大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年04月07日 | 写詩・写歌・写俳

<1310> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (100)

       [碑文]  吉野山 こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ                        西  行

 この歌碑は吉野山の中千本から上千本へ向う登り口のところに位置する竹林院の群芳園前庭に昭和二十二年(一九四七年)建てられたものである。群芳園は千利休作、細川幽齋改修による回遊式庭園で、大和三庭園の一つにあげられている名園である。

   竹林院は、その縁起によると、聖徳太子が開いたお寺で、椿山寺と呼ばれ、その後、弘仁年間(八一〇年から八二四年)に空海が入り、常泉寺と称した。これを南北朝時代に後小松天皇の勅によって竹林院と改め、明治初年の神仏分離令によって廃寺になったが、戦後、修験道系の宿坊を有する一寺院として再興し、現在に至っている。

  この西行の歌碑については、「西行法師笈を留む記念」と竹林院縁起の案内板に見えるように、西行がこの寺に宿を借りたことによるということなのだろう。では、碑文の歌について見てみたいが、その前に西行の生涯をまずは辿っておきたいと思う

       

  西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)という。義清は元永元年(一一一八年)武士の家柄(父は康清)に生まれ、徳大寺実能の随身となり、鳥羽院の北面の武士として兵衛尉にまで昇進したが、突然、家も妻子も捨てて、保延六年(一一四〇年)二十三歳の若さで出家した。法名は円位、西行とも号し、隠遁生活に入った。最初の五、六年は京洛に庵居していたが、三十歳前後で、高野山に移り、真言僧としての修業生活を始めた。その後、五十歳のとき西国行脚に出て、四国を旅し、九州まで足を延ばしたとも言われる。

  当時は武家が台頭し、源平が競う時代で、福原遷都があり、頼朝が伊豆に挙兵した激動の始まりを告げる年になった治承四年(一一八〇年)、西行は六十三歳にして熊野から伊勢に赴き、二見の辺りに住まいした。それからも旅を行ない、文治二年(一一八六年)、六十九歳にして東大寺再興の沙金勧進の目的で奥州平泉への行脚を行なった。

  これ以外にも、熊野詣では四季を問わず何回も試み、『古今著聞集』が「大峰二度の行者なり」と西行について触れているように、大峰山脈の尾根筋を辿る奥駈の修験道の行場の峻嶮な道なき道を行き来してもいる。そして、建久元年(一一九〇年)二月十六日(現在の四月はじめ)、 「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」 と願った通り、河内国の弘川寺において七十三歳の隠遁、漂泊の生涯を閉じた。

  西行はその隠遁、漂泊にあって歌を生きがいに生涯を遂げたが、その歌の中でも花と月に触れて詠むことが多く、花月の歌人として知られ、大峰奥駈の深仙の宿で詠んだ月に寄せた歌には 「深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなきわが身ならまし」 とある。花ではサクラをこよなく愛し、 「仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば」という歌を残してこの世を去ったのであった。

  殊に吉野山のサクラに魅せられたことは碑文の歌でわかるが、ほかにも、 「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にも添はずなりにき」 と詠み、 「谷の間も峰のつづきも吉野やま花ゆゑ踏まぬいはねあらじを」 と詠むなどサクラの花を求めて吉野山を巡り歩いた様子がうかがえる。

  吉野山は大峰山脈の北端に当たり、吉野川左岸に始まる吉野から熊野に及ぶ大峰(大峯)奥駈の峰入りの北の出発点に当たるところである。修験道の祖役小角(えんのおづぬ)がヤマザクラに蔵王権現の尊像を彫って祀ったことを契機に、ヤマザクラは神木化され、その後、吉野山は信者の寄進によってヤマザクラが増え、西行の時代には天下に知られるサクラの名所になっていた。

   西行がこの吉野山のヤマザクラに触れて魅せられたのはいつのことであったか。初期の「花十首」で既に吉野のサクラを詠んでいるが、これは「大峰二度の行者なり」に関わりがあるのではないかという。初度の大峰は出家前で、そのとき既に吉野山の実際のサクラに出会っていたかも知れない。

  碑文の歌から推察するに、「昨年枝を折って目印にした道を変えてまだ見たことのない方の花を訪ねよう」ということなので、西行には最低でもニ年に渡って吉野山のサクラを訪ねていることになる。その時期については、高野山を拠点にしていた三十五、六歳ころのことではないかと言われる。

  吉野山の最上部、奥千本に位置する金峯神社の奥に「苔清水」という旧跡があるが、これは西行の 「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」 という歌に因むもので、この歌から西行がこの近くに草庵をつくり住んでいたと察せられ、それが高野山を拠点にしていた時代、三十五、六歳のころではないかという。

  現在、近くに西行庵なる小さな草庵が見られ、中に西行を模した木彫の坐像が安置されている。西行を敬愛する松尾芭蕉が門人とともに秋の「野ざらし紀行」と春の「笈の小文」の二度に渡って、この「苔清水」の旧跡を訪れ、 「露とくとく心みに浮世すゝがばや」 、「春雨のこしたにつたふ清水哉」という句を詠んで西行に和したが、庵には触れていないので、当時はなかったのだろう。現在の庵はともかくとして、西行は草庵に寝泊まりしながら吉野山を巡り歩き、桜刈りを楽しんだのだろうと思われる。

  碑文の歌は西行の家集である『山家集』には登場を見ず、晩年に藤原俊成に判を依頼した自歌合わせの「御裳濯河歌合」に見られ、『新古今和歌集』にも選ばれて、巻一の春歌上に見える。写真は左から竹林院の西行の歌碑、西行庵と西行像、吉野山のヤマザクラ。 西行と 芭蕉とこの身の 桜かな

 なお、「大和の歌碑・句碑・詩碑」 はこの西行の歌碑をもって百回に及び、目的を果たすに至った。まだ、気になる碑がないではないが、これを一つの区切りとして終わりとし、このブログも日々の更新にピリオドを打って、ときに記すべきものがあれば記して行くことにしたいと思う次第である。このブログを開いて頂いた諸兄諸氏にはまこと御礼申し上げる次第。もちろん、終わったわけではありませんが、とりあえず。まずは、ごあいさつまで。ありがとうございました。