大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年04月03日 | 写詩・写歌・写俳

<1306> タンポポの咲く風景

      たんぽぽに 在来 外来 雑種あり 日本の現況 負へるがごとく

 タンポポは場所によって種を異にする地域性のよく現れる多年草で、日本列島でもその傾向が見られる。野原に生育するタンポポは、主にカントウタンポポ(アズマタンポポ)、カンサイタンポポ、トウカイタンポポ(ヒロハタンポポ)、エゾタンポポ、シロバナタンポポ。以上は在来種で、セイヨウタンポポとアカミタンポポは欧州原産の外来種である。最近ではこれに加え、在来と外来の雑種が増えているという報告されている。

                                  

 所謂、カントウタンポポは関東地方一帯に分布し、カンサイタンポポは関西地方を中心に西日本の一帯に見られ、トウカイタンポポは東海地方の太平洋岸を主な分布域にし、エゾタンポポは北海道を中心に中部地方以北の寒冷地に見られるという具合である。シロバナタンポポは関東地方以西に分布すると言われ、大和地方では花が黄色いタンポポと混在している。そして、これに繁殖力の強いセイヨウタンポポが全国的に見られ、結果、在来種を駆逐する勢いを持ち、雑種が増えていると言われる。

 この状況はタンポポだけに止まらず、川岸や野原の草花を調べてみればわかるが、外来種が極めて多いことがあげられる。これは私たち人間の活動範囲が広がりを見せ、交流のグローバル化によって影響された現象と言え、その仲立ちに私たちが絡んでいるということである。言わば、グローバルな交流は文化にも及ぶわけで、在来の文化と外来の文化の融合折衷の姿が草木においては雑種に現れるというふうにも考えられるのである。これは、取りも直さず、現在の日本の国の姿を映しているということになる。 写真は花弁の少ないカンサイタンポポ(左)と花弁の多いセイヨウタンポポ(右)。

 


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2015年04月02日 | 写詩・写歌・写俳

<1305> サクラ ( ソメイヨシノ ) 満開

      見渡せば 右も左も 桜かな

 大和ではこのところの暖かさで、桜前線のサクラで知られるソメイヨシノが満開になった。昨日と打って変って快晴の天気に満開のサクラは映えて花見をする人も見られた。明日より当分雨模様という予報なので、今日は花見に貴重な日かも知れない。ウイークデーだが、夜桜には多くの人出があるのではないかと思いながら満開の花にカメラを向けたことではあった。

                    

 サクラはバラ科の落葉高木で、春のこの時期に枝木いっぱいに五弁の離弁花を咲かせ、樹冠が花で被われる。普段は地味で目立たない木であるが、花を咲かせるこの時期の十日ほどはみごとな晴れ姿を披露する。不断目立たないだけに、花のアピールは効果的で、眺める者を魅せてやまない。

  で、サクラは日本の国花としてあげられているが、サクラ好きの日本人は全国津々浦々にサクラの植樹を行ない、いたるところに花見の名所を生み、町中の公園なんかでも、花が咲くこの時期になると、誰とはなしにぼんぼりなどを取り付けて花見をする様子がうかがえるほどである。

  とにかく、この時期には、右を向いても左を向いてもパッと咲いたサクラが目に入って来るという具合である。このようなサクラを見ていると、サクラは名実ともに国花たるにふさわしい花だということが思われて来る。 写真は馬見丘陵公園のサクラ(左)と三室山(斑鳩町)のサクラ。

 


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2015年04月01日 | 写詩・写歌・写俳

<1304> 気分と意識について

          詩作の要諦は自分の心と他者 ( 自分以外のすべてのもの ) と言葉の融合にある

       花に鳴く鶯 水に棲む蛙の声を聞けば  私たちは言葉を尽くしてこれを表さんとする

 周囲を垣の山並に囲まれた奈良盆地の平地部は大和平野で、昔はその域外に当たる山中(さんちゅう)に対し、この内側は国中(くんなか)と呼称された。この大和の国中は、国の発祥の地として奈良時代まで都が展開し、古い歴史と豊かな文化を育み、古墳をはじめ、名所や旧跡の多い土地柄である。今日はこうした国中の歴史や文化に関わる話ではなく、個人的なものではあるが、その大和平野の真ん中あたりに立って周囲を見渡したときの気分について話してみたいと思う。

 我が家は奈良盆地の北西部に位置し、周囲の山、殊に紀伊山地あたりの山によく出かける私には、奈良盆地の大和平野を縦横に行き来することが少なからず求められる。行き来は車によるが、行きは東か南に、帰りは北か西に向かうということになる。このときのごくありふれた大和の眺めにおける気分が眺める方角によって異なることに、最近、気づいたのであった。今日はこの眺める方角によって気分が微妙に異なることについて触れてみたいと思う。

              

 大和平野は盆地の底に当たるところで、周囲を山に囲まれているが、一様ではなく、最も標高の高い西の金剛山(一一二五メートル)から標高一〇〇メートルにも及ばないところまで見られるという具合である。高いのは東西の山塊で、北部と南部は低い地形的特徴がある。この大和平野の真ん中あたりに立つと東西に山並がはっきりと見られ、南北ではその山並が途切れて、あたかも雨水を受ける屋根の樋のような形になっているのに気づく。このため、平野の真ん中に立って周囲を見渡すと、眺める方角によって気分が微妙に異なって来るということが生じる。

 季節や天侯にもよるが、晴れ渡った日などはその眺めによる気分の異なりがはっきりと現れるところがある。晴れの日は北が順光で、南が逆光気味になり、それだけでも印象的な異なりがあり、気分にも影響して来ることになる。その上、北はずっと遠くまで平地が続いているように見えるので遥かな異国への旅を想起させるところがあって、ほかの方角の眺めにはない感覚と気分が湧いて来るといったふうになる。もちろん、これは私だけの感覚かも知れないが、大和平野の眺めにはそうしたところがある。

             

 東西の山並については、大気の澄んだ日の方が、そうでない日よりも近くに見える。盆地のためか、大和平野はよく霞む現象が起きるが、霞むと周囲の青垣の山並は全く見えなくなり、これも大和国中の特徴としてあることが言えそうである。この四方の眺めの方角によって気分の異なりが生じるのは、寝床に入って思索に耽ったりしているとき、寝返りを打った途端にその集中する気分が途切れてしまい、思索が出来なくなるというのと似ているようにも思える。

 これは頭が動くことによって起きる現象で、脳の問題ではないかというふうにも思われるが、方角によって感じ方の異なりが生じるのも脳の問題かも知れない。これについては、眺める対象が微妙に異なるからとも言えるが、脳の作用による意識が思われる。また、痛いとか痒いとかが、一律でなく、身体の部位によって微妙に異なることにもヒントがありそうな気がする。とにかく、大和国中の方角によって意識される眺めに気分的差異が生じることが思われる次第である。 写真は上段が大和国中から見た大和平野の南北の眺め、下段は東西の眺め。(すべて同時刻に写す)。