大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月31日 | 写詩・写歌・写俳

<881> 食について (2)

      生きるとは食ふこと つまり あるは牛を 食らひて我らは 生きゐるところ

 で、なお思うに、雑食性の人間は、この世にある生きとし生けるものの多くをして自分の命の糧にしている。そして、人間ほど利口な動物はなく、それゆえに、まずは他の動物の食の対象になることはない。ということは、生きとし生ける生きものの中で、頂点に位置することが出来る。こうした人間の立場は権力者に等しく、自らの意志によって自由に何でも出来るから、他の生きものに対し、厳しくもやさしくもなれ、ときには横暴にもなる。この状況は、他の生きものにとって、人間ほど厄介な生きものはないということになる。このことに人間自身が気づいて「拙い」と思うことも往々にしてあることは、童話『よだかの星』が語るところと知れる。

 つまり、人間というのは、生きものの頂点にある優位性において気ままに出来る立場にあると言えるが、もし、他の生きものの不幸の上にその生を成り立たせているとするならば、これは生として完璧に幸せな状況とは言い難いと思える。こうした優位性に乗っかった立場の私たち人間に対し、蜜蜂の営みを見るに、蜜蜂ほど幸せな営みはなかろうと思えて来るときがある。花を撮影しているとき、よく見かけるその姿に見るべきものがある。つまり、次のように見える。

 咲く花は自分が子孫を残すために、蜜を出し、その蜜によって蜜蜂を誘い、その蜜蜂によって雄蘂から雌蘂に花粉を運んでもらう。蜜蜂はほかの生きものの命を奪うのではなく、花が出す蜜を自分の命の糧にしながら花の営みを助ける働きをしている。つまり、蜜蜂の営みはほかの生きもの(草木)の命を生み出すのに役だっている。植物学者の牧野富太郎は言っている。「もしも昆虫が地球上におらなくなったら、植物で絶滅するものが続々とできる」と。この言葉は蜜蜂の有益性を言っている言葉であるが、言わば、そこに展開している生の関わりは持ちつ持たれつで、この点からすれば、蜜蜂と花の関係性は、人間と他の生きものとの関係性よりも幸せであるということが出来る。

                                                                         

 そこで、更に思うのであるが、私たちは日々、美食を重ね、自分の口に合わないものは食わずに捨ててかかる。これは贅沢のなにものでもなく、現代にはこの贅沢が蔓延し、それが当たり前のようになって気づかずにいる。反面、地球上には飢餓に苦しんでいる者も多く、それを思うと、贅沢は罪ですらあるように思えて来る。罪には罰が付きものであるからは、罪な贅沢を身につけた現代人に罰が下らないはずはなく思われるが、成人病のごときがその罰と言えるかも知れない。

 これは、生きものの頂点にある人間として考えなくてはならないことであるが、人間は人間本意の考えに沿うから、この問題は解決し難いと言える。思うに、こういう現代人にはサバンナのライオンの営みを見せるのがよいように思われる。ライオンは自分の身を養うだけの狩りしかしない。ライオンのこの営みは互いの生の尊厳に通じている。欲望を欲しいままにする現代人にはそこに大きな逸脱が見られる。

 食うものは自分を養う最低限のところでよい。ところが、何でも欲しいままに出来る現代人は、毎日食い散らして飽きず、口に合わないものがあれば、容赦なく捨ててかかる。これは生きとし生けるものの生きる営みの原則に反する。これを突き詰めて言えば、現代人の食に対する感謝の念が足りない証を言っているものである。  写真は大待宵草の花に花粉を運ぶ蜜蜂と牧野富太郎の『植物知識』。 ~ 次回に続く ~