弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

根津~日暮里界隈坂めぐり

2023-11-30 17:32:13 | Weblog
以前、弁理士合格同期を中心とした弁理士仲間による、判例研究会に参加していました。月に1回程度、土曜日に開催していたのですが、メンバーの高齢化もあり、判例研究会は休会となっていました。
今般、そのメンバーからお誘いをいただき、根津-谷中-日暮里-根津の界隈を散策する機会がありました。集合場所は地下鉄南北線の東大前駅で、以下のようなコースです。
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東大前駅から本郷通りを南進し、左折して言問通りに入る。弥生坂下り、善光寺坂上りを経て谷中の墓所に至る。
谷中墓所の北端で芋坂を下り、JRの跨線橋を渡った東側で羽二重団子の店で休息する。
芋坂に戻り、牧野富太郎の墓所を訪れ、JR日暮里駅西のもみじ坂を経由し、西進して御殿坂を上り、夕やけだんだんの坂を下って谷中銀座を経由する。
不忍通りに至ったら南進、次いで西進して団子坂を上り、藪下通りを南進、日本医大病院にいたったら西進して解剖坂を上り、近くの夏目漱石旧居跡に立ち寄り、根津裏門坂を下って根津神社を詣でる。
東大前駅で終了。
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次に、この地域の地形について概説します。
大きく見ると、京浜東北線の東側が荒川の平野、西側が武蔵野台地になっていて、京浜東北線と平行して崖(河岸段丘)になっています。ここでは「武蔵野段丘」と名付けます。
武蔵野台地は台地ですから、川が流れるとそこは削れて谷筋になります。この地域ですと、不忍通りが北から南に向かう谷筋になります。この谷の最上流は王子を流れる石神井川で、大昔は石神井川が王子で直角に曲がって不忍通りの川になっていました。この谷の下流に不忍池があり、さらに南の神田川に至ります。
不忍通りを昔流れていたはずの川の名前がわかりません。私は勝手に、この谷の最上流の地名である「滝野川」と呼んでいます。
京浜東北線(河岸段丘)と不忍通り(谷筋)との間は台地になっています。上野の近くは「上野山」と呼ばれています。ここ谷中の付近も、とりあえず「上野山」と称することとします。
不忍通り(谷筋)の西側も台地です。同じ台地続きの南は「本郷台」と呼ばれているので、この付近も「本郷台」と称することとします。
このような崖や谷筋が走っているため、そこを横切る道が坂になり、即ち“台地には坂が多い”ということになります。

さて、東大前駅から本郷通りを南進し、左折して言問通りに入ります。言問通りは不忍通りと交差します。上で述べたように、不忍通りは本郷台から下る谷筋ですから、言問通りは不忍通りに向かってまず下ります。その坂が「弥生坂地図)」です。そして不忍通りを通過するとその先は上野山の上りとなり、その坂が「善光寺坂地図)」です。


さて、谷中霊園に到着しました。

谷中霊園


谷中霊園案内板


徳川慶喜墓所


徳川慶喜墓所の近くに以下の墓地がありました。
伯爵 勝 精、室 伊代子 墓所

調べて見たら以下のことが分かりました。
勝精は徳川慶喜の息子、伊代子は勝海舟の孫であり、精が伊代子の婿養子となって勝姓を名乗るようになった、とのことです。海舟の息子、伊代子の父が早世したため、勝伯爵家を存続させるためにそのような縁組みがなされた、とあります。海舟が亡くなる直前に縁組みされ、結婚の時、精も伊代子も11歳だったようです。

渋沢栄一墓所前のタブノキ


タブノキの移植説明


渋沢栄一墓所


谷中霊園には南の端から入り、ほぼ北の端の芋坂に至りました。芋坂地図)は東方向に下りで、私が名付けた武蔵野段丘を下っていることになります。


芋坂を下ってJRの跨線橋に至りました。


跨線橋からJRの線路に沿って南東方向を眺めると、下の写真のように、右側の崖が武蔵野段丘の崖で、その崖の左(荒川平野)がJRの線路、そして彼方にスカイツリーが見えます。


芋坂跨線橋を東で降りたところに、羽二重団子の店があります。下の写真は、店の角に立てられた石碑です。

店の前の通りは王子街道なのでしょうか。

羽二重団子説明

「文政2年 小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し 街道の往来の人々に団子を供しておりました」
「こゝ音無川のほとり」とあります。私は、「音無川」とは、王子の近くを西から東に流れる石神井川の別名と思っていました。それが間違いであることが今回分かりました。
音無川とは、石神井用水の別名で、王子の近くで石神井川から南に分水した用水の名前なのでした。ウィキには「石神井用水は、石神井川の水を王子神社と南の飛鳥山の間でせき止め(王子石堰)東へ流した用水。別名王子川、音無川という。」「東京都北区王子から田端、西日暮里、日暮里の現在のJR線に沿って流れ、日暮里駅前から、荒川区と台東区の区界を形作っている。三ノ輪まできたところで流れがいくつかに分かれ、北東方向には石浜川として、南東方向の流れは思川として明治通りに沿い泪橋を抜け白鬚橋付近で隅田川に注ぎ、もう1つは日本堤沿いに山谷堀に通じた。」とあります。
現在は暗渠化され、音無川のせせらぎの音を聞くことはできません。

お店に入り、下記写真の団子をいただきました。
Attribution: 山岡 広幸

団子を食べ終わり、また芋坂を戻って、牧野富太郎墓所に詣でました。


そして北進し、日暮里駅の近くに至ると、もみじ坂地図)です。道路脇の説明では『坂道周辺の紅葉が美しかったので、「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。』と記されています。
もみじ坂を下り、日暮里駅の改札の前で西進すると、御殿坂地図)の上りです。武蔵野段丘の崖を上り、武蔵野台地(上野山)に至ることになります。
御殿坂途中から日暮里駅方向を見たのが下の写真です。


御殿坂を上ると、右手に経王寺の山門があります。


経王寺山門の門扉には、銃弾の痕が残っています(下写真)。

説明によると、「慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。」と記されています。寺が焼けなかったのは幸いでした。

何か、道が賑やかになってきました。道が下っています。この階段は、夕やけだんだん地図)と呼ばれているようです。
夕やけだんだんの上から

確かに、坂は西を向いているので、夕焼けどきには坂の上から夕焼けがきれいに見えることでしょう。われわれが訪れたときはすでに日が落ちていました。
道が下っているのは、上野山の台地から不忍通りの谷筋に降りていく経路だからです。

夕やけだんだんの下から


そしてその先が谷中銀座です。

大変な賑わいですが、外国の人が多いです。外国からの旅行者が、ここ谷中銀座に導かれているのですね。

谷中銀座を抜けると、不忍通りに至ります。不忍通り(谷筋)を南進し、団子坂に至ります。右折して団子坂地図)を上ります。本郷台の台地に至ることになります。

森鴎外記念館に立ち寄りました。



そして南進し、藪下通り地図)に入ります。

道の東側の坂の名前が「しろへび坂」でした。
しろへび坂地図




藪下通りは汐見坂地図)とも呼ばれているようです。
そして、右に日本医大病院が見えてきます。その手前、右手(西方向)に上る坂が解剖坂地図)です。
解剖坂 下から


解剖坂 上から


解剖坂を上がった右手に、夏目漱石旧居跡があります。

猫が2匹見えます。

南進し、次いで根津裏門坂地図)を東進して下ります。右手が根津神社の裏門です。
この頃になると、あたりはすっかり暗くなりました。ライトアップされている建物の写真だけ撮ってきました。
根津神社 乙女稲荷神社


根津神社 舞殿


根津神社 楼門


こうして、上野の北に広がる地域について、坂めぐり、お墓めぐりの旅が終わりました。
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