弁理士の日々

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八田隆著「勝率ゼロへの挑戦」

2014-09-07 15:19:45 | 歴史・社会
勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか
八田
光文社

著書の扉によると、
「八田氏は東大法学部卒業後、ソロモン・ブラザーズ証券、クレディ・スイス証券、ベアー・スターンズ証券に在籍。クレディ・スイス証券在籍時の株式報酬過少申告を故意の脱税とされ、国税局査察部強制捜査後、刑事告発。東京地検特捜部起訴。法廷闘争により、査察部告発・特捜部起訴の事案で史上初の無罪が確定。それまで税務調査開始から5年あまりを要した。」

2007年1月、八田氏はクレディ・スイスのマネージング・ディレクターに昇格しましたが、そのときすでに職場での八田氏の立場は弱くなっていました。東京オフィスにアメリカ人が一人、送り込まれてきました。八田氏はあくまでビジネス・パートナーのつもりだったのですが、そのアメリカ人は上司風を吹かせようとして軋轢が生じたのです。
結局、八田氏は解雇されることになりましたが、条件はすべて会社都合解雇に準ずることになりました。クレディ・スイスでは、給与の少なからぬ部分が自社株で払い出されますが、一定期間経過後でないと売却できない約束です。自己都合で会社を辞めるとその権利をすべて失ってしまう契約ですが、会社都合であればその株式を受け取ることができます。八田氏は、その未経過分の株式報酬を退職金として前倒しで受け取ることになり、後の脱税容疑につながることになりました。


国税庁資料調査課(リョウチョウ)による捜査は、2008年に始まりました。税務調査は、クレディ・スイス証券の従業員および退職者に対して一斉に行われました。その年のうち、捜査は査察部(マルサ)に渡りました。
八田氏の給与の一部が現物株(合計約3億円)ないしストックオプション(5千万円)といった株式報酬で支払われ、会社はそれら株式報酬に関して源泉徴収の義務なしと判断して源泉徴収を行っていませんでした。しかし八田氏は、会社からもらう源泉徴収票に記載されていない会社の給与があるとは全く思いもしなかったため、申告漏れとなっていたのです。
クレディ・スイス証券の在職者・退職者のうち、税務調査の対象となったのは300人。そのほとんどが株式宇報酬を申告できずに修正申告となり、約100人が八田氏と同じく株式報酬の無申告となっていました。クレディ・スイス証券以外の外資系証券でも同じ状況でした。そのような対象者数百人のうち、八田氏ただ一人が、国税局、検察から故意による脱税だと刑事告発、起訴されたというのがこの事件です。

マルサによる強制捜査が行われた時期、八田氏はアメリカ在住でした。取り調べのために日本との間を往復する日々でした。取り調べでは八田氏は「身に覚えがない」と答えるのみです。もちろん故意による脱税だとする証拠も一切ありません。
それにもかかわらず捜査は長引きます。2009年9月ごろ、八田氏は捜査官に「上司に会わせてくれ」と談判し、査察部統括官との面談を実現しました。八田氏が、なぜここまで時間がかかっているのかと詰め寄ったところ、統括官は言いました。
「証拠がないからです。証拠があれば、ほらこんな証拠があると、八田さんに提示できるから話も早いのだが、その証拠がまだ見つかっていません。私たちの仕事はあなたを告発することです。だから時間がかかっていることをご理解ください。」

2010年2月、国税局が八田氏を刑事告発したとする新聞報道がなされました。
メディア関係者からヤメ検の弁護士を紹介されました。そのヤメ検弁護士は、否認しないことを勧めました。また、知人の一人は弁護士と相談し、子どものためを思って虚偽自白することを勧めてくれました。その言葉で逆に八田氏は意を決しました。子どものためを思うからこそ、真実を貫かなければならない。正面突破です。
このとき、八田氏は刑事裁判の有罪率が99.9%を超えることを知りました。ましてや国税局査察部が刑事告発して、検察特捜部が起訴しなかったこともなければ、査察部事案で特捜部に起訴されて無罪になったことも歴史上1件もないということを知りました。

まずは一緒に戦える弁護士が必要です。元ベアー・スターンズ証券の知り合いから紹介を受けました。経歴が刑事専門でないこともあり、断りの電話を入れようと弁護士に電話しました。しかし電話で話をしているうちに、一緒に戦えそうなイメージが沸いてきました。そこでその日のうちに弁護士に会う約束をしました。それが、一審・控訴審で主任弁護人を務めた小松正和弁護士との出会いでした。

東京地検特捜部の捜査は、刑事告発から1年半も放置されました。その間に、大阪地検特捜部による村木厚子氏事件(郵便不正事件)が勃発していたのです。

特捜部による取り調べが始まります。この取り調べ、まさに刑事被告人八田氏と特捜検事との真剣勝負ですね。そして、取り調べの全期間を通して、八田氏のエネルギーは衰えることがなく、特捜検事に対して互角以上の勝負を演じました。これは希有のことです。特捜検事と対峙してこれだけめげずに戦った例としては、佐藤優氏しか思い浮かびません。
大阪地検特捜部による郵便不正事件・証拠(フロッピー)改ざん事件が発覚後であったことも、八田氏に味方しました。
検事が作成する調書は、「私は~」という形式で作成されます。ところが、彼らが不審に感じていると強調したい部分だけは問答形式にするという、裁判官に対する符牒があるそうです。八田氏は取り調べ初日から、それをやめてくれと強く要求しました。相当時間激しく押し問答をした後、検事は、それ以降全ての調書を逐語的に問答形式で取ることになったのです。

これでも、取り調べを受ける被疑者側が、検事と比較して圧倒的に不利な状況であることにかわりありません。八田氏はさらに、立場をイーブンに持って行くためのさまざまな工夫を凝らしました。
検事の質問に対して「全く分からない」と答えると検事のつけいるすきを作るので、一旦、敢えて「ほとんど分からない」というあいまいな回答をし、検事がそのあいまいな範囲を特定しようとしたら「その範囲が特定できないため、むしろ全く分からなかったという方が適当だと思います」と切り返すのです。
検事から「AかBか」と二者択一を求められたときには「どちらでもなかった」と答えます。
八田氏は、問答形式という特殊な形式で調書が取られることのメリットを最大限利用しようと知恵を絞り、取り調べを戦い抜きました。

八田氏がツイッターをはじめたのは2010年4月、ブログはしていませんでした。
検察の取り調べは19回にわたりました。18回目の取り調べの際に検事の態度が大きく変化したことから、これは彼の手を離れたなと感じ、起訴を覚悟しました。そしてそれまでの経過報告を全てブログに転載して一般公開に踏み決ります。

著書の第3章「外資系証券マンとしてのキャリア」は、八田氏の職業人としての足跡を記録したものです。これだけでも、一人の外資系証券マンのサクセスストーリーとしておもしろい内容でした。

地裁は、第11回公判で無罪が言い渡されました。
判決理由が述べられた後の、佐藤弘規裁判長の説諭
「今回のことで時間が過ぎ、大切なものをなくしてきたと思います。それを取り戻すのは難しいと思いますが、家族やいろんな人が残ってくれましたね。そういった人のために前を向いて、残りの人生を、一回しかない人生を、しっかり歩んでほしいと思います。私も・・・私も初心を忘れずに歩んでいきます」

控訴審が開かれ、第2回公判で控訴棄却が言い渡されました。
判決文の一部
「本件は検察官において多数の間接事実の積み重ねによって被告人のほ脱の故意を立証しようとするものであるが、この場合積極方向の事情のみならず、消極方向の事情も踏まえて総合判断をすべきは当然のことである。
被告人は、所得証明に対する虚偽の書類を作成したり、預金口座や財産等を隠匿したり、当時の勤務先の担当者に何らかの働きかけをするなどの積極的な所得秘匿工作を行った形跡は窺われない。
本件では多数の間接事実から被告人にはほ脱の故意が推認できるか否かが争点なのであり、上記のように所得秘匿工作を全く行っておらず、いったん税務当局が調査に入れば多額の脱税の事実が直ちに判明する状況にあったことは、ほ脱の故意を推認するに当たり消極方向に働く事情であることは留意すべき点である。」
門田正紀裁判長の説諭
「刑事手続きが決着したら、前の仕事には戻れないようだが、あなたは能力に恵まれているし、再スタートを切ってほしい。裁判所も迅速な審理に努力したが、難しい事件でもあり、証拠は1万ページにのぼり、双方の主張を十分聞いたために、一審で1年3ヶ月、控訴審で9ヶ月かかってしまった。もっと早くと、被告人の立場からは思うだろう。これは、裁判所の課題です。」

検察控訴棄却の報道に、検察幹部の「遺憾である」とのコメントが付されました。八田氏は「検察よ、遺憾というのなら上告せよ」とブログで上告を促しました。しかし、検察は上告を断念したのです。

八田氏は、えん罪の原因究明を目的として、国家賠償請求訴訟をはじめています。2014年3月、国賠審の戦いは端緒についたばかりです。
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