<855> 箴 言
また一つ齢(よはひ)を加へゐるところ過誤を撃つべき力欲(ほ)りつつ
埴谷雄高は『死霊』の中で次のように言っている。「真暗な地底に蹲っているちっちゃな傴僂の魔物である地霊は秘密の宝物を守りながら、暗闇を覗きこもうとする地表の探索者たちの動作の子細を永劫におし黙った奇怪な顔つきで眺めあげているが、そこに眺められるものこそ過誤の万華鏡なのである」と。
私たち耳目を持ち、見聞の内に思う身は、その耳目が万能でなく、その見聞がいかに不完全であるか、日々の端々において思い知らされ、その不完全から生じる過誤によって日夜悩むのである。この世の見聞すらかくのごとき私たちにとって、まして、地底の闇の存在はその本然の姿を見せないゆえ、それを覗き込むものの思いは過誤に寄ってあり、過誤を指摘されて已まない。しかし、地霊は私たちの過誤が真剣に生きることの証にほかならないことをよく承知しているので、奇怪な顔付きをしながらも、多少憐れみをもって眺め上げているのに違いない。
このような私たちの生ゆえにイエスの荊の冠などもあり、比喩をもって見られるのである。年を取り、齢を重ね、思うことの多い日々において、私たちに見え、されども見えざるところのもの。例えば、イエスの荊の冠。この冠を如何に見、如何に聞き、如何に認識するか。過誤にまみれながら、なおも行き、なおも思わねばならない身は、あるは知識に縋り、あるは理解力を頼みとする。ゆえに知識を加え、理解力を鍛えて行かなければならないが、それを思うにつけ、私たちの知識も理解力も過誤を撃つにはあまりにも微力であり、情けなく、惨憺としてあることを知る。しかし、悩みつつも怠らず、見、聞き、思う。そして、そこにこそ私たちが私たちとしてあることを思う。私はいま七十歳。 写真は冬雲(イメージ)。
虚位虚名虚美虚詞虚飾虚華虚栄 虚虚虚虚虚虚の虚虚の彩
全能にあらざるものの証明の人間まさに我の懐疑よ
理解力及ばざるまま来し思ひ 青葉の香(かほり)この上もなく
何処にか生(あ)れし冬雲 何処へか何処へか我が心の行方
地にありて天に憧れゐるものの我ら即ち恋ふるものなり