大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月20日 | 写詩・写歌・写俳

<870> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (56)

   [碑文]     高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尒有良之 古昔母 然尒有許曾 虚蟬毛 嬬乎 相(格)良思吉                                                                                                                                                                            中大兄皇子

 この碑文の長歌は、『万葉集』巻一の13番に見える歌で、「香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし いにしへも 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき」と語訳されている。反歌二首をともない、第一反歌は「香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原」とあり、第二反歌は「わたつみの豊旗雲に入日見し今夜の月夜さやに照りこそ」とある。

 碑文の長歌に詠まれている香具山(香久山)、畝火山(畝傍山)、耳梨山(耳成山)は大和三山と呼ばれ、大和平野に望まれる山で、その配置はほぼ正三角形に位置し、周囲の青垣の山からは概ねどこからでも確認出来る山である。この写真の碑はこの三山を望むことが出来る桜井市三輪の檜原神社西の井寺池の近くに建てられている。 (追記) この大和三山の長歌と反歌の歌碑は今一つ橿原市白橿町の白橿近隣公園の中にも見える。私の知るところ、この二基であるが、ほかにもあるかも知れない。

                                             

  この歌は、この大和三山を男女の三角関係に擬えて詠んだもので、言わば、恋愛に関わる争いを言っているものである。この争いを聞いた出雲の神が見分に来たという次第で、これが第一反歌に詠まれているわけである。詠んでいるのは、中大兄皇子(後の天智天皇)で、第二反歌は内容的にこの長歌と関わりなく見えるので、『万葉集』の編纂者は左注において「反歌に似ず」と言っている。だが、この歌には新羅討伐の斉明天皇軍に従い筑紫に向っていたとき、播州の「印南国原」付近において詠んだのではないかとする見解も見える。

 中大兄皇子には弟に大海人皇子(後の天武天皇)がいて、この歌に見えるような女性関係から政権に関わることまで確執のあったことが『万葉集』のみならず、史実の上にも認められるところで、二人の骨肉争いは国の展開にも大きく影響したと思われる。で、この長歌は、私的なところがうかがえ、後世の目には、一つの恋愛ドラマの一場面のように楽しめるところがあるが、当時の政治状況からして言えば、単なる恋愛の三角関係譚に止まらず、その時代に展開された政治の背景も思わせるところがあると言ってよい。斉明天皇は筑紫で病没し、中大兄皇子は天皇の亡骸を都に運び、その後、即位して天智天皇となった。

 ところで、この歌はどのように読むべきか。いろんな解釈が試みられているが、主に、次の二通りが目につく。一つは「雄男志等」を「雄々しと」読み、「男らしいと」と解釈し、女の香具山が男の畝火山を男らしいとして、女の耳梨山と争ったと解するもの。言わば、女二人が一人の男を争うという解釈である。今一つは「雄男志等」を「を、愛しと」読み、「愛しいと」という意に解釈し、男の香具山が女の畝火山に愛しさを募らせ、男の耳梨山と争ったと解するものである。

  果たして、ここではどちらの解釈が適しているのだろか。神代の昔もこういう話はあったという。で、歌は、今もこのように嬬を争うようであると現実話に転じて歌をまとめている。思うに、「嬬乎相(格)良思吉」(嬬を争ふらしき)とあるから、後者の解釈、つまり、香具山と耳梨山の男二人が畝火山の女一人を巡って争ったと解するのが常道であるように思われる。

                    

  では、昔も同じようなことがあったというのは何を根拠に言っているのか。これについては、『播磨風土記』の揖保郡越部里の条に、出雲の阿菩の大神が大和の国の畝火、香山、耳梨の三山が相闘うと聞いて、これを諌めんために、播磨の国の印南国原まで出向いて来たが、闘いは止んだと聞いて、乗って来た船を覆せて、ここに留まったので、この地を神阜(上岡・かみおか)と名づけたということが語られている点がある。この三山の歌はこの『播磨風土記』の説話によったということに行き着く。そして、「虚蟬毛」(現身・うつせみ=現実)にもこのようなことがあるというのは、前述した中大兄皇子と大海人皇子の確執があったからで、ここに登場を見るのが、額田王という女性である。

  額田王は、天智天皇の妃で後に藤原鎌足の正室に納まった鏡王女の娘ないしは妹と目され、『日本書紀』によれば、大海人皇子(天武天皇)に嫁し、十市皇女を儲けている。だが、天智天皇にも寵愛されたと言われ、この三山の歌はこの秘話に関わりがあるように見られている。『万葉集』にはこの恋愛譚を物語る名高い相聞歌が額田王と大海人皇子の間に交わされ、ここでも三角関係がうかがえるところとなっている。

     あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る                                                                                     額 田  王

    紫草の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我が恋ひめやも                                                                             大海人皇子

 これがその相聞の歌で、天智天皇が近江国の蒲生野に遊猟したときの作とあり、額田王の歌に皇太子であった大海人皇子が答えた歌としてある。「人妻ゆゑに」が天智天皇をにおわせるところであるが、額田王が天智天皇に嫁したという史実はない。で、この三角関係の話は混乱して来るが、この時代の全体像から見ると、この相聞の歌は天智天皇の碑文の三山歌に関わりがあるように思われるのである。写真上段は中大兄皇子(天智天皇)の三山の歌の碑。右端は白橿近隣公園の碑。下段は大和三山(左から香具山、畝傍山、耳成山、後方は金剛葛城山脈。右端には大神神社の大鳥居が見える(桜井市の大美和の杜展望台より写す)。  新年に思ふ 大和は 神の国