弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

私の履歴書・浮川和宣氏(2)

2022-04-18 17:58:02 | Weblog
前号に引き続き、「私の履歴書・浮川和宣氏」の第2回です。

和宣さんが会社を辞め、初子さんとともに徳島の初子さんの実家を本社として会社(ジャストシステム)を設立しました。
徳島でオフコンの営業を始めましたが、1台も売れない日々が半年も続きました。半年経った頃、吉成種苗という地元の会社にオフコンが売れました。
『正式に契約してもらった日のことは生涯忘れない。ジャストシステムのオフィス、つまり初子の実家に戻り台所の扉を開けると彼女の祖母・義子さんがいた。
「注文もらいましたよ。売れました!」
開口一番、そう言いながら涙が流れる。おばあちゃんも涙が止まらなかった。初受注に成功したことを知った初子も泣き出してしまった。』
受注第2号は、初子さんの母・陽子さんの俳句の会で、俳句仲間のご主人が建設会社を経営しており、そこから契約となりました。
『私が売り、プログラマーの初子がお客様の要望を取り入れたオーダーメードのシステムを作り上げていく。その後も代わらぬ夫婦の役割分担が、徐々にではあるが回り始めたのだった。』((12)オフコン)

オフコンの仕事は回り始めてはいましたが、限界も感じ始めていました。一方、80年代に入るとコンピューターを取り巻く環境が大きく変わり始めていました。
NECの8ビットパソコンPC-8001が発売されたのが79年です。
和宣さんは早くからパソコンを入手してBASICというプログラミング言語で簡単なゲームを作ったりしていました。いずれ「1人に1台」の時代になったとき、パソコンには何が一番求められるだろうか。
当時、コンピューターへの漢字入力は、各漢字の4桁JISコードを入力することにより行っていました。79年には東芝が日本初のワープロ「JW-10」を発売しましたが、価格と大きさはオフコン並みでした。
『私はだれもが簡単にパソコンで文章が作れるような日本語ワープロを作りたいと考えるようになった。そうすれば日本人の知的生産性を飛躍的に高められるはずだ。
思うようにオフコンが売れない中で、私はひとり、そんな考えを巡らせるようになっていた。』((13)パソコン登場)

『初子は前職でオフコンのOS開発に参加していたこともあり「日本語の入力をOSのレベルで組み込めないか」と構想していた。』
徳島市で工業展示会が開かれ、そこに取引関係があったロジック・システムズ・インターナショナルの営業部長が視察に来ていました。和宣さんはその部長に、日本語のかな漢字変換ソフトの必要性を説きました。営業部長は「東京に来てうちのエンジニアに説明してもらえませんか」と言います。東京では技術を預かる初子さんが説明しました。徳島に帰ってから、その営業部長から電話がかかりました。
『ご説明いただいたソフトですが、うちのエンジニアは「あの人たちでできるんじゃないか」と言うんですよ。』
和宣さんが隣の初子さんに聞くと、初子さんの答えは「できるよ」と、明確にして簡潔なものでした。
『こうしてオフコンの販売代理店だった我々ジャストシステムは日本語ワープロソフトの開発を始めた。初子が構想した「OSレベルで日本語を入力する方式」を提供する会社へと変貌を遂げたのだ。
初子にOS開発の経験があり、パソコン向け汎用OSが出始めた時期に呼応した日本語入力の構想。そこにハードメーカーとの接点を得た。千載一遇のチャンスである。1982年夏のことだ。』((14)かな漢字変換)(写真は手書きで作った当時の企画書)

(私自身の感想その他について、《 》でくくって表示します。)
《いよいよ、初子さんのプログラマーとしての活躍が始まりました。》
《初子さんの高千穂バローズでの経験は、新入社員としてせいぜい数年の経験です。その程度の経験を糧として、前人未踏の分野を開拓していくわけですから、初子さんの才能はやはり人並み外れています。》

こうして生まれた「OSレベルでの日本語入力」をデータショーで発表すると反響を呼びました。
その頃、ジャストシステムはオフコンの販売だけでなく、プログラミング言語として「マイクロソフトBASICコンパイラー」を使って、業務用ソフトの開発も行っていました。初子さんは、マイクロソフトに利用料を払わないといけないかも、と懸念し、東京のアスキーマイクロソフトに電話しました。
電話に出たのが、後の日本マイクロソフトの初代社長になる古川享さんでした。古川さんが関心を示したのは利用料ではなく、初子さんの開発でした。四国のとあるシステム代理店が日本語入力システムを開発した話が、古川さんの耳にも届いていました。初子さんは電話で「一度、うちにも遊びに来てくださいよ」と言われました。
その後東京のアスキーを訪問すると、古川さん不在で、入社4日目の成毛真さん(日本マイクロソフトの2代目社長)でした。
もう少し後のことですが、初子さんは成毛さんから貴重なヒントを得たことを覚えています。「もっとニュートラルな誰でも使える普通のワープロを作らないといけないんじゃないですか」
この回の写真には『日本語入力搭載の「NCR9005」を公開した』と説明されています。「NCR9005」というパソコンに搭載した機能として、初子さん開発の日本語入力機能が使われたのでしょうか。
その後、個別のパソコン搭載ではなく、ソフト別売りワープロソフトとして「一太郎」に発展していきます。その端緒となるヒントが、マイクロソフトの成毛さんから得られた、ということでしょうか。((15)展示会で発表

1983年、NECがジャストシステムのワープロソフトに興味を持ち、新開発のパソコン(PC-100)に搭載するワープロソフトを、3ヶ月という超特急で作成する業務を受けました。そのとき、徳島大学歯学部の学生でアルバイトとして働いていた福良伴昭さんが中心的役割を担いました。徹夜続きの作業で完成したのが「JS-WORD」です。搭載したパソコンがさほど売れなかったので、このソフトもそれほどのヒットとはなりませんでした。NECがすでに販売していた「PC-9801」の方が大ヒット商品になったためです。((16)ワープロソフト)

ジャストシステムが作成した「JS-WORD」は、アスキーのブランドで販売していました。
1985年、ジャストシステムは、日本IBMのパソコンに搭載する「jX-WORD」、NEC「PC-9801」対応の「jX-WORD太郎」、その後継の「一太郎」を次々と発売しました。((17)一太郎誕生)

「一太郎」は1年足らずで3万本を突破しました。ユーザーから受け入れられた理由は使い勝手の良さでした。
○仮名漢字自動変換での連文節変換
○同音異義語について、利用の頻度や文章からふさわしい漢字を自動で選択
○スペースキーでの入力
○これら日本語変換機能を「ATOK」に進化させ、他社のソフトでも使えるようにした。
今では当たり前のこれら機能は、1980年代半ばの当時は画期的であり、いずれもジャストシステムが構想したもので、商品として作り上げていったのが、初子さんが率いるエンジニアたちでした。
続けざまにバージョンアップを打ち出しました。そんな一太郎を販売面で支えてくれたのが日本ソフトバンク(当時)でした。((18)大ヒット)

(私の感想その他を《 》でくくって掲載しています。)
《一太郎とATOKの上記特徴は、ジャストシステムが開発した飛び抜けて優秀な機能です。これらの開発秘話が、プログラマーの立場で詳細に語られることを期待したのですが、残念ながら私の履歴書の記述は不十分でした。やはり、初子さんに直接話を伺わなければ本当のことはわからないようです。》

《1985年当時、「ワープロ」は、パソコン搭載のワープロソフトではなく、「ワープロ専用機」が主流でした。ワープロ専用機の値段もこなれてきて、1985年当時、私のような若手サラリーマンでもワープロ専用機が購入できる時代に入っていました。》
《私はこう考えました。100年前にアメリカでタイプライターが生まれて、英語の文章入力に革命が生じました。同じように1985年当時、日本語ワープロが生まれて、日本語の文章入力に革命が生じるのではないか。》
《いろいろ調べたところ、富士通のワープロ専用機「オアシス」が、独特のキー入力方式「親指シフト」を採用し、使いやすそうでした。オアシスにはさまざまな機種がある中、私は1985年、「OASYS LITE F」を購入しました。液晶で4行表示のノートタイプです。》
《1986年に、半導体用シリコンウェーハの製造会社に出向になりました。その職場では、ワープロとして親指シフトのオアシスが全面的に使われており、自宅での使用環境と一致しており、私には好都合でした。こうして、現在に至るまでの親指シフトとの付き合いが深まっていきました。》
《一太郎と、日本語変換ソフト「ATOK」です。私は一太郎を使わず、ATOKを使うようになったのも最近です。1985年当時、一太郎とATOKがどの程度斬新だったのかは知りません。しかし、あれだけの人気が出たのですから、とても使いやすかったのでしょう。このようなヒット商品を生み出す過程で、和宣さんと初子さんがどのように役割分担したのかが知りたかったのですが、私の履歴書ではそのあたりの詳しい説明はなされていませんでした。》

次々と打ち出す一太郎のバージョンアップにおいて、重視したのがお客さんの声でした。一太郎のパッケージの中に、意見用のはがきが同封されていました。
87年に発売したバージョン3は31万本の大ヒットとなり、「三太郎」の愛称で親しまれました。((19)うれしい悲鳴)

《私の職場には、PC-9801も何台か稼働していましたが、文章入力機器としてはオアシスに満足しており、「一太郎を使いたい」という要望は出ていなかったように記憶しています。》

1987年、自社ビルを建てることになりました。それでも足りそうもなく、隣に2号館が建ちました。
ジャストシステムは社員の半分は女性でした。理由は、優秀な人が多かったからです。本社の隣に託児所を作りました。
ジャストシステムは、会社が大きくなっても徳島から東京へは移転しませんでした。徳島なら関西や四国の優秀な人たちがどんどん集まってくれる。この効果は絶大でした。((20)本社建設


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