弁理士の日々

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私の履歴書・矢野龍さん

2022-07-01 21:41:31 | Weblog
日経新聞の「私の履歴書」はいつも楽しみにしています。ただし、大企業でサラリーマン社長・会長を歴任した人のお話については、普通はさほど印象に残らないものです。しかし、この6月に連載している、住友林業の社長・会長を歴任して現在は最高顧問を勤めておられる、矢野龍さんについては、普通のラサリーマン社長経歴の人とは異なる、おもしろいお話しでした。
私の履歴書・矢野龍
『住友林業で社長、会長を歴任し、最高顧問を務める矢野龍さんは1940年、旧満州(現中国東北部)で生まれました。敗戦で山口県に引き揚げ、自由気ままに育った自然児で、高校も大学の入試も合格点すれすれだったといいます。縁あって公立の北九州大学外国語学部に入学し、実用英語を学んだことで住友林業が初めて募集した海外駐在員枠で採用されました。入社4年目、矢野さんは米シアトルの駐在員として北米大陸の森林地帯をヘリに乗り、水を得た魚のように飛び回ります。もっとも米国住友林業の責任者として2度目のシアトル駐在時には、現地で訴訟の当事者となり、辛酸をなめる経験もしました。大企業の経営者としては異色の道を歩み、人間味あふれる矢野さんが住友林業の未来までをつづった読みどころ十分の連載です。』

矢野さん一家は、終戦を満州で迎えました。お父上はシベリアへ抑留されて結局は現地で病死されました。矢野さんは当時5歳、姉と妹の3人きょうだいでした。
『1945年に日本が戦争に負け、僕たち家族の生活は暗転した。ソ連兵がなだれ込んできて略奪や暴行におびえるようになった。家のカギなど関係なくこじ開けて入って来るからと、母や姉は、物音がしたら裏口から鶏小屋のほうに逃げる練習をした。
手伝いの中国人につらく当たっていた家では、日本人が仕返しをされたという話を聞いた。ソ連兵は僕や妹ら、小さい子供には優しかった記憶があるが、母や当時8歳の姉は、男に見えるように丸坊主にしていた。』
引き揚げ船に乗って博多港にたどりつくと、まずは父の故郷である愛媛県の宇和島に親戚を頼っていきました。しかしそこも貧窮した暮らしです。次は、母親の東京の実家の疎開先だった山口県の厚保(あつ)に、弟を頼って移りました。
母は役場の事務員の仕事を得て、最終的には小川の横にある水車小屋に住むことになりました。(第3回
お母さんはその後、学校の先生、そして小学校の分校の校長先生になりました。実家の貧乏生活はずっと続き、矢野さんは大学に行かせてもらえましたが、お姉さんは優秀だったのに行かせてもらえませんでした。

矢野さんは、小倉市立の北九州大学外国語学部に進みました。実用英語を体当たりで学ぶとともに、しっかり者の奥様とも出会うことになりました。

北九州大学の厚生課に住友林業から求人票が来ました。「海外駐在員枠」という特別の枠だといいます。厚生課の人が「よく分からないけど、せっかく住友グループの会社から求人が来たのだから、おまえ受けろ」と言われて受けたのだそうです。

『3年の勉強期間はあっという間に過ぎ、1966年から米シアトルでの駐在員生活が始まった。近くにエバレットやオリンピアという積み出し港がある西海岸の木材貿易の拠点だ。住友林業の米材輸入の開拓期。すべてを一から始める仕事だった。
26歳だった僕は水を得た魚のようにあちこちを飛び回った。森林の買い付けのためヘリコプターに乗って文字通り飛び回るのだ。』(第11回

この後矢野さんは、アメリカの仕事で大成功をおさめ、日本に帰り、3代目社長の山崎完(ひろし)さんの海外出張の通訳としてしごかれました。
さらにその後、『僕が専務時代の1998年、住宅の業界誌に販売が低迷を続ける住友林業の体たらくを手ひどく批判されたことがあった。僕は担当外だったがこれを読んで怒りに体が震えるようであった。業界の「負け犬」呼ばわりなのだ。
僕は業界誌を3月の取締役会に持っていって「こんなことを書かれて悔しくないんですか。低迷の理由として1番目に、リーダーシップ不足と書いてある。』
「それならおまえやれ」ということで、住宅本部長を拝命しまた。住友林業の住宅部門は、おそらくこのときに大躍進を遂げたのだと思います。(第20回

そして、社長、会長と歴任することとなりました。

さて、本日のメインテーマです。(第28回
『2月からピアノを習い始めた。音楽家の小椋佳さんとひょんなことからご縁があり、小椋さんを紹介してくれたヤマハの岸田勝彦さん(元会長)と3人で、2年後にピアノの発表会を開く約束をしているからだ。
週に2回、30分のレッスンを受け、家でもたまに練習する。ショパンを弾きたいと言ったら無理だと言われたので曲目を絞った弾き語りに切りかえ、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」、ブラザーズフォーの「グリーンフィールズ」、あと「ダニー・ボーイ」の3曲をマスターするのが目標だ。手始めに今は「四季の歌」を練習している。
1小節ずつ練習していくと、ゆっくりだが、だんだんできるようになる。82歳になっても進歩があるのは、まだ生命の力が健在であるようで励まされることだ。』

私もピアノのレッスンをしていますが、始めたのは2010年、62歳のときです。それも、小学校時代にバイエルの途中まで弾けた、という経験もあります。何の経験もなく、82歳でレッスンを始めたというのは驚きです。
私は、レッスンは2,3週間に1回で、そのほかに自宅で毎日20~30分程度の練習をしています。矢野さんは、週に2回のレッスンでピアノを弾き、それ以外にはほとんど練習していないのですね。それでも進歩があるということで、とても立派です。

矢野さんはショパンをご希望とのことでした。私が現在練習しているのは、はじめてのショパンです。ショパンのピアノ曲というと、とても速いピアノタッチの曲を連想します。練習しているのは「ラルゴ変ホ長調『神よ、ポーランドをお守りください』」という曲で、私でもなんとかなりそうな曲です。『もともとポーランド人でさえほとんど知らないと言われた曲ですが、2021年のショパン国際ピアノコンクールの3次予選で反田恭平氏が演奏したことから一躍有名になり、脚光を浴びています。』ということだそうです。

『料理学校にも通いたい。僕は料理が好きで「生きることは食べること、食べることは生きること」が信条だ。家でもしゃぶしゃぶなどを作ったりするのだが、妻も娘も、僕が作ったのがあるのに外に食べに行く。上手になったら食べてくれるだろうか。』

つい先日、料理の上手下手問題/井上荒野さん 2022-06-27を記事にしたばかりです。
矢野さんは料理がお好きだとのことで、私の味オンチの反対で、味の善し悪しが分かる舌をお持ちと思います。「上手になったら」とおっしゃいますが、料理が下手である理由が思いつきません。ご家族が食べてくれないのは、「上手/下手」「おいしい/不味い」以外の別の理由があるのではないでしょうか。
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