。
ところが、驚くべきことに移転に一番反対していたのは伊波氏でした。はっきり言って、かれはこの小学校の危険性を政治的に利用していました。この小学校がなくなれば、基地に反対する材料が減ると思い、移転に反対していたのです。普天間基地は自分を政治的に引き立ててくれる存在というわけです。「基地のない沖縄」を標榜する革新系地方政治家の正体がこれなのです。』
--当ブログの記事--以上--------------

--「未完」の辺野古-----------------
(「未完」の辺野古:1)05年交渉「米海兵隊、強い反対」 辺野古移設、合意優先へ妥協
2024年9月5日
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の辺野古移設をめぐり、国の異例の「代執行」を経て、8月20日に始まった大浦湾の埋め立て工事。日米両政府が米軍キャンプ・シュワブ(同県名護市)沿岸を埋め立てて2本の滑走路を「V字形」に配置する現行案に合意したのは、2006年5月のことだ。合意に先立つ05年当時の交渉は、緊迫した雰囲気に満ちていた。

(「未完」の辺野古:1)V字形、机上の折衷案 軍事的観点よりも、政治的調整を重視
2024年9月5日
『(1面から続く)
辺野古移設をめぐる日米合意の舞台裏。日本側の事情はどうだったか。
2005年夏、防衛庁(現防衛省)の守屋武昌防衛次官(当時)は、米側交渉代表のリチャード・ローレス国防副次官(同)から手渡された1枚の図面に目を奪われた。名護市辺野古の南方沖合の浅瀬を埋め立てる案(通称「名護ライト案」)の図面だった。
埋め立て案に後ろ向きだった守屋氏は、米側にはしごを外された感覚だった。複数の防衛庁幹部らは「名護ライト案」は地元の建設業者らの意向を反映しているとみていた。米国の大手建設会社も関わり、自民党の大物議員や外務省も支持していたという。
守屋氏は当時、海の埋め立てに反対していた。環境破壊が理由ではない。市民団体の海上抗議活動によって代替施設の建設が実現しないことへの恐れだった。
守屋氏らが推していたのが、米軍キャンプ・シュワブの敷地内での建設案(通称「シュワブ陸上案」)だった。』
米側が突然持ち出した「名護ライト案」はほどなくして消えます。その後、陸上案によりつつ、辺野古崎に面した部分を占め立てる折衷案(「L字案」)で妥協、さらに「L字案」を海側へ300mずらした、現行の「V字滑走路」案に決まりました。
『日米合意の経緯を検証すると、建設する基地の軍事的観点からの検討とは異なり、関係者間の意見調整という政治的側面が最重視されたことが分かる。それでも、ある沖縄防衛局長経験者はこう総括する。「多くの関係者が関わる中、それぞれ多少の不満はあれど、それなりに収まった多元連立方程式の解だった』

(「未完」の辺野古:2)「大浦湾に手を付けると…」
2024年9月6日
『2009年9月、政権交代の熱気が日本中を覆う中、防衛相に就任したばかりの北沢俊美氏は執務室で頭を抱えた。「これは混乱するな……」
2カ月前、民主党の鳩山由紀夫代表(当時)は米軍普天間飛行場の移設先について「最低でも県外」と表明。北沢氏は「党内的な議論はなかった。鳩山さんが大きな石を投げた感じだった」と振り返る。』
政権交代当時、北沢氏は防衛省内である警告が耳に入っていたと証言します。
「大浦湾に手を付ければ、大変なことになる。」
まだ「軟弱地盤」は確認されていませんでしたが、大浦湾は水深が深いため、予算が巨額に膨らむことが避けられない、とのことです。
その後、自民党政権で軟弱地盤が発覚し、関係予算は1兆円弱に積み増されました。
『日米両政府は自民党の政権復帰以降、辺野古移設を「唯一の解決策」と強調するようになった。ある防衛省幹部に予算の膨張を尋ねると、こんな答が返っていた。
「そんなことを今から心配してもしょうがない。辺野古への移設は、米国が『必要ありません』といわない限りは絶対に続いていく。どんなに時間やカネがかかろうとも」』

(「未完」の辺野古:3)「見直しはパンドラの箱」
2024年9月10日
『2009年の政権交代後、米軍普天間飛行場移設の「最低でも県外」を掲げた民主党鳩山政権のもと、米政府もいったんは辺野古の「V字形滑走路」の現行案見直しに取りかかった。ただ、この経験は、米側には「苦い記憶」として残る。』
「残念だった。振り出しに戻ってしまったからだ」。当時、米国防次官補を務めたウォレス・グレグソン氏は当時の心境をそう振り返ります。
『グレグソン氏は「V字形滑走路」の現行案が近隣住民の理解も得られているものとして、政治的には「最善の策」だったと語る。ただ、辺野古基地については、滑走路の短さや「軟弱地盤」といった問題から、軍事的な有用性を疑問視する声は海兵隊内からもたびたび上がっていた。』
『米政府が辺野古移設推進をやめる考えがないのは「見直しは、再び『パンドラの箱』をあけることになる」(元国防総省高官)からだ。』
『現行案を再び振り出しに戻せば、地元沖縄県の反発もさらに強まる懸念があると指摘』

(「未完」の辺野古:4)「首相は米に要求する勇気を」
2024年9月11日
鳩山政権の「県外移設」の迷走後、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先が再び現行案に戻ると、政府は辺野古移設を「唯一の解決策」と繰り返すようになった。だが、米海兵隊内部の不満は今もくすぶる。
2009~15年、沖縄で米海兵隊太平洋基地政務外交部次長を務めたロバート・エルドリッチ氏は「私の付き合いのある海兵隊の中で評価する人はゼロだ」と言い切る。

(「未完」の辺野古:5)「戦略的に重要」は後付け
2024年9月12日
『巨額の税金を投入し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を進める日本政府。その姿は、沖縄からどう見えているのか。米軍基地問題に詳しい我部政明・琉球大学名誉教授(国際政治学)に聞いた。』
『中国が台頭した結果、米海兵隊が、部隊運営に支障がない普天間を使い続けたいと思っているのが、沖縄にいるとよく分かります。』
『米側が「辺野古では部隊運用が不十分」と考えれば、普天間を使い続けようとする可能性はある。』
--「未完」の辺野古-以上----------------
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