ノモンハン事件については、半藤一利著「ノモンハンの夏」を以前読んで、これが決定版かなと思っていました。最近、シーシキンとシーモノフが書いた「ノモンハンの戦い」を読み、さらに理解が深まったように思います。やはり戦闘を行った両国の著書を読み比べることによってはじめて理解が深まるようです。
1939年当時、満州国とモンゴル人民共和国の国境線の一部は、ハルハ川に沿っており、さらにその一部において、満州国側はハルハ川が国境と主張し、モンゴル側はハルハ川から20~30km東のノモンハン付近が国境であると主張する国境紛争地域がありました。このハルハ川東岸の国境紛争地域において、1939年夏に日・満軍とソ・モ軍との間で行われた戦闘がノモンハン事件です。
戦闘は以下のような経過です。
5月10日~31日、ハルハ川東岸地域での両軍の小競り合いの後、ソ・モ軍の退路を断とうとしてハルハ川東岸沿いに南下した東中佐指揮捜索隊(大隊規模)が壊滅的打撃を受ける。
6月27日~7月13日、日本軍(複数連隊規模)がハルハ川を渡河してハルハ川西岸台地のソ連砲兵陣地を攻撃しようとするが、撃退される。
7月23~24日、日本軍砲兵兵力で攻めようとして不成功に終わる。その後、ハルハ川東岸に日本軍陣地を構築する。
8月20日~31日、ソ連軍が圧倒的兵力でハルハ川をわたり、東岸の日本軍陣地を包囲攻撃し、日本軍(師団規模)はほぼ殲滅する。ソ連軍は彼らが主張する国境線で進軍を止める。その後、日本とソ連との間に停戦協定が結ばれる。
従来、ソ連の高性能戦車に対して日本の戦車は劣悪であり、ただただソ連にやられたのみ、と受け取っていました。確かに戦車の性能格差はあったのですが、実態はソ連側の被害も甚大でした。日本軍兵士が最後まで抵抗を止めず、塹壕のひとつひとつを掃蕩していかなければならず、ソ連側に多くの死傷者を出したようです。当時スターリンは「日本軍を壊滅せよ」との命令を出していたので、損害を顧みず、攻撃せざるを得なかったのでしょう。
日本側の戦没者は一説によると18000人です。一方ソ連側も、戦死と行方不明合わせて8000人に上るようです。
書籍「ノモンハンの戦い」は、前半がシーシキン著の戦闘記録、後半がシーモノフ著の従軍戦記です。
半藤著「ノモンハンの夏」は地図が少なく、それがために理解があやふやだったと思います。それに対し、シーシキンの戦闘記録は、各戦闘場面毎に地図が掲載されているので、経過を詳しく理解することができます。
1939年6月27日、関東軍はハルハ川西側深くに大規模な空襲を行い、ソ連航空部隊に相当の被害を与えたようです。この空襲は、日本軍中央の制止を無視して関東軍が独断で行ったものです。しかしシーシキンの著書にこの空襲は登場しません。沈黙していること自体が、ソ連軍の被害甚大を物語っています。
7月3日からの日本軍ハルハ川渡河作戦は、最初奇襲に成功します。渡河を察知したソ連軍は、歩兵の援護をつけないままで戦車隊を急派します。ソ連軍戦車(ガソリン使用)は日本の歩兵が投げる火炎瓶で次々に炎上し、100台近くのソ連軍戦車が破壊されたようですが、この点についてもシーシキンは被害の実態を描写していません。
一方、8月のソ連軍大攻勢については、その準備から戦闘詳細に至るまで、シーシキンは克明に描写しています。
後半は、作家で詩人のシーモノフが書いた「ハルハ川の回想」です。従軍作家として、8月の後半に派遣され、8月戦闘の最終場面に従軍しました。それから停戦後の捕虜交換までについて、実際の見聞を記載したのがこの文章です。私としてはむしろこちらの従軍記の方が臨場感があり、強く印象に残りました。
戦場近くの夕刻に、負傷兵たちが通り過ぎていきます。一人の曹長が負傷して後退していきますが、その曹長は中隊指揮官だったのです。「(それより上の)中隊指揮官は全部死んじゃったよ」ということでした。ソ連軍側の損害がひどかったことがうかがわれます。
捕虜交換の現場。日本軍に捕らえられたソ連兵捕虜は、みな痩せこけており、焼けこげた軍服を着た兵もいました。一方、ソ連軍に捕らえられた日本兵捕虜は全員重傷で、みなアイロンを効かせた新しい軍服を着ています。日本兵捕虜を受け取った後、彼らの世話をする日本の衛生兵は、仲間である負傷兵に対してわざと乱暴にふるまいます。シーモノフは、上官の目にそう映るようにふるまわなければならないのだろうと推測します。
半藤著「ノモンハンの夏」によると、捕虜交換で戻ってきた日本兵捕虜のうち将校は、拳銃を与えられて自決を強要されたということです。
今回「ノモンハンの戦い」を読んだ後、「ノモンハンの夏」をもう一度読み返しました。いろいろ印象を新たにしたこともあるのですが、ここは「ノモンハンの戦い」の紹介として書いているのでこれ以上の感想は差し控えます。
ひとつだけ、ソ連軍司令官ジューコフがスターリンに対して「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と答えたという点を記しておきます。なおジューコフは、後の独ソ戦でソ連側の中心となる軍人です。
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1939年当時、満州国とモンゴル人民共和国の国境線の一部は、ハルハ川に沿っており、さらにその一部において、満州国側はハルハ川が国境と主張し、モンゴル側はハルハ川から20~30km東のノモンハン付近が国境であると主張する国境紛争地域がありました。このハルハ川東岸の国境紛争地域において、1939年夏に日・満軍とソ・モ軍との間で行われた戦闘がノモンハン事件です。
戦闘は以下のような経過です。
5月10日~31日、ハルハ川東岸地域での両軍の小競り合いの後、ソ・モ軍の退路を断とうとしてハルハ川東岸沿いに南下した東中佐指揮捜索隊(大隊規模)が壊滅的打撃を受ける。
6月27日~7月13日、日本軍(複数連隊規模)がハルハ川を渡河してハルハ川西岸台地のソ連砲兵陣地を攻撃しようとするが、撃退される。
7月23~24日、日本軍砲兵兵力で攻めようとして不成功に終わる。その後、ハルハ川東岸に日本軍陣地を構築する。
8月20日~31日、ソ連軍が圧倒的兵力でハルハ川をわたり、東岸の日本軍陣地を包囲攻撃し、日本軍(師団規模)はほぼ殲滅する。ソ連軍は彼らが主張する国境線で進軍を止める。その後、日本とソ連との間に停戦協定が結ばれる。
従来、ソ連の高性能戦車に対して日本の戦車は劣悪であり、ただただソ連にやられたのみ、と受け取っていました。確かに戦車の性能格差はあったのですが、実態はソ連側の被害も甚大でした。日本軍兵士が最後まで抵抗を止めず、塹壕のひとつひとつを掃蕩していかなければならず、ソ連側に多くの死傷者を出したようです。当時スターリンは「日本軍を壊滅せよ」との命令を出していたので、損害を顧みず、攻撃せざるを得なかったのでしょう。
日本側の戦没者は一説によると18000人です。一方ソ連側も、戦死と行方不明合わせて8000人に上るようです。
書籍「ノモンハンの戦い」は、前半がシーシキン著の戦闘記録、後半がシーモノフ著の従軍戦記です。
半藤著「ノモンハンの夏」は地図が少なく、それがために理解があやふやだったと思います。それに対し、シーシキンの戦闘記録は、各戦闘場面毎に地図が掲載されているので、経過を詳しく理解することができます。
1939年6月27日、関東軍はハルハ川西側深くに大規模な空襲を行い、ソ連航空部隊に相当の被害を与えたようです。この空襲は、日本軍中央の制止を無視して関東軍が独断で行ったものです。しかしシーシキンの著書にこの空襲は登場しません。沈黙していること自体が、ソ連軍の被害甚大を物語っています。
7月3日からの日本軍ハルハ川渡河作戦は、最初奇襲に成功します。渡河を察知したソ連軍は、歩兵の援護をつけないままで戦車隊を急派します。ソ連軍戦車(ガソリン使用)は日本の歩兵が投げる火炎瓶で次々に炎上し、100台近くのソ連軍戦車が破壊されたようですが、この点についてもシーシキンは被害の実態を描写していません。
一方、8月のソ連軍大攻勢については、その準備から戦闘詳細に至るまで、シーシキンは克明に描写しています。
後半は、作家で詩人のシーモノフが書いた「ハルハ川の回想」です。従軍作家として、8月の後半に派遣され、8月戦闘の最終場面に従軍しました。それから停戦後の捕虜交換までについて、実際の見聞を記載したのがこの文章です。私としてはむしろこちらの従軍記の方が臨場感があり、強く印象に残りました。
戦場近くの夕刻に、負傷兵たちが通り過ぎていきます。一人の曹長が負傷して後退していきますが、その曹長は中隊指揮官だったのです。「(それより上の)中隊指揮官は全部死んじゃったよ」ということでした。ソ連軍側の損害がひどかったことがうかがわれます。
捕虜交換の現場。日本軍に捕らえられたソ連兵捕虜は、みな痩せこけており、焼けこげた軍服を着た兵もいました。一方、ソ連軍に捕らえられた日本兵捕虜は全員重傷で、みなアイロンを効かせた新しい軍服を着ています。日本兵捕虜を受け取った後、彼らの世話をする日本の衛生兵は、仲間である負傷兵に対してわざと乱暴にふるまいます。シーモノフは、上官の目にそう映るようにふるまわなければならないのだろうと推測します。
半藤著「ノモンハンの夏」によると、捕虜交換で戻ってきた日本兵捕虜のうち将校は、拳銃を与えられて自決を強要されたということです。
今回「ノモンハンの戦い」を読んだ後、「ノモンハンの夏」をもう一度読み返しました。いろいろ印象を新たにしたこともあるのですが、ここは「ノモンハンの戦い」の紹介として書いているのでこれ以上の感想は差し控えます。
ひとつだけ、ソ連軍司令官ジューコフがスターリンに対して「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と答えたという点を記しておきます。なおジューコフは、後の独ソ戦でソ連側の中心となる軍人です。
本で読む限り、ノモンハン事件というのは苛烈な戦場であったように思います。停戦後の、兵隊さんに対する軍の扱いも問題があったかもしれません。
その戦闘に参加され、人にも家族にも言えない思いをずっと抱かれていたということでしょうか。
ご冥福をお祈りいたします。
笑顔のその遺影を私は見ている 恐らく この事実を家族の誰一人、知ることは無いだろう。
私は考える 何故 彼は語らなかったのかと
7月3日のハルハ河の奇襲、祖父もその場にいたようです。
私は無知でノモンハン事件のこと、よくわかりませんが、
コチラのブログを読んで勉強になりました。
TBさせてください。
おっしゃるように、半藤さんの「ノモンハンの夏」は、関東軍の参謀と市ヶ谷の参謀本部に焦点を当てた構成になっていましたね。著書の中で、「ひとつひとつの戦闘を詳細に描くのが本書の目的ではない」と断られていたように思います。
その点を補足する書籍として、またソ連側の取材で書かれた書籍として、シーシキンらの「ノモンハンの戦い」は役に立つと思います。
ところで、当方からタツさんのブログへのトラックバックが、2本立ってしまいました。「うまくトラックバックできていない」と思ってやり直したのがいけなかったようです。済みませんが1個は消してください。
リンクの件ですが、私のブログではまだどこにもリンクを張っていないのですよね。リンクをどうするか今後考えますので、当面は相互リンクはご容赦ください。タツさんからリンクを張っていただく分には喜んでお願いします。
半藤さんの指摘は、上層部の無責任体制は今も残っているという事だったと思います。
もう、忘れられつつありますが、雪印や三菱ふそうは同じ類の原因で、会社が傾きましたね。
もし、よければ相互リンクを張りませんか?