弁理士の日々

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ブチャでの惨劇

2022-09-10 12:50:17 | 歴史・社会
(死の通り―ブチャ生存者の証言―)目隠しの民間人、「明らかに処刑」
2022年9月5日 朝日新聞

ブチャの地形(記事の地図から)
ブチャは南北に3~4kmの広さで、北にアントノフ国際空港に接するホストメリ、南にイルビンが接している。
南北に走るボクザルナ通りは南でイルビンに通じている。ボクザルナ通りと直交するヤブロンスカ通りは、ブチャの南東端(イルビンに接する)に平行に延びている。

『ロシア軍は占領したブチャに拠点を構え、隣接するイルビン北部の前線突破を一ヶ月ほど図った。ウクライナ軍の徹底抗戦に遭い、ブチャに連日押し戻される中で、いらだちを無抵抗の市民に向けた可能性がある。

ブチャでの主な出来事
2月24日 ロシア軍、ホスメトリのアントノフ国際空港を襲撃
  27日 ブチャのボクザルナ通りで戦闘
 3月中 イルビンの最前線で両軍の攻防1カ月間
3月3日頃 ウクライナ軍がブチャからイルビンに後退。ロシア軍がブチャを完全占領。
 ~31日 ロシア軍がキーウ近郊から撤退開始

ボクザルナ通り
2月27日、キーウ方面に向けて南下していたロシア軍の部隊が、ウクライナ軍や領土防衛隊の攻撃を受けて壊滅的な被害を受けた。①

ヤブロンスカ通り
ロシア軍の撤退後の4月2日、何体もの遺体が通りに放置されている様子が動画で発信され、世界に衝撃を与えた。その数は約20に及んだ』②

『「死の通り」と呼ばれるブチャのヤブロンスカ通り。ブラソブさんと歩いた通り沿いに暮らす木工職人、エブゲニ・クズネツォブさん(48)と妻ルドミラさん(48)が証言した。
《3月3日には複数の遺体が見えました。ロシア軍による民間人の殺害が始まっていたのです。》』
『市当局の見方では、ロシア軍はプチャをいくつかの区域に分け、異なる部隊が駐留した。ヤブロンスカ通りを含む市南部に駐留した部隊が、他より残虐だった、という。』③

『なぜブチャで虐殺が起きたのか。ロシア軍は3月3日ごろにプチャを完全占領したが、イルビン北部でウクライナ軍の抵抗に遭い、先に進めなかった。何度もブチャに押し戻される中で、いらだちを無抵抗の市民に向けたのかもしれない。』④
--記事以上--

ウクライナ戦争は半年経っても収束する気配がありません。
ロシア軍、ウクライナ軍、ウクライナ市民、それぞれに数万人の犠牲者が出ていると思われますが、ウクライナ、そして世界中が、現状での戦争終結を望んでいません。
それはなぜか。
世界中が、ブチャでの惨劇の映像をテレビ画面で見たことが最大の原因です。ここで世界中が、スイッチを切り替えました。「戦争犯罪を起こしているロシアとロシア軍は、決して許されない。」

もしブチャでの惨劇がロシア軍の有している特質に基づくのであれば、ロシア軍がウクライナ北部から撤退した後、第2、第3のブチャが続々と現れるに違いない、と私は思っていました。しかし、ブチャ以外の地域まで広く惨劇が拡大しているとの情報はニュースに現れません。
そして今回の上記記事です。
上記①②③④によると、ロシア軍はブチャのボクザルナ通りで壊滅的な被害を受け(①)ました。当時の映像では、一本道を一列縦隊で進むロシア軍戦車は対戦車ミサイルで各個撃破され、道路上で全滅状態であることが、テレビで放映されていました。また、イルビン北部でもウクライナ軍の抵抗に遭い、先に進めませんでした(④)。
このような状況下で、何度もブチャに押し戻される中で、いらだちを無抵抗の市民に向けたのかもしれません(④)。また、ロシア軍はプチャをいくつかの区域に分け、異なる部隊が駐留していましたが、ヤブロンスカ通りを含む市南部に駐留した部隊が他より残虐だった、ということです。特に残忍だったのは、特定の部隊のみだった、というのです。

陸上戦闘で壊滅的な被害を受け、まわりの戦友たちがどんどん戦死していく状況下で、生き残った兵士が異常な精神状態になることは経験から知ることができます。
日中戦争における日本の状況については、「第2次上海事変と南京事件 2022-05-14」で記事にしました。
盧溝橋事件が偶発的に発生し、それ自体は現地で収束に向かっていたとき、国民党の蒋介石は、この機に乗じて日本軍を中国大陸から追い落とそうと決心します。
すでに蒋介石はドイツの力を借りて上海の郊外に大要塞陣地を構築しており、ここを拠点として上海の日本軍(海軍陸戦隊)に襲いかかりました。これに対応するため、日本は陸軍部隊を派遣し、上海郊外に上陸しました。そこで、日本は大変な苦戦を強いられるのです。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)」
簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらず、継続して南京まで蒋介石軍を追求することとなりました。
秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)」の記述
ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。

ブチャにおいて、世界中を震撼させたヤブロンスカ通りの放置遺体は、20であったと上記記事は伝えます。ブチャに駐留したある特定の部隊による20の遺体放置が、世界史を変える力を発揮しました。この特定の部隊がなぜ惨劇を起こす精神状態になっていたのかはわかりませんが、大きな影響力を発揮する結果となりました。
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